第3話 黄昏の賢者

(……ここは)


 意識の浮上。緩やかな覚醒。ゆらゆらと微睡みの中でトーリは目を覚ました。

 覚醒と共に身体を伝わってくる感覚もゆっくりと戻ってくる。

 姿勢は仰向けだ。背中の硬い感触で何故か頭の部分だけ柔らかい。胸からは下は濡れた感触があり、服がまとわりついて気持ちが悪かった。ずぶ濡れのはずなのに身体は冷えることなく温かい。前後の記憶が随分と曖昧だ。


(何でこんなことになっているんだっけか)


 視界は定まらない。頭を上げようとして酷く重いことに気付く。


(――ッ! そうかあの時、俺は狂戦士ベルセルクになって……!)


 霞が掛かっていた頭の中がはっきりしてくるに従って、経過を思い出す。

 思わず身体を動かそうとしたが、やはり頭と同様に重くて動かすことが難しかった。


(そりゃそうか。致命傷だったしな。既に痛みも感じないか……。それに心地良い気分だ……)


 あの傷を受けて助かる見込みは無いだろう。恐らく死ぬまでの僅かな時間に意識が戻ったのだ。


(短い人生だったし、悔いも残るが、こうして安らかに逝けるならそれも悪くない……)


「何勝手に死ぬ方向の安らかな顔をしておるか! 貴様の傷は今癒しているところじゃ!」


(ああ、この声は少し前にも聞いた気がするな……)


 少女の声で性悪なラスボス的な話し方をする幻聴など、随分とニッチな趣向だなとトーリは思う。一人称が『我』って何だよ、と思う。自分は正常ノーマルだと思っていただけに、トーリ自身にすら隠されていた変態嗜好アブノーマルに遺憾の意を送る。もう死ぬから特に興味は無いが。


(そもそも俺はお淑やかで大人っぽい、そして胸は平均以上で肉体的にも精神的にも包んでくれるような女性ひとが好きだと思っていたが……)


「なんか今すっごい失礼なことを考えているじゃろう! 貴様、我が精巧な魔導を駆使して治してやっているというのに感謝の一つもないのか! 感涙にむせび、平伏して足を舐めてもまだ足らんというところを、感謝の言葉一つで我慢してやろうという我の慈悲を無碍にしおって!」


 なんかとんでも無いことを言われている気がする。


(ああ、この少女ひと駄目なヒトだよ……。それが俺の脳内人格であるという時点で、俺もブーメランで駄目なひとだったのか……)


 自分の正常性を最底辺まで下方修正しつつも、トーリは静かな気持ちで終わりの時を待った。時期に死が全てを無かったことにしてくれるだろう。この黒歴史はトーリが責任を持ってあの世までもって行くのだ。もうあの声は無視しようと決める。身体は既に動かすことは出来なかったが、奧から熱が込み上げてきて全身を温かさが包む。心地良い。遂に最後の時が来たのだ。


「だーかーらー! 貴様も強情な奴だな! 今動けないのは欠損部位の再生に身体の活力を回しておるからじゃ! 欠損が回復すれば時期に体力も戻るわ!」


(俺を生んでくれた父さん、母さんありがとう。まあ会ったことも無いけどな。もうすぐ会いに行くからな。あと俺なんかと付き合ってくれた友人もありがとう。みんな感謝だ。ああ、眠くなってきた。さて、逝くとするか――

 ……

 ………

 …………

 …………………………………………おや?)







「お……れ、生き……てる?」


「だから、言っとろうがあああああああ!」


 あまりの驚きに喋ったら声が出た。擦れた声だったが確かにトーリ自身の声だった。しかもトーリの声に幻聴少女が反応して絶叫した。


「なん……でだ? ちめい……しょう……だったはずだ」


「治せる我がいたからよ! 我に遭えた己の幸運と、超絶技巧を有する我に深く、深海の底よりも深く感謝するんじゃな!」


 幻聴少女はどうやら実在しているらしい。にわかには信じがたかった。ラスボス的な話し方をする少女が実在するという事実もだが、トーリの傷が治癒したということについてだ。あれだけの傷を治すには、医学の最新機器と高階級の治癒術士を駆使してもまだ足らないだろう。それでもし治ったとしたら、奇跡と称賛されるレベルだ。迷宮ダンジョンの中で片手間に治せるような傷では決してない。


(だが治して貰ったのだとしたら、少女の言う通り感謝してもしきれないな……)


「すまな……い。ごかいして……いた……かんしゃ…する」


「――ッ! ふんッ。分かれば良いのだ。分かれば。クククッ。それに借りは返してもらうぞ。骨までしゃぶり尽くすつもりじゃから、覚悟をしておくのじゃぞ! 絶対服従じゃ!」


 一瞬少女の声は言い澱んだ後、いけ高々に宣言する。


(ああ、この子が俺の脳内人格じゃなくて本当に良かった……)


 救命の対価を要求するのは当然のことだが、救命者の性格にやや難があった。トーリは自身が正常ノーマルであったことを感謝する共に、夢の中で聞いたと思っていた声もこの少女だったのだろうと、思い至った。あの時も朧気ながら、四文字熟語を会話の中に使う奴は好きにはなれないと思ったのだ。その気持ちはトーリの中で今強くなった。

 それにしてもあれだけの傷を治して貰った対価は非常に大きいはずだった。トーリはこれから来るであろう借りの清算について考える。金銭で解決するのであればかなり好都合、従者として傍に控えて借りを返すのが次点。最悪、奴隷紋の行使による、少女の奴隷化を覚悟する必要があるだろう。


(運が良いんだか、悪いんだか……だな。命の対価はそれだけ重いってことか)


「わかっ……た。かくご……する」


 トーリの返事に少女の声はふふん、と満足した笑いを漏らした。ふわりと少女特有の甘い匂いがトーリの鼻腔をくすぐる。顔にわずかに影が射した。そこで改めて今の身体の状況が気になった。そもそもこの頭の柔らかいものは何なのだろうと再度意識が向かう。

 トーリは薄く目を開く。視界はぼやけて居るが随分と視界もはっきりしてきた。そしてトーリの視界が像を結び、こちらを覗き込んでいる少女と目が合って驚く。新緑色の髪と赤眼を持った美しい少女がこちらを覗き込んでいた。いや少女というよりも更に幼い容姿だ。恐らく一〇歳にも満たないだろう。まるで人形の様に均整の取れた顔に真っ白な白磁の肌。赤い眼というものは初めて見たが、その瞳には意志の力が宿ったような燃える赤で猶更美しさを強調していた。

 少女も突然トーリと目が合ったせいで驚いたのだろう。ボ、と音がするような勢いで顔を赤くした。


(何だ……まだこんな小さい女の子じゃあ無いか)


 そんなことをトーリは思う。ただの女の子が迷宮ダンジョンの深層に独りでいるはずも無いのだが、そこまでの頭はまだ回らない。幼さを考えると今まで、強がったり、変に拘った口調を取っていたのも頷ける。背伸びしたい年ごろなのだ。幾分声の主に抱いていた不信感が和らぐ。変人から背伸びをしたい変わった女の子といった印象だ。

 トーリが黙ったのを見て少女は何か勘違いしたのだろう。慌てた様子で弁明を始める。


「ここここここれはアレじゃ! 膝枕をしているのは、特に深い意味は無いのじゃぞっ! 気が迷ったというか、何の気無しにやってみようと思ったというか――そうじゃ! 身体を接触させていた方が魔術の通りが良いのでな! それで仕方無くじゃ! 信じよ! 仕方無くじゃぞ!」


 思考がゆっくりになっているトーリには、膝枕の理由については良く分からなかったが特に悪意があってやってたことでないことが分かった。そもそも悪意を持って膝枕をする人間はそうはいないだろう。救ってくれた礼を言おうと、手を伸ばす。

 簡単な動作のはずなのに、やたらと重労働だった。普通に行うのの一〇倍以上の労力と時間を掛けて、ポンと少女の頭に手を置く。


「あり……がとうな。たすか……った……。なま……えは……?」


 純粋に礼を言いたかったのだ。礼儀はなっていないと思ったが、形式を越えて感謝を伝えようと思った。

 もともと紅潮していた少女の顔が更に林檎のようになって硬直した。湯気が出てきそうな勢いだ。

 トーリの腕が限界を迎えてパタリと落ちる。体力の限界だった。たったあれだけの動作がトーリの体力をごっそり奪ったらしい。一気に睡魔が強くなり、瞼が重くなる。

 固まったままだった少女が現実に帰還し、トーリに撫でられた頭を両手で抑えてプルプル震えている。眠気と戦いながら、少女は意を決したように顔を上げた。その顔には酷薄そうな笑みを浮かべようとして失敗している顔があった。顔だけは冷酷そうだが、顔の赤さが抜けてない。


「ふんッ! その愚かな脳に焼き付けるが良い。我はジュリエッタ=リンクス=アーデルハイド。長命種メトセラの筆頭、アーデルハイド家の当主にして、黄昏の賢者じゃ! 鮮血の魔女ともいわれる事もあるな!」


(そんな不穏な二つ名を嬉しそうに語るなよ……)


 ジュリエッタは明らかに堅気には付かないタイプの二つ名を、早口に捲し立てる。逆に何をしたら鮮血の魔女などと危険な香りしかしない名前が付くのだろうか。それに、瞳の色も髪の色も普通の人間には無い色なのは、長命種メトセラという種族だからなのだろう。自己紹介をされて色々な疑問が浮かぶが、今は確かめる方法も無い。


「くろさわ、とうりだ……」


 とりあえず疑問は置いておいて、トーリもそう自己紹介した。口がまだ回らないから、身分や階級などは後回しだ。


「トーリか。中々良い名じゃないか。よし、トーリ。最初の命令じゃ」


 ジュリエッタと名乗った声は、嬉しそうにトーリ、トーリと何回か反芻すると切り出した。そろそろ本当に限界だった。いつ意識を失ってもおかしく無い。


「なん……だ?」


 睡魔と戦いながら、必死にジュリエッタに応答する。


「とりあえず体力回復にはまだ時間がかかる。故に、今は寝るがよい!」


 頭部を衝撃が駆け抜けた。顔を赤くしたジュリエッタに握り拳で殴られたのだと気付いたのと、その衝撃に意識が持ってかれるのは同時だった。

 若干さの理不尽さを感じながら、トーリの意識はまた闇に沈んだ。

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