第10話 覚醒前夜②


 「さっきと同じように、籠を持ってみてくれませんか?」


 「籠をですか?」


 「はい」


 アリアはこてんと首を傾げながらも、つい先ほど自分が置いた籠を持ち上げた。


 「そうです。今、肘を曲げて、籠を体に寄せるようにして持っていますよね?」


 アリアが首を縦に振る。


 「それは、力の入りやすい形がそうなっているからです。特に意識をしていないところで、私たちは自然と楽な形で体を使っていることが多いんです。では、籠を持ったまま腕を伸ばしてみてください」


 「あっ、重い」


 ゆっくりと伸ばされたアリアの腕は、すぐにぷるぷると震え始めた。


 「はい、すみません。もう下ろしていいですよ」


 小さく息をはいて、アリアが籠を置く。カラン、と空瓶が涼しげな音を鳴らした。


 「今みたいに、体から距離が離れれば離れるほど、力は出しにくくなってしまいます」


 アリアはなるほどと頷いた。


 その様子を確認して、玄道はさきほどのアリアの状態を再現しながら説明を続ける。


 「はい。なので、相手との引っ張り合いになって腕がピンと伸びた状態では、逃げ出そうにも上手くいきません。不可能とまでは言えませんが、この場合、やはり相手よりもある程度力が必要になってきます。アリアさんは華奢なので、相手が男性だと単なる力押しでは厳しいものがあります」


 華奢、と言われたところでアリアは密かに顔を綻ばせたが、


 「もう一度、さっきと同じように手首を掴んでもらえますか」


 すぐにきゅっと引き締めた。


 「はい」


 「相手から体を逃がすようにして距離をとるのではなく、さっき籠を持ち上げたときのことをイメージして、逆に相手に近づきます」


 玄道は自身の肘がしっかりと曲がるようにアリアの方へ体を寄せた。


 「掴まれている手首と自分の体の距離を近づけてしまうんです。それから、相手の肘と自分の肘とを近づけて、手首を捻る。あとは反対方向へ逃げると同時に、自分の腕を引くだけ」


 するりと、いとも簡単に玄道の手首が解放された。


 「すると、こんな風にして逃げることができます。大丈夫そうですか?」


 「は、はい! 大丈夫です!」


 「それじゃあ、アリアさんもやってみてください」


 「はい!」


 アリアは手首を取って玄道の方へ体を寄せながら自身の手首をひねり、腕を振った。


 「んっ……あれ…………? 上手くいかないです……」


 「腕に力を入れて振るというよりも、自身の肘を固定して、そこを支点にクイっと軽く引き寄せる感じです」


 「くいっ」っと小さく声に出しながら再び挑戦すると、アリアの腕は見事に玄道の拘束から逃れた。


 ただがむしゃらに逃げようとするのではなく玄道が見せた動きをトレースするように体を動かしてみると、呆気なく成功してしまった。


 「すごい! 私にもできちゃいました!」

 

 「はい、完璧です。でも、抜け出た後に相手から距離をとることを忘れないでくださいね」


 成功したことによる高揚と恥ずかしさによって、アリアは顔を火照ほてらせた。


 「……はい…………」


 「はい」とにっこり笑って、玄道は続ける。


 「これは、両手で掴まれた時も同じような形で対処することができます。それと」


 玄道は腕を差し出し、もう一度アリアに手首を掴ませた。


 「相手の手をはがしたいなら、ただやみくもにするのではなくて、指を一本だけ取るというのが効果的です。一応どの指でもいいのですが、一番は小指ですね」


 言って、玄道は彼の手首を掴んでいるアリアの手、その小指をとって、関節とは逆に曲げた。


 「っ! 痛い痛いっ、痛いです!」


 「ああ、すみません。ちょっとやり過ぎましたね。大丈夫ですか?」


 謝りながらも、玄道は相変わらず爽やかな笑みを携えている。


 「はい……」


 ぷらぷらと手を振るアリアの指に異常がないことを確認した。


 「こんな風に、人間の体は指一本で支えられるようにはできていません。特に小指は。ですが、これでも逃げられないような場合もあると思います。そういう時は、打撃で直接相手を攻撃してください」


 「直接ですか……?」


 「はい。では、もう一度いいですか?」


 差し出された玄道の手首を、今度はおそるおそる掴んだ。


 アリアは、普段と変わりない穏やかな調子で指導を続ける玄道をみて、「実は少し怖い人なのかも」と思い始めていた。


 「相手を怯ませるのに効果的な場所はいくつかありますが、やはり、顔周りが分かりやすいと思います。例えば、こうして、手の甲で顔面をはたく」


 玄道がアリアの眼前で寸止めして見せると、アリアは大きく仰け反った。


 「すると、こういう風に相手が怯んでくれます」


 「手の甲というのには何か理由があるんですか?」


 「はい。破壊を目的とするなら拳の方がより有効ですが、顔は骨が集まっている部位なので、下手に拳を出すと自身の骨を折りかねません。先の話にもつながりますが、特に小指の骨はもろいです。慣れないことをすると、案外あっけなく折れてしまいます」


 「なるほど…………」


 「顔面、といいましたが、正確に言えば眉間、目の辺りです。手は力まずにぶらぶらさせて、スナップを利かせる感じです。力を入れると相手に初動を感づかれてしまいますし、上手く当たりません」


 「あるいは、こう。または、こう」と、玄道の手のひらはアリアの耳と顎を順に寸止めしていった。


 「耳を平手で打ちます。上手く当てると鼓膜が破れます。すると平衡感覚を失うので、その隙に逃げてしまいます。ただ、これをすると相手に後遺症が残る可能性があります。大抵の場合鼓膜はすぐに回復しますが、もしそういったことが気になって躊躇してしまうのであれば、顎です」


 つらつらと流れていく物々しい言葉にたじろぎながらも、アリアは懸命に頷きを返していた。


 「手のひらを下から斜め上に持ち上げるようにして、相手の顎を押します。ちょっと、やってみますね」


 「えっ……」


 アリアの困惑をにこにこと受け流しながら、玄道はゆっくりと彼女の頭を後方へやるように顎を押し上げた。

 彼女の重心は後方にずれて、踵に体重が乗る。そうして、自然、彼女は足を後ろに下げた。


 「こうなったら、後は相手の足を引っ掛けてやるだけです」


 倒すまではいかず、最後は寸止めで説明を加えた。


 「はぁ……すごいです…………」


 「ただ、手の甲や手のひらを使うには、当たり前ですが、片手があいてないといけません。もしも両手が使えない状況であれば、股を思い切り蹴り上げてください。普通の人であれば、まず悶絶しますから」


 玄道は爽やかな笑みを深め、アリアは顔を歪めて「あはははは」と乾いた苦笑を洩らした。


 「さすがに今実践することはできませんけどね。厳しければすねでも大丈夫です。…………っと、簡単に教えられるのはだいたいこんな感じですね」


 「すごいです……。こんなにいろいろな技があるとは知りませんでした」


 「はい。でも、これで大立ち回りしようだなんて考えちゃだめですよ? あくまでも、こういったものは最終手段なので」


 「最終手段、ですか?」


 「ええ。まず一番大事なのは、そんな状況に陥らないようにすることです。危なそうなところには近寄らないとか、そういったことですね。それで回避できなければ、次に、接触する前に逃げることはできないか考えること。それも無理なら、武器になるものが近くにないか探すこと。今の状況であればちょうど、こういうのですね」


 玄道は籠に寄り、酒瓶を一本取り出した。


 「こういった凶器となるものを持つだけで、かなり威圧感が増します。それが女性や子供であっても、錯乱していない限り、相手が普通の人であればその時点で退散することを考えます。実際にするかは分かりませんが、隙は生まれるはずです。ただ、それでも襲い掛かってくる場合は、躊躇なく使ってくださいね」


 瓶を元に戻す。


 「そして、周囲にそういったものも見つからなければ、最後に、さっきの手段です」


 玄道がアリアの手首を掴むと、アリアは教えられたようにテコの原理を利用して脱出した。


 「はい、そうです。ただ、覚えておかなければならないのは、そういった状況に陥った時、今の私のように突っ立ってくれるような人はまずいない、ということです。それに、対格差が大きなハンデであることには変わりありません。重要なのは、打撃を含め、これらを躊躇なく使うこと。そして、隙を見つけたらすぐさま逃げることです」


 「は、はい」


 そこで、裏口の扉が開いた。


 「あっ、いた!」


 「ごめん! 今行くから」


 他の従業員がなかなか戻ってこないアリアのことを探していたらしい。


 「あの、ありがとうございました!」


 ぺこりと勢いよくお辞儀をするアリアに、玄道は柔和に返した。


 「いえ、これはお礼ですので」


***


 食堂の盛り上がりが静まった頃、玄道は宿の一室に戻り、月明かりで淡く照らされる中瞑想をしていた。

 

 そこで、これまでに感じたことのない何かがあるのを知覚した。


 へその少し下、丹田の奥の方に何かがある。

 これが普段よりも調子が上がっていた原因だと玄道は確信し、さらに意識を深めた。


 もやもやと、何かがわだかまっている。

 集中していくと、それは徐々に徐々に明確な輪郭を持ち始め、そして、深い紫色に色づいた。


 とぐろを巻くように、ゆったりと時計回りに回転している。

 毛糸がくしゃくしゃに集められたような、そんな何かだ。


 ゆっくりと攪拌かくはんされていくうちにじれやほつれがなくなっていき、それは、綺麗な渦を描いた。


 まゆを引き延ばすように繊細に、手繰るように意識を寄せると、するすると細糸の流れが生まれた。

 

 そして、糸が血管に沿って体内を循環し始める。


 始めのうち、その流れはゆるゆるとしたものであったが、一分としないうちに血流との同期を始め、綾なすように、血と紫の何かが紡がれていった。


 玄道は違和感を覚えていたが、これが自身に害を及ぼすものではないということだけは何故だか確信できていた。

 むしろ恩恵のようなものなのであろう、とも感じていた。


 そこで、『魔術』という言葉を思い出す。


 これがそれに通づる何かであると直感が訴えていた。


 玄道は、これまでにない充実感のたぎりに身を任せた。

 新たなる成長の喜びに口端を持ち上げたが、すぐにそれを冷静にとらえ直し、深く瞑想を続けた。


 その気持ちに応えるかのように、今すぐにでも順応しようと、玄道の細胞は迅速に再構築を行っていった。

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