第1章 敵対する世界
第3話 宿屋①
玄道は、ベッドの上で目を覚ました。
身体に異常はない。
いで立ちは記憶にあるものとは違い、見覚えのない革製のチュニックにズボンを着ていた。
少々ごわごわするが、不快を感じるほどではない。
木造の部屋にあるものは、玄道自身が座るベッドと、申し訳程度の小さなテーブルにイス。
それと、テーブルの上にある布袋と畳まれた衣服だけ。
玄道はそれらを確認して、宿屋のようなところなのかもしれないと一応の当たりをつけると、胡坐をかき、
起床直後と就寝直前における瞑想は、玄道のルーチンワークの一つである。
自身の内側に意識を向け、自然体になる。
時間の流れに逆らわないよう、過去や未来には目を向けず、「今」という生きた時間の中に身を任せる。
深い瞑想状態に入ってしばらく、玄道はゆっくりと
日課をこなした玄道は、そのまま視線を横にずらした。
一つの小窓がある。
そこから侵入する暖かな陽気が、部屋の中を照らしていた。
玄道はベッドを降り、窓から外を眺めた。
「おお、…………すごいな」
見下ろすと、幅広の道が左右に長く伸びており、その石畳の上をカラカラと馬車が平然と行き交っている。
人々の服装は、チュニックにズボンという今の玄道に似たり寄ったりのものが多いが、ちらほらと、華美なドレスを身に纏う女性やヴェストの上にビロードのコートを合わせた男性も見られる。
ローブ姿の人までいる。
時代錯誤な風景を眺め、本当に別の世界に来たのだなと、玄道は認識した。
視線を上げてみると、少し先の方に、向かいの建物の背丈を遥かに超える、細長く尖った屋根を持つ塔が映る。
あんなに高い建物もあるのだなと、玄道は感心しながら視線を戻し、そこでふと、向かいの建物にかかる看板が目に留まった。
そして、驚くべきことであるが、その見たこともない文字をすらすらと読むことができてしまった。
「ははっ、本当にすごいな」
玄道は、呆れたような、降参したような笑いをこぼした。
そして、もしかしたらと思い、看板から目を離して宙で指を動かす。
「ああ、すごい」
玄道の予想通り、ちらと見ただけの看板の文字を、確かな自信をもって
またそれだけでなく、自身の名前を発声することすらもできた。
どうやら、日本語と中国語、英語の他に、この見ず知らずの言語が頭に入っているらしい。
「けっこう頑張ったんだけどな」
玄道は苦笑しながら、中国へ留学した時のこととアメリカへ居を移した時のことを思い浮かべたが、とりあえず言葉の問題はないようだと判明し、安堵した。
そうして興奮を落ち着けると、玄道は下の階からがやがやと賑やかな声が聞こえてきていることに気がつく。
テーブルに寄り、布袋の口を開けて中を覗くと、銅でできたコインと銀でできたコインが数枚ずつ入っていた。
玄道は、神が「最低限のお金を用意する」と言っていたのを思い出して、これがそうなのだろうと納得する。
何やら紋様が彫られているようであるが、数字が書かれているわけでもないため、その価値を推し量ることはできない。
とりあえず布袋の口を縛り、チュニックの上で腰に巻かれているベルトに括り付ける。
次いで、畳まれたダークブラウンの服を手に取って広げてみると、マントのようであった。
着慣れないそれも羽織り、準備完了。
玄道は、下の階に降りてみることにした。
少し軋むドアを開けて外に出てみると、狭いながらも廊下は長く続いていて、部屋数もけっこうありそうだ。
突き当りにある折り返し階段を一段降るたびに、喧騒がはっきりとしていく。
その中ほどで階の様子を窺ってみると、食事をとる人々で活気づいているらしい。
食堂になっているようだ。
多くはテーブル席だが、厨房に接する形でカウンターもある。
時間が分からないため、これが朝食であるのか昼食であるのかも判別がつかないが、空腹を感じていた玄道は、そうったことも含めて情報を得るチャンスだと思い、堂々と歩みを進めて出口側に近いカウンターの隅の席に座った。
玄道は、何か他の人の会話からつかめないかと耳を傾けていたが、大勢の言葉が混ざり合ってまともに聞き取ることができないと分かると、ベルトに結わえていた布袋の紐をほどいて、布袋をカウンターの上に置く。
「すみません」
手を挙げながらやや声を張り、近くを通りがかったウェイトレスを呼んだ。
「はい! すぐ行きますね!」
玄道の低く芯のある声は喧騒の中でもよく通り、ここの制服なのだろう、黒のエプロンを着た、成人になったかならないかといった風の利発そうな年ごろの少女が、玄道へ振り返ってこたえた。
少女は、既に客の去ったテーブルの上に残る皿をちゃかちゃかとこなれた様子で重ね合わせて手のひらに載せると、茶髪のポニーテールを右に左に躍らせながら、玄道のわきにあるスイングドアをすり抜けて厨房に入り、流しに皿を置いた。
そして、スイングドアの揺れが収まらぬうちにそそくさと戻ってきて、「すみません、ご注文を承りますね」と人好きのする笑顔で言う。
「はい、ありがとうございます」
言いながら、玄道は布袋の中身を確認し、
「では、とりあえずこれで買えるものをください」
と、銅貨を一枚取り出した。
それを見て、ウェイトレスの少女に一瞬困ったような表情が浮かんだが、それもすぐに微笑みに転じる。
「ふふっ、さすがにこれじゃあ何もお出しできませんよ?」
冗談を言ってからかっているんですね、と言うように、少女は返した。
しかしそこで一瞬の間があき、どうやら冗談というわけではなさそうだと察すると、すかさず少女は続けた。
「これ、ちょっといいですか?」
少女はカウンターに載る布袋を指し示し、「はい」と玄道が了承するのを見ると、そこから銀貨を一枚取り出す。
さらに、「パン、だけじゃ足りないですよね? 体大きいですし」と、玄道の方を窺いながら間断なく言うと、もう一枚銀貨を取り出した。
「パンとスープでこれだけになります」
玄道の取り出した銅貨を布袋に戻しながら、商売根性を覗かせた少女はニコニコ顔で言った。
玄道は少女の熱意に少したじろぎ、そのまま「じゃあ、それでお願いします」と口を開きかけたが、そこに割って入る声があった。
「一応、昨日の宿代に朝食のパン代も含まれてるぞ」
カウンターの内側で包丁を振るっている店長らしき風貌の男が言う。
一日はまだ始まったばかりらしいと、玄道は思いがけず得られた新たな情報を歓迎した。
玄道が泊っている状況に何の疑問も持たれていないということについては、先ほどまで全く知らなかった言語ですらすらと会話が成立しているという体験もあって、あまり驚きはしなかった。
そして、余分な出費を避けたい玄道は、男の言葉をありがたく受け取った。
「それじゃあ、すみませんがパンはなしで……」
玄道は申し訳なさそうに、おずおずといった調子で少女に向かう。
せっかく売れるとこだったのにと、わざとらしい抗議の表情を男に向けていた少女は一転、「いえいえ! お客さんが謝られることじゃないですよ」と、両手を体の前でわたわた振った。
そうして、「おーい、アリアちゃーん」というテーブル席から上がる声に反応して、「はーい! 今行きますねー」と背をひるがえしてフロアに戻っていった。
玄道はアリアの背を見送るとカウンターへ向き直る。
それから程なくして、男がカウンター越しに、玄道の目の前に器を置いた。
トマトスープみたいだ。
赤いスープの中に、とろとろに煮込まれた野菜が入っている。
作り置きしていたものなのだろうが、湯気にのって立ち昇る香りにひどく鼻腔がくすぐられた。
「割符はあるか? それがなきゃ、パンは出せないんだが」
男が言う。
当然、玄道には心当たりがなかった。
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