◆17・邂逅からの解離

 黒刀の炎が、滑らかな岩肌を照らす。

 雫が、天井から伸びる巨大な鍾乳石を伝い落下して、受け皿と化した石に、穴を穿っていく。

 洞窟の内壁は長年に亘る雨水の浸食により波打つような曲線を描いており、積み重なった地層が織り成す等高線は、人力では到底模倣し得ぬ壮大な芸術へと昇華されていた。


 その曲線美の上を無音で素早く這い回る、歪な影が一つ。

 壁面が真下を向くような強傾斜でも八本の細長い節足で構わず進み、ゼノア達の後上方、死角から四対八つの灼瞳を輝かせる。

 茶と黒の短毛を持つ蜘蛛のようだが、人里で見かけるものとはサイズが格段に違う。


 腹部は一般的な成人男性の顔よりも大きく、頭部は拳大で、幅広の口腔には小指ほどの鋭い牙がずらりと並んでいる。

 体躯のサイズに比しても不自然なほど大きなその牙が、微かに蠢く。


 ゼノアの後ろを歩くフィーの真上に辿り着いた歪な蜘蛛は天井から身を離し、垂直落下。

 落ちながら上下反転し、フィーの白き柔肌を食い破らんと、牙を剥いた。

 フィーはその狂牙に全く気づいていない。

 だが、


「けっこう多いな、蜘蛛」


 蜘蛛の落下先に、突如火炎を纏う黒刀が出現した。

 そのまま回避する術もなく、ジュッ、と短い音と共に焼かれて白煙と化す。

 常に【天征眼】を展開しているゼノアには死角などなく、蜘蛛の存在は最初から感知されていた。


「あ、ありがと。音も無く近づいてくるとか……うぅ、怖すぎだよぉ」

「虫苦手?」

「いや、流石にあれだけ大きいのは気持ち悪いって。僕はこれでも山奥の出身だから、虫には慣れてる方なんだよ?」

「ふーん?」


 通常の蜘蛛なら、造網性でも徘徊性でも、せいぜい自分と同じ程度のサイズまでしか捕食しない。

 しかしここの蜘蛛は、自分より遥かに大きな人間を積極的に狙ってくるのだ。

 当然、分類は魔物である。


「でしょう? もしあんなのが街で出たら、安心して寝られないよね」

「確かに。それは笑えない」


 言に反して微笑を浮かべながら、ゼノアはまた真っ直ぐ歩きだしていた。

 曲がりくねった洞窟を、その綺麗な自然の造形物を、己の道を阻む障害として黒刀で圧縮粉砕しながら。


「僕はもうこれまで遭遇した魔物のお蔭で、今夜まともに眠れそうもないよ。……あ、そういえば、さっきさ」

「ん?」

「えーと、どうして回復の聖法術が亡霊に効くって分かったの?」

「あぁ。そりゃあれだ、単なる副産物だな。俺はただ自分を回復して、フィーを助けようとしただけだから」

「ほうほう。じゃあ、ゼノアにも分かんないか。なんで嫌がったんだろうね?」


 首を捻るフィーの疑問に、ゼノアはさも当然のことのように淀みなく答えを紡ぐ。


「逆の性質だから、だろ。恨み辛みの【負の感情】で凝り固まったアイツラは、陽陰の分類で言うと【陰】。聖法術の回復は、生命力を与えて穢れを祓う【陽】だ」

「反目する性質だから、力の強い方が、弱い方を押しのけた?」

「ああ。肉体という鎧を持っていれば温泉に浸かる程度で済むが、肉体を持たずに霊体や幽体で直接触れれば、マグマに全裸で飛び込むようなもんだ」

「……それは、冗談では済まないね」


 例え話の光景を想像したのか、フィーは蒼い顔で身震いした。


「ま、退魔用の法術使った方が効率的なんだろうけどな。あいにくと勉強不足でね」

「そもそも記憶無いし?」

「だな。俺がこれまで披露した知識は、【全智の泉】からの借り物に過ぎない」

「全智の泉……神の記憶領域、か。そこからもっと引っ張り出せないの?」

「閲覧制限があるようだ。直接視たものは情報を取得して解析できるが、見たこともない情報には触れられない」

「へぇ? ……なんでだろうね」


 フィーは顎に手を当て、考え込む。


「ま、自分の足で見に行けってことだろ」


 話しながらも岩壁を圧縮消尽させていたゼノアの先に、これまで掘り進めてきた茶褐色の岩盤とは異なる色が現れた。

 木目調の、重厚な黒。


「これは……黒檀のテーブル? その残骸か」

「ぼろっぼろだね」


 折り重なるように腐り崩れた木材の破片をどかし、先の空間へと身を滑り込ませる。


「はぁ~! やっと広い場所に出られたよ……」


 窮屈な岩窟からは正反対な広い空間が、そこにはあった。

 荒れ果てた、かつての文明の跡。

 あちこちで積み重なっている朽ちた椅子やテーブルの残骸をどかせば、サーカスの公演を開けそうなくらいには広い。

 しかし水の侵食にやられたのか床板もかなり腐敗が進んでいて、身軽が取り柄のピエロでも踊れば落とし穴を穿つだろう。


「さて、しばし待つか」

「ん? どうしたの?」


 ゼノアは辛うじて原型を留めている椅子を二つ拾い上げ、埃を払って地面に置き、その上に乱雑に腰を下ろした。


「まぁ座って休憩しとこうぜ。もう少しで分かるさ。向こうから来てくれてんだからな」

「もしかして……例の探知法術を仕掛けた人? ってそれ、軍だよね」

「ああ、片方は」

「のんきに待ってて大丈夫かい? 見つかったら、捕縛されるんじゃないかなぁ」

「はは、かもな。そんときゃ面倒くせぇから、ぶっ倒して逃げるぞ」

「ええぇ……」


 軽々しく怖いもの知らずな発言をするゼノアに辟易とするフィーだが、この人には何を言っても無駄と判断し、自身も座ることに。


 それから数分後。

 瞑目し、うつらうつらと頭を揺らしていたゼノアが、不意に瞼を開く。

 目ボケ眼の射抜く先には、暗闇で何も見えない通路がある。


「……ん、来たの?」

「ああ」


 フィーの問に、通路から視線を外さず短く応じた。

 程なく現れたのは、淡い白緑の光球。

 それを照明代わりに後から歩いて来たのは、騎士らしき小隊だった。

 総勢五人が皆一様に白と蒼の軽鎧を纏い、各々異なる武器を所持し、整然と隊列を組んで此方に向かってくる。

 その内の一人が、法術通信を行った。


「……対象を視認。指示を……了解」


 短い通信の後、手信号で合図し、全員に意思伝達がなされる。

 彼我の相対距離が十mを切った頃、先頭の騎士が口を開いた。


「その方、ゼノア=ソレイユ殿とお見受けするが、相違ないか?」


 声質は青年男性。

 頭部の上半分を覆う意匠の凝った兜のせいで、表情は見えない。


「ああそうだが……何か用? てか、どっかで会ったことない?」


 ゼノアは足を組み膝の上に肘を乗せ、頬杖をつきながら半眼という、寝る気しか感じられないスタイルで言い放つ。

 実際、寝落ち寸前である。


「……いや、いま初めて会った」

「そう、か……」


 何か思い出せそうで出せないらしく、ゼノアは首を捻るばかり。


「二人とも、我々に同行してもらうぞ」

「……何故?」

「ここは我々王国軍が管理する遺跡であり、一般人の立ち入りは許可されていないからだ。どこから侵入した?」

「はぁ……そうなの? 散歩中にデカイ穴見つけたから……そっから、興味本位で入ってきただけなんだけど」


 会話していても、眠気はあまり改善されないらしい。

 声が間延びしている。


「ふむ、土砂崩れで穴でも開いたか。塞がねばならんな。貴殿らが来たのはそちらの道からか?」

「……ああ。けど、途中危険な場所があったから、――ふあぁ……外から回ることを、オススメするぜ……」


 あくび混じりの返答。

 言い終えると、遂には目を閉じた。


「危険? 何があった?」

「え? んーと……何だっけ……?」

「……亡霊が襲ってくる橋、巨大蜘蛛が徘徊する洞窟、なんてのがあったね」


 脳がスリープモードへ移行したゼノアの代わりに、フィーが返答を紡ぐ。


「ほう? それは新情報だな。我々は長らくここの調査を続けているが、そのような区域に立ち入ったことはない」


 詳しく教えてくれ、という騎士の要請に応え、フィーは自らが経験したことを隠さず説明した。

 その場への道順や地形、魔物の規模や能力など。

 聞き終えた騎士たちは、一様に兜に包まれた顔を見合わせて首を捻っている。


「……にわかには信じがたいが」

「だけど、これが本当なら大問題ですよ?」

「ええ。放って置けないわね」

「……ふむ……」


 声質から判断するに、ベテラン中年男性、新人女性、先輩女性というところか。

 最後の一人は無口過ぎて、年齢性別の見当がつかない。


「で、どうするの?」


 先輩女性が、青年騎士に問う。

 判断を仰がれるということは、この青年が隊長格か。


「……そうだな。別部隊の到着を待って、我々はそちらの調査に向かおう。先程の通信では、あと数分で合流できそうだと言っていた」

「了解」


 話がまとまって、青年騎士はゼノアとフィーに向き直り、口を開いた。


「すまないが、もう少しここで待っていてくれ。別部隊が到着したら、そちらに引き渡す。そこから先は、あちらの指揮官に従ってもらう」

「うん、わかっ……」

「指示、ねぇ」


 ボソッと呟いたゼノアの声が、フィーの返答を止める。

 聞き流すには、少し声量が大きかった。


「……何か不服か?」


 青年騎士の声に、僅かだが剣呑な響きが乗る。


「いや……そういうわけじゃねぇんだが」


 そう言って薄暗い天井を見上げたゼノアの視線は、どこを見ているのか、焦点が定まっていない。


「なら一体……」

「お待たせしたね」


 青年騎士の質問を遮るように、騎士小隊の背後から低く渋い男性の声が響いてきた。


「ラーシュ司令! そちらは……っ!?」


 ベテラン騎士が、口元だけで分かりやすいほどの驚嘆を浮かべる。


「リアレ殿下……!?」


 先輩格の女性騎士が息を呑んだ。

 他の騎士たちは、声すら出せずに固まっている。

 それほどまでに異例だったのだろう。

 こんな地下の危険な迷宮に、王女一行が現れるなんて。


 駐屯軍司令官ラーシュを筆頭に、王女リアレ、脇を固める魔法師ディアナと、殿を務める騎士ツキナの四人。

 錚々たる顔ぶれなのに、あまりにも護衛が少ない。

 現職戦闘員は、ディアナとツキナの二人だけである。


「このような場所に……一体どうされたのですか?」


 流石に隊長を任されるだけのことはあるのだろう。

 青年騎士はすぐに平静を取り戻し、ラーシュに問いかけた。


「ふむ。それについては追々説明するが、口外無用で頼むよ。しかしまずは、そんな説明よりも殿下のご用件の方が優先される。分かるな?」

「はっ」

「よろしい。では殿下、どうぞ」

「……ええ、ありがとう。ラーシュ」


 ラーシュの優雅なエスコートに誘われ、リアレが前に出る。

 同時に騎士たちは恭しく脇に下がった。

 しかし椅子に座したままのゼノアの視線は、天井を見上げたまま。

 騎士たちの周り空気が、殺伐として色めき立つ。


「ゼノア。貴方に聞きたいことがあるのだけど」

「ちょっと待て……今、それどころじゃない」

「貴様! 王女殿下に向かって何たる……っ!?」


 他ならぬ王女自身に鋭い視線と片手で制され、青年騎士は抜きかけていた腰の剣を収めた。

 リアレは視線をゼノアに戻し、先程の発言について問う。


「何か急ぎの用かしら?」

「そうだな……今調べてるんだが、どうもマズイかも知れん」

「何を、調べているの?」

「雨量とその経路を……ってヤバい! 今すぐここを離れっ……!」


 ゼノアが立ち上がって叫んだ瞬間、天井をぶち破って現れたのは、大量の濁流。

 地上で降っていた大雨が地中に浸透し、複数の経路を辿って集約され、現在地の階上にて決壊し、ちょうどリアレの頭上に降ってきたのだ。


「え?」


 不意の出来事に、呆けた表情を浮かべるリアレ。

 崩落した天井の残骸――砕かれた岩盤が、瞬く間に襲いかかる。


「はっ!!」


 気合一閃。

 リアレを押し潰さんとした岩盤を、聖法力を乗せたツキナの剣閃が見事斬り裂く。

 だが、流入する大量の水はそのままだ。

 誰も反応できない中、リアレが濁流に飲み込まれる直前ゼノアが覆い被さり――


 細かく砕かれた岩盤の欠片が、腐りきった床板を貫いていく。

 圧倒的な水量がそれを押し込み、リアレが居た地点を中心に、床板がぶち抜かれた。


「ひゃっ!? ゼノアっ!?」


 思わず悲鳴を上げて椅子から転げたフィーの目の前に、天井から濁流の滝が出来上がっていて。


「なんてこと……! リアレっ!! 【冥界の主よ、契約に従い永劫の静寂にて包め――エオ・イス!】」


 一拍遅れたディアナが魔法で滝を凍結させて天井に栓をすると、残されたのは地面に穿たれた大穴だけで……濁流に飲まれた二人の姿はもう、なかった。


「くっ!! 我らがついていながら……っ!!」

「とんだ失態ね……」

「な、どど、どうしましょう……!?」

「……ふぅむ……」


 暗黒が口を開けたかのような大穴を見つめて、百戦錬磨の騎士たちですら呆然する中、悠々と落ち着き払っている者が一人。


「まぁまぁ諸君、落ち着きたまえ」


 ラーシュは懐からおもむろに葉巻を取り出すと、ゆっくりと火をつけ、一息吸って煙を吐き出した。


「……司令。リアレ王女の安全確保について、何かお考えが?」


 青年騎士の問に、余裕の笑みを持って口を開く。


「彼が――救世主殿がついているのだ。命の心配はないさ。それよりも、我々も後に続くとしよう」

「後に、続く……?」


 その疑問に、ラーシュは深淵の大穴を指差す。


「諸君、この先が、我々の目的地だよ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る