◆16・うずめられし絶望

 ぐらっと傾く華奢な身体。

 淡緑色のローブが、その動きに引かれて揺れる。

 助けに行こうにもゼノアの四肢はまだ、回復の途上で。


「クソっ! 動け!」


 それでも前へ倒れ込むように傾け、駆け出す。

 数mの距離……間に合わない。

 一秒が、脳内で引き伸ばされる。

 物理的な力だけで足りぬなら――法力を使え。

 視線の先でフィーの半身が、虚空へと滑り、


「ぅぉぉおおおおおおお!!」


 響き渡る裂帛の気合。

 刹那――ゼノアの全身を、黄金の法力光が包んだ。


「きゃふっ……!?」


 爆発的に加速したゼノアが、フィーの腰に体当たり。

 華奢な身体は【くの字】に折れる。

 黄金の法力光に触れた亡霊が、蒸発した。

 一塊になったゼノアとフィーは勢い余って飛び上がり、重力に引かれるまま石橋へと叩きつけられ、速度が零になるまで転がっていく。


「う……うぅぅ……い、痛い」


 目を閉じたまま、痛みに顔を顰めるフィー。

 背中と後頭部を保護するように、腕を回されている感触があった。


「はは……お互い、生きてる証拠だな」


 耳の傍で聞こえた低い声。

 フィーが目を開けると、至近距離に端正な顔が。

 透明感の高い白肌、男性にしては長い睫毛に心の底まで見透かされそうな蒼き瞳、すっと通った鼻筋の下には、蠱惑的に微笑む唇。


「あ、うぇ……?」


 少しでも動けば、その唇に触れてしまいそうなほどの近さ。

 フィーは、固まってしまった。

 自分の上に、ゼノアが覆い被さっている。

 それも、自分のことをキツく抱きしめながら。

 この状況では頬を赤らめて思考停止に陥ってしまうのも、致し方ないと言えよう。


「ちょ、ちょっと……離れてくれる、かな?」

「ん? あぁ」


 言われて、ゼノアもその距離の近さに気がついた。

 至近距離に、フィーの顔がある。

 綺麗過ぎる曲線を描く、頬から顎にかけてのライン。

 薄く赤らんだ白玉の肌には、一筋の汗が伝う。

 瑞々しく震える唇と、その中に覗く小さな白い歯。

 潤んだ大きな翡翠の瞳は、何かを懇願するような上目遣いで……。


(って、どいて欲しいんだったな)


 ゼノアが我に帰り立ち上がった事で、少し距離が空く。

 フィーも早鐘を打つ心臓を宥めながら上半身を起こすと、目の前に差し出された手のせいで、その調整が上手くいかない。

 掴むべきか否か、また触れても良いものか、逡巡してしまう。


「ほら、さっさと掴めよ。のんびりしてる暇はないぞ」


 周りには、まだ数多の亡霊が浮遊している。

 即座に襲ってこないのは、ゼノアを包む黄金の法力光を警戒してのことだ。

 だがそれも、尻すぼみに消えていく。

 ゼノアのこめかみを伝う玉の汗から分かるように、いつまでも維持できる力ではないからだ。


「う、うん……ふわっ!?」


 ゼノアの手を掴むとグイッと引き上げられ、米袋でも持ち上げるように肩に担がれる。


「え、あれ? なんで? ――へひゃぁぁあああっ!?」


 そのまま爆速で、景色が流れ出す。

 なんでいきなり走り出すのか?

 しかしその理由は、問うまでもなく直ぐに見えた。


 フィーが居た石橋の下から、いつの間にか亡霊が生えている。

 一歩遅ければ、アレに憑依されていただろう。


「後ろは任せたぜ!」


 左肩にフィーを担いだまま疾走するゼノアは、右手に【黒刃紅霧くろばあかぎり】を出現させ、行く手を阻む亡霊たちを鋭く見据える。

 その顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。


「ま、任せるたって……うわっ、来る!」


 反射的に弓を構えたフィーは、困惑しながらも白き法力光を射つ。


「技名叫ぶの忘れてんぞ、と!」


 眼前に突如現れた亡霊を、右下方へ流麗に斬り払いながら駆け抜ける。


「そんな暇、無いよっ!」


 後方から迫る亡霊郡は、パノラマの開けた視界の中で、無尽蔵に増えていく。


「なんで、こんなにぃ、居るんだよぉ!?」


 涙目で半狂乱になりながらも、規則的に矢を放ち続けるフィー。

 遠くに居たと思ったら、何の前触れもなく眼前に瞬間移動してくるのだ。

 一瞬でも休めば、たちまち接触されてしまうだろう。

 無論それは、前方も同様だった。

 進行方向を次々に塞いでくる亡霊たちを鋭い呼気と共に【黒刃紅霧くろばあかぎり】で斬り払いながら、ゼノアは自分が視た情報を伝える。


「人柱だ!」

「え? 人、柱……?」


 端的に聞いただけでは、単語の意味は分かっても、それとこれとが繋がらない。

 ゼノアは、纏わりつく霊体を斬り払いながら、更に説明を紡ぐ。


「ここは、クソっ……どけっ!! この空間はっ! 人柱で、補強してやがる!!」

「な……!? じゃ、じゃあ……この亡霊たちは!」


 フィーの顔から血の気が引いて、途端に青白くなる。

 意味が、繋がったのだ。


「ああ……この空間を守るために、人柱にされた奴らだよ!」


 ゼノアの視た光景。

 それは、無情なる現実だった。

 この場が何を意味するのか、それは分からない。

 けれど何か重要な場所だったのだろう。

 あらゆる建材に、人体が埋め込まれているのだから。


 数百年の時を経て白骨化したものや、乾いてミイラ化したもの、建材が剥がれ落ちてむき出しになり獣に食い散らかされたものなど、幾千……幾万もの死体が、この幾重にも宙に跨る石橋の、それを支える石柱の、途中に点在する建造物の、そして空間を囲う壁面の中に至るまで、全てに埋め込まれている。

 恐らくは、生きたまま人柱にされたのだろう。

 むき出しになったもの以外はどれも外傷がなく、老若男女関係無しに、一様に苦悶の表情を浮かべていた。


「ここで……何があった。何のために、こんな真似をする必要があるってんだよっ!!」


 慟哭にも似た叫びと共に振るわれた黒き刀は、同じような叫びを上げる魂を斬り裂く。


「そん、な……どう、して」


 魔物の正体を知って動揺するフィーに、その魔物の腕が迫る。


「このっ!!」


 ゼノアは軽く宙に跳びながら水平に回転。

 迫る腕ごと上半身を斬り飛ばす。

 着地しながら踵を返し、進行方向へ身体を傾けながら再加速。

 向かう先で橋の中から出てきた亡霊を、橋ごと宙に斬り上げる。

 巻き上がるは、石片の煙幕。


「オラァッッっ!!」


 裂帛の気合で振るわれた黒刀は、煙幕を物ともせず迫ってきた三体の亡霊を、煙ごと霧散させた。

 だがその控えは無尽蔵であり、終りが見えない。

 霧散していく同類を、新たな亡霊が突き抜けてくる。


 黒刀を振り切った直後で返す刃が間に合わないと判断したゼノアは、身を屈めて亡霊の下に潜り込み勢いを止めず進む。

 顎が床石に触れそうなほどの低姿勢。

 フィーの踵が床に当たって跳ねる。

 進む先にまた、床から亡霊が現れた。

 ゼノアは身を捻りながらの側宙で、今度は上方向にそれを回避。

 縦回転しながら黒刀を振るう。

 床面に刃筋が走り、死線上にいた亡霊は圧縮され、点に。


 着地するや否や、即座に全身を波打たせるように連動させて刃を返す。

 斜めに振るわれた黒刀は、新たな亡霊を出現と同時に斬り飛ばした。

 刀を振り終わった姿勢から、即座に逆方向へ振り切った姿勢へと変わる。

 縦横無尽に、剣閃を奔らせながら突き進む。

 薄闇の岩窟にて闇より尚暗き【黒刃紅霧くろばあかぎり】が、漆黒の剣閃を描き、踊り狂う。


「ぐぇっ……」


 ゼノアの度重なる無茶な身体操作により、肩に担がれたままのフィーにかかる加速度は異常な強さで節操なく方向を変え、その小さな身からカエルが潰されたような声を出させるに至った。

 体内を循環する血液は流れが阻害され、意識が白濁する。

 となれば当然、背後への攻撃が疎かになるので、


「おいフィー! 後ろ来てんぞ!」


 次の障害を斬り払いながら声を掛けてくるゼノアに、


「……もう、む、り」


 今にも何かを吐き出しそうなフィーは、白目になりかけながらそう絞り出した。


「げっ、マジかよ……!」


 ようやく事態に気づいたゼノアだが、時すでに遅し。

 後方から決壊した防波堤は、濁流の侵入を許してしまう。

 白き靄のような、不浄なる意志を持つ流れを。


 数十もの亡霊が、瞬く間にゼノアとフィーに取り付いた。

 丸く巨大な、白い靄の塊と化す。


「――ハッ!!」


 短く澄んだ気合の声と共に、白き塊の内から黄金の法力光が爆発。

 一瞬にして亡霊どもを蒸発させてしまった。


「ハァ……ハァ……とりあえず、この聖法術なら、コイツらを吹き飛ばせるんだな。めっさ疲れるけど」


 こめかみに脂汗が伝うゼノアは、肩で息をしながらも、また走り出す。

 もう少しで、壁面の半壊した扉に辿り着く。

 入り口とは反対側の、更に奥へと進むための道。

 ゼノアは法力光を維持したまま、徐々に重くなってきた足を必死に動かして進む。

 あの中に入ってしまえば、とりあえず肉体を乗っ取られて落下死、という危険性は無くなる。

 だが数万もの亡霊に追われ続ければ、いずれ体力の消耗で取り殺されるのがオチだ。

 何か、対策を講じなければならない。


 橋や周辺の建造物と同様に、灰緑色の石材で造られた扉へと辿り着いた。

 高さ三mほどで両開き式の扉は、左側はそれなりに原型を留めているが、右側に関しては残っている部分の方が少ないほどに崩れている。

 その合間に、ゼノアは駆けてきた勢いのまま飛び込んだ。


 内部は光源が無いのか薄暗く、更には先程の洞窟のように土砂が入り込んでいて狭い。

 ゼノアは【天征眼】で構造を把握しながら、頭上も横幅も狭く足場の悪い空間を更に奥へとひた走る。


 が、何を思ったのか、急に速度を緩めて、走るのをヤメてしまった。


「ぜ、ゼノア? どう、したの?」


 消耗しきった状態ながらもゼノアの行動に違和感を覚えたフィーが、そう問いかける。

 ゼノアは歩きながらも、その瞳は虚空を見つめるように静止していて、やがて、無言で黄金の法力光を引っ込めてしまう。


「え? ちょっと……」


 不安げなフィーの声が、狭い洞窟内に吸われた。

 訪れる静寂と、暗闇。

 小さな足音と、微かな呼吸音、そして自身の未だ乱れる鼓動の音だけが、僅かに耳朶を揺らす。


「……妙だな。奴ら、追ってこねぇ」

「嘘? 助かった、ってこと?」


 ゼノアの【天征眼】は、半壊した扉を境にして、亡霊が追って来ない様子を明確に捉えていた。

 扉がまるで壁であるかのように、その先へと踏み越えてこない。

 訝しむゼノアだが、フィーは事実を至極単純に、肯定的に受け入れた。

 早くも安堵の笑みを浮かべている。


「いや、安心するにはまだ早ぇぞ? あいつら、距離とか関係ねぇからな」

「じゃあ、迎撃準備した方がいいんじゃない? 僕このままだと、何も見えないし、動けもしないんだけど」

「ん、そういやそうだな」


 担いだままだったフィーを降ろして、ゼノアは【黒刃紅霧くろばあかぎり】に火を点けた。

 揺らぐ炎に照らされて、周囲の様子が浮き彫りになる。

 薄緑色の建造物が、茶褐色の土石に覆われた洞窟内。

 大蛇が好き勝手に通り抜けた跡のようなその構造は、上下左右あらゆる方向に蛇行した造りになっていた。


「うわぁ……これはまた凄く、歩きづらそうだねぇ」

「だなぁ。……ん? またか」

「どうしたの?」


 急に何もない方角を見て顔を顰めたゼノアに、フィーが問いかける。


「あぁ、さっきも感じた違和感だよ。どうやら、こっちの位置を探っているらしいな」

「……へ? なんでまた?」

「さぁ。俺に会いたい変わり者が居るのかもな」


 軽く笑い飛ばして歩き出そうとしたゼノアだが、フィーは深刻な表情になって詰め寄ってきた。


「ねぇ、ちょっと待って」

「ん? どうした?」

「もしかして、監視、されてるのかな?」

「監視? 誰に? あ……いや、あれか。軍か」

「多分……やっぱりオカシイと思ったんだよ。ゼノアみたいな規格外な存在を、普通野放しにしないもん」

「野放し……珍獣か俺は」

「だとしたら……」


 フィーは何やらブツブツ呟きながらゼノアに近づき、


「この辺、かな……」

「ちょ、おい、何してんだよ」

「動かないで」

「えぇぇ……?」


 身体検査の様に全身を隈なく調べ始める。

 されるがまま、ゼノアは両手を挙げさせられて、脇の下や衣服の内側まで丹念に調べられていく。


「いや、ちょっと、くすぐったいって」

「ごめんごめん、もう終わったよ」

「そか。で、何だったんだ、今のは?」

「うん。結論から言うと、思ったとおりだった。君の衣服には全て、下着に至るまで、探知法術の刻印が施されている」

「はぁ。つまり、軍の支給品ってやつは、そのまま俺の監視装置だったワケだ?」

「そういうことになるね。ほら、ここ見てよ」


 フィーの指が、緋色のアウターコートの内側、折り目付近で目立たない場所に刻まれた紋様を示す。


「これが?」

「うん、特定の術式に反応する発信刻印」

「へぇ……なるほど。構成は理解した」

「……相変わらずの万能眼力だね」

「これと似たような術式が、この赤い紐にも付いてるな」

「それは……? 僕と会ったときにはもう、既に付けていたよね?」

「あぁ、目覚めて最初に会ったヤツから貰ったんだけどな……」


 ゼノアは皮肉げな笑みを浮かべたが、その中には少し寂しさが混じっているようだった。


「……で、どうする? これ、外す?」


 フィーはその様子に何かを察したようだが、敢えて追及はせず、探知術式の処遇を問う。


「いや、この程度ならいつでも自力で壊せる。それよりも、この術式を使うってことは、俺に用があるってことだろ?」

「会って、用件を聞く?」

「あぁ。んで、下らない用件だったら飯でも奢ってもらうさ」

「……なんだよそれ。安上がりだなぁ」


 一種の監視装置を付けられていても尚、飄々と揺蕩う風のように気楽な振る舞いを見せるゼノア。

 それを見て、フィーは我知らず笑みを溢していた。



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