第2話
知らない場所、私はしんしんと白けた雪山の坂の途中に立っていた。風はほとんどなく、空はうす暗い。
目に見える地帯は、ことごとくまっさらなパウダースノーでなめらかに覆い尽くされていた。
まるで私は小さな一匹の蟻になって、砂糖の山を見上げているような心地になった。
坂はなだらかに続いていて、遥か遠くに山頂がうっすら見えた。後ろを振り向くと、下り坂しかなかったが、かなり下方に灯りが点々としていた。もしかすると、私がさっきいた集落のほうかもしれない。
私はあそこからこんなところまで歩いてきたのだろうか。記憶をたどってみるが、判然としなかった。
ひとまず私は山を登ろうと思った。特に目的はないが(若しくは以前に目的を達成してしまったのかもしれないが)、山登り自体嫌いではなかった。
雪山は過酷なフィールドのひとつだがさいわい天候は私に吉をもたらしてくれたので、私は意気軒昂と山を登りはじめた。
そこからどのくらいの時間と距離が過ぎたかわからない。山登りにおいて重要なことは、精神を無の状態にすることだった。その結果として、さまざまないきさつを忘却してしまうことはあるが、さしたる問題ではない。
覚えていることといえば、雪上に白いキク科の花が数株自生していたことと、子ども用のピッケルが雪に埋もれていたことくらいであった。
気になったことだと、私の足元がいつのまにか平面的な雪から、ごつごつとした頭骨に成り代わっていることだった。
非常に歩きづらかった。私の全体重がかかると、頭骨はたやすく砕かれた。うみべの貝殻を踏みしだいていくような感じだった。
どうにか倒れはしないものの、身体のバランスは崩れてしまうため私は崖を登っていくみたいに両手両足を使い、もろい石灰質の山を這い上がっていった。
異変が生じたのは、ごく一瞬のことだった。突然、私の足元の頭骨が地面に沈みだしたのだ。それらは抗いようもなく蟻地獄に吸い込まれるみたいに、ただ一点に収束して飲み込まれていった。もちろん生身の私も餌になった。
ひとりの人間が頭骨もろともに地下に落下するという光景はあまり見かけないが、落ちたところに頭骨の山が山積していてにわかにびっくりするというのはよくある話だ。
私もそれとまったく同じ経験をした。何十人もの死者の頭は落下する衝撃のクッションになってくれたが、その代償として鼻から下だけ残るとか、右半分がなくなるだとか、見るも無惨な姿になった。
私は死者の思いまで背負うことはできないので、せめてものの償いに砕けた破片を噛み砕いて嚥下した。
ところで、私が落下した場所はさらにこれまでとはまた異なる様相をしていた。
洋風のテーブルがあって、椅子があって、壁に絵画が飾ってあって、床には絨毯が敷かれていた。電灯はなかったが、暖炉の火があるおかげで地下はほの明るかった。
そして。なにより暖かかった。
ここまでさんざんひどい目に遭ってきて、はじめて拠り所となるような温かさに触れた気がした。当分はここに居座っていたいと思った。私は暖炉の近くにあった椅子に深く腰掛けて、長大息をもらした。
私の肉体は程よく疲労しており、ひとたび目を閉じると猛烈な眠気に襲われた。気だるい微睡みを飛び越して、私の意識は重たい鉄球に鎖で繋がれていて、深淵の海底にゆっくり沈んで行くようだった。
視界の端にぱちぱちと燻る橙色の焚き木が映ったのを最後に、私の意識は完全に没した。
次に目を覚ましたきっかけとなったのは、柱時計の時報音だった。
ボォーン、ボォーン、ボォーン。
空虚な大音量。油断した私をおどろかすには、充分事足りた。
すっかり覚醒してしまった私は、改めて部屋の様子を見回した。少し前の眠りにつく前から変化した箇所は、洋風のテーブルの上に顕微鏡が置かれているところだった。
顕微鏡?
私は椅子から立ち上がって、顕微鏡に近づいた。その付近には、ピンセットが数本と消毒用アルコール、キッチンペーパーが揃えられていた。
興味本位で接眼レンズをのぞいてみる。円形の視野には、細かい糸くずとくすんだ‘しみ’のようなものが点々としているだけで、私は何の関心も得られなかった。
根気よく見ても目ぼしいものは何もなかったので、レンズから目を離して、みたび部屋の様子を見た。すると今度は私のもともと座っていた暖炉の椅子のそばから、こちらのほうをジッと見つめてくるひとりの女がいた。
思わず私は頓狂な声を上げた。
「寝たり起きたり、他人の物を無断で使ったり、人の顔を見て驚いたり、ずいぶん忙しない人なのね」と女は淡々と言った。
勝手なことをしてすまない。私はすぐさま横にずれて顕微鏡から離れた。
謝罪の声は自分が思うよりか細く、彼女の背後の焚き木の弾ける音に負けそうだった。
「いえ、別に良いのよ。それよりもソレで何か見つかった?」
彼女は顎で顕微鏡を指した。
いいや、残念ながら私は目が弱いから、細かいものまでは見えないんだ、と冗談で切り抜けようとしたけども、その目に見えないものを見るための道具がそれじゃないの、と返されて私はぐうの音も出なかった。
じゃあ一体全体、これで何を見るんです、と訊くと、彼女は椅子に座って足を組み、肘かけに肘をついて、手に顎を乗せて、蒼い瞳で私を一点に直視して答えた。
「菌よ」
きん。
「菌って分かる? お金じゃないわ。生き物のほうの菌よ」
どうしてわざわざこんなところで観察をしなくちゃいけないんだ。
「たくさんの理由があるのよ」
理由って?
「一言で説明できるようなことじゃないの。特に、顕微鏡の見方すら知らないような人にはね」
まいったな。
「まあそんなことはどうでもいいのよ。他人なんて自分の関心には全然興味ないんだから」
彼女は手に顎を乗せたまま横を向いた。肩ほどまでかかる髪のせいで、横顔は見れなかった。
菌のことだと会話が途切れそうだったので、別の話題を近くに探した。
ああ、そうだ、ひとつあるじゃないかと閃いた私は、部屋の後ろの暗闇の底に埋もれる頭骨の山を指差してこう尋ねた。
あそこに頭蓋骨の山があるだろう。とても不気味だけど、あれらは君が持ってきたものなのか。それとも、あれも研究の材料だったりするのか。
女は目をつぶり、黙って私の言葉に耳を澄ましていた。それからすっと目を開いて、私にこう告げた。
「あの頭蓋骨はあなたのものよ」
私の? あれが? 全部?
「そう、全部」
馬鹿な。荒唐無稽にも限度がある。それとも私をおちょくっているつもり?
「別に信じてもらおうなんて思っていないわ。私は単純にあなたの質問にたいしてありのままの真実を答えただけよ」
畜生。やはり私の世界は何もかもがとち狂っているんだな。
私はもはやあれこれと思い悩むのが、面倒になってきた。ともかく今の状況──雪山の夜という世界そのものがまったくの別物に成り代わることを望んだ。
「こんなことを言っても無駄でしょうけど、自棄になっても運命は変わらないの。あなたは、あなたの一生は、一本の糸になっていてその糸の両端は結ばれているの。ゆえにあなたは同じ世界を無限に繰り返しているために、」
これ以上は耳が痛くなりそうだった。私は変な汗をかいているのに気づいた。
部屋の左側にはバスルームと書かれた扉があったので、心底喜んだ。私はあらゆる雑念を取り払って、その扉にずんずん進んでいった。
「とどのつまりは、あなたの次の行動も読めるってわけ」
ため息を感じさせる言葉を背中に受けながら。
バスルームから出て、私は大きな異変に気づいた。籠に入れていた衣類がまるまるなくなっていたのだ。訝しげに思った私は、先ほどの女のいた部屋に戻った。
そこはすっかりもぬけの殻だった。人の気配が感じられなかった。唯一、暖炉の火だけが揺らめいており、私を待っていてくれた。
素っ裸の私はどうしようもないので、ひとまず暖炉の火に当たることにした。
ここでさらに私は衝撃の事実を目の当たりにする。私が脱いだ衣類がことごとく暖炉の火によって燃やされていたのだ。
私は悄然とした。言葉にもならなかった。しかしいくら嘆いても、私の純然たる肉体をまもるものは何もなかった。
必死に部屋中を探し回った結果、隅っこの抽斗から一着の衣類が出てきた。それはシャツと地味なスラックス、そして紺色のブレザーだった。その奥には、同系色の帽子も入っていたし、未使用の手袋まで残されていた。
サイズは適当だが、当面はこれで間に合わせるしかないだろう。私はぶつくさと文句を垂れながら、袖に腕を通した。
着替えが終わると、私は不思議な気持ちになった。何かをしなければならない、という強い使命感に満ちていた。
ふと、先ほどの顕微鏡が目にとまった。
──他人なんて自分の関心には全然興味ないんだから。
彼女の言葉が思い出された。そんなことはないのに、と私は独り言ちてみた。人間の関心なんてのは、おおよそ他人の興味をちろりと味見して、好き勝手にアレンジしているだけなんだから。
私は顕微鏡に再挑戦することにした。さすがに菌を味見するのは躊躇われるが、などと戯言を抜かしながら、小さき世界をのぞきこむと、ガラスの盤面に文字が書かれていた。
もしかすると、それはあの女の最後のメッセージだったのかもしれない。
私がそれを読み終えた途端、世界は真っ暗になった。
《 Fight or flight ?
The next is x x x 》
その男の顔を見ていると、内側に段々ただならぬ悲壮感が込み上げてきて、私はつい手招きをしてしまった。
男は黙ってうなずくと、背中に幽霊でも背負っているかのような重たい足取りで、列車に乗り込んできた。
私はドアを閉め、手元のレバーを引いた。ストッパーが外れ、車輌は前進しはじめた。
この日は朝から雪がちらついていた。お昼を過ぎると、本格的に降り出して、収まる気配もなく、もうすぐ夕刻の六時を迎えるところだが、フロントガラスのワイパーは常時動いて、雪を掻き出していた。
隧道に入って、ようやく雪を凌ぐことができた。確か、ここの隧道は二キロほどあったはずだ。
私は運転を副車掌に交替し、切符を拝見するために、前方から後方に移動を開始した。
しかしながら、切符を拝見するというのは、あくまで口実だった。
私にはやらなければならないことがあった。端的に語ると、この世界における正しい選択を行う必要があった。
たとえそれで人の命を奪うことになって咎められるとしても、私は己の意思を尊重するだろう。
その行為は四両目の車輌で遂行された。奇しくも、あの悲壮感に満ちた男のいる車輌だった。私が四両目の扉の前に立ったとき、その男は片手に一升瓶を携えていた。そして虚ろな目で、対面式のシートに横になった酔っぱらいをじっと見ていた。
急ごう。
私は焦っていた。
もしもここで、あの男が私よりも先に酔っぱらいを撲殺してしまうと、この先の未来が変化してしまうことを私は識っていた。
言ってみれば、それはボタンのかけ違いなのだから、線路がずれてしまう前に、不具合はまめに取り除かなければならなかった。
正確には、線路がずれたとしても、先行きが大幅に変わるというわけではない。目的地にたどり着くまでのルートが多少変更してしまうだけだ。カーナビと同じで、道を外れても自動で修整してくれるみたいにある程度の融通は利く。ただしそれが迂回することになったり、余計に時間を要することになったりしてしまう場合がある。
ひるがえって、この当座における最短コースの選択によれば、列車が隧道を走っている間に私は泥酔している男の息の根を止めなければならなかった。考えれば考えるほど、心はずきずきと痛むが、やむを得ない。
──くるくるくるくる。
私の目の前の上空で、糸に吊り下がった林檎が半永久的に回っていた。
林檎のほのかな芳香に、光のきざはしがぎらぎらとちらつく。目を覆いたくなるほどのまばゆさに、私は帽子を目深にかぶる。
必要なのは、狂気と混沌、そしてわずかな理性、か。
私は自分に言い聞かせて、前に踏み出した。
数発の銃声が響いた。
終わったのを確認して、私は再び運転室に戻った。左腕の根元がじんじんしていた。副車掌に感づかれないように、平静を装った。
これでいい。これでいいんだ。
列車は隧道を抜けていた。眼前には何度目になるかわからない銀世界が限りなく続いていた。
私はやるべきことをやったのだ。後は、このことをあの女に伝えさえすればよかった。
場所は特定できている。そこに行くだけだった。
私は駅に降り立った。
雪と地上との厚さは十センチ以上あって、前方には不ぞろいな穴ぼこが無数にあった。私の背後にも同じ大きさの穴ぼこができあがった。私は雪道を物ともしないしっかりしたとした靴を履いていたので、歩きは健康だった。
その瞬間、ひやりとした既視感を覚えたが、いったい何が何やらあべこべだった。
雪道は延々と続いた。もうどれくらい歩いたのか、判然としない。
村の灯りが切ない螢火に感じられるころには足が雪にずぶずぶと沈んでいて、泥沼を進んでいるような気分になった。おまけに激しい降雪で前は見えないし、細かい雹が無尽蔵に顔にびしびしと当たった。
やがて目がぼんやりと霞んできた。握りこぶしを作ろうとしたけど、うまく力が入らなかった。全身が麻痺しつつあった。
もう歩きたくない、歩けない、疲れた。
頭蓋骨の山はどこだ。あそこまで行けば、あとは重力にしたがって、あの女がいる地下部屋にたどり着けるのに。
しかしそれがあまりに遠かった。
いのちの皮が剥げていく。
目が、手が、足が、耳が、身体が、腐っていく。
ああ、ようやく頭蓋骨の山まで来たと言うのに。
そのときやっとわかった。
私に必要だったのは、狂気や混沌、わずかな理性などではなかった。こんな、稚拙な頭をこねくり回して奇をてらった、小難しい理屈などではなかった。
もっと単純に、気力とか、もう一踏ん張りだとか、もう一息だとか、そういう根性の心がけだった。
この、できそこ、ない、め。
次こそは、かならず。
《 Shut down 》
気づくと列車の中にいた。
頭がぐらぐらする。足元には私の知らない一升瓶がゴロゴロと転がっていた。
アルコール? 私は酒に溺れたのか。
だからこんなに頭がぼんやりとしていて、何も考えられないのか。
意識が遠のいていく。列車に揺られているためか、全身の感覚がおぼつかなかった。
もういいや。今日はもうこれで終わろう。楽になろう。
私はどんよりとした眠りのさなかで、人の足音を聞いた。コツコツと明瞭な音を鳴らして、こちらに近づいてくるのがわかった。
最後にこんな言葉を耳にした。
誰も悪くない。みんな狂っているだけなんだ。
完
雪山の夜【長】 瀞石桃子 @t_momoko
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