雪山の夜【長】

瀞石桃子

第1話



《 lim x^n (x=-1) 》

n→∞


カンカンカンカンカン……──


かまびすしく音の鳴る踏切の前に直立していると、斜め向かいの駅のホームで、紺色の帽子を目深に被った車掌が手招きをしている。


周囲はどんよりと重い空気感が漂い、見上げる雲行きは限りなく怪しかった。黒く、昏く、淋しさが充満していた。その上、私の手許には雨を避けるものがなかった。このまま立ち尽くせば、じきに濡れねずみになって、帰る居場所もなくずぶ濡れの身体をがちがちと震わせながら、朝を迎えることになるだろう。

それは困る。何せ替えの衣類がない。

斜め向かいの駅のホームに立っている車掌の表情は定かではないが、延々とこちらに手招きをしていた。

そのうち、ポツリポツリと雨粒が額を濡らすようになってきたので、いよいよ仕方なく、私はホームに待機している列車に乗り込む次第となった。


《 ランプ 赤 →緑 》


錠が外され、列車は動き出した。

車内の席は対面式になっていて、1車輌の長さは10メートルほどあったが、私を除くと、中年男性の乗客が一人いるだけだった。

その男はかなり深くうな垂れていて、足下には、一升瓶が何本も転がっていた。傍目に見ても酔っぱらいであることがわかった。列車が左右に揺れるたびに、彼の痩身はぐらりと傾いた。やがては、シートに横になってしまって、うるさい鼾をかきはじめた。


私はしばらく黙っていたが、次第に苛立ちを隠せなくなっていた。

もしも今、私があの男の頭を一升瓶で殴ったら、という危なげな思考がよぎった。

その瞬間、空気の流れが変化した。列車が隧道に入ったのだ。薄暮時に感じるうら寒さらしき何かが車内に吹き込んだような気がした。

私は左側の窓を見た。窓には男の姿が映っていた。

その男は生気のない顔で一升瓶を握りしめていた。


まあまあ、冗談だよ。


私は一升瓶を投げ捨てた。一升瓶は床をゴロゴロと転がってゆき、別車輌に通じる扉にぶつかった。それと同時に、扉は横に開いて、奥から一人の男が我々の車輌に進入してきた。

男は紺色のブレザーを着、白い手袋をはめており、やはり帽子を目深に被っていた。

車掌は私のほうを一瞥してから、図々しい態度の乗客──あの酔っぱらいにまっすぐ近づいて行った。

何をするのかと思うと、車掌はブレザーの胸の裏地から拳銃を取り出すと、間髪を容れずに、乗客の頭を二発、三発程度撃ち抜いた。

乗客は電気が流れたように一度身体が跳ね上がると、そのまま動かなくなった。それからしばらく車掌は乗客を見下ろしていた。私はその間、無言を強いられたし、車掌が居なくなってからも口を噤んでいた。私は話す相手を失ってしまったので、布製のシートから床に血が間断なく落ち続ける無情の音をじっと聞いていた。


頭の中では、何者でもない者の声がしきりに響いていた。

──誰も悪くない。みんな狂っているだけなんだ。


私は再び窓を見た。列車は既に隧道を抜け出していて、もはやそこには狂人の顔は映っておらず、窓の外の明細な景色が見えるばかりだった。

やってきたのは、どこかの集落のようだった。夜だし暗くて全容は分かり兼ねるが、あちこちに灯りがあるところを見ると、人はちゃんと住んでいるらしい。

私は集落の形態について知識があるわけではないけれど、おおよそ四方を山に囲まれていて、ちょうどお椀のようななりをしているであろうと予想をした。お椀の底が人の住む土地になっているはずだ。


もともと都会の人間である私は、かつて山奥の山村などに訪れた記憶がない。ましてこんな夜遅くに、一人で来るというのは、正直なところ、非常識だと思った。しかし現にこうやって来てしまっているし、私はこのまま列車に乗り続けていたいとは、とても思えなかったので降車することを決めた。

人間は時に狂ってしまうものだが、その都合に巻き込まれてしまうのは、具合いが悪い。

私はもう、なるべく車内を見ないようにつとめ、外を眺めた。

気づいたことは雪がしんしんと降り積もっているということで、夜の雪は明るいと言われるように、確かに夜にしては明度が高いような気がした。

そうか、雪に光が反射しているからだ。それによって普段よりも明るく感じ、雪の儚い清潔さと夜の静けさが調和して、冴えた幻想感を産み出しているのだ。そこらじゅうから伝わってくる息のつまりそうなキンキンとした怜悧さは、ひとえに雪と夜の両方があって、はじめて成し得るものだった。


列車が停車した。私は雪の美しさに見惚れながら、ホームに降りた。駅を利用する人に配慮して、積もった雪は脇に退けられていた。

駅自体は集落より少し高い場所に位置していた。


【駅名】

《 Inori ← Platinum → Irony 》


改札口はなかった。駅員すらいなかった。警戒心がまるで感じられなかった。

その代わり、構内の壁に懐中電灯が複数あり房状に吊るされていた。

その上に『自由ニ使用スル事ヲ認メル』と書かれたプレートがあった。手に取ってみると、五本のうち四本は付かなかった。残りの一本がどうにか使えそうだったので、拝借し、私は人気のない夜の雪道に繰り出した。


雪厚は十センチ以上あって、足を前に動かすごとに、背後には不ぞろいな穴ぼこが無数にできあがっていった。およそ雪道にはそぐわない靴を履いていた私は、足先の温度が刻一刻と低下していくのを感じていた。なにより無慈悲な冷水がたっぷりと染み込んでくるのが悲しくて仕方がなかった。

私が歩いているのは主要な大通りのようであったけども、左右に並び立つ樹々は葉を落とし、細い枝だけが頼りなく伸び、まるで飢えによってあばら骨が浮き出るみたいに痩せこけていた。


人の作った標識や看板はいくらだって目立つのに肝腎の人がどこにも見当たらなかった。自分はゴーストタウンにでも来てしまったのではないか、と錯覚してしまう。

とにかく、そこもかしこもさっぱりしていて、こんなことになるくらいなら我慢して列車に乗り続けていればよかったかもしれない、と後悔をしてしまった。

私の選んだ道は、かつてない狂気を孕んでいた。


歩き始めてから、数十分。私は町のはずれを彷徨していた。

中心地から離れるにつれて、上から下に落ちるだけだった雪は次第に風をまとうようになり、周りの音を遮るかのごとくびゅうびゅうとうなり始めた。

吹雪。いや、ブリザードだ。

前方からの強い向かい風が、ただでさえのろかった私の歩みをさらに鈍らせる。一歩一歩がひどく重かった。

まともに目が開けられない。角砂糖ほどの大きさの牡丹雪がむやみやたらに顔に張りつく。

痛い、熱い、かゆい、顔が霜焼けになりそうだ。

そのうち所々の感覚も麻痺していくだろう。それはそうだ。温度が低下すれば生物の動力は弱くなってしまう。そんなのは、つまるところ車のエンジンを氷水に浸しているようなものなのだ。車のエンジンをつららで突き刺しているようなものだ。

突き刺したら、痛いだろう。薄い皮膚に太いつららの先端を押し当てられている感じを、強く、鮮明に想像するんだ。ほんとうの冷たさは熱さを凌ぐらしい。さっきのつららを飲み込むのはどうだろう。苦しいかもしれない。溶けるには時間がかかるだろう。

喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、核の熱さの表面には底冷えするような冷気が取り巻いているのだ。地球もそうじゃないか。地球を噛み砕いたらどんな味がするだろうね。私は炭酸のソーダに似ていると思うよ。


そろそろ思考や判断力までまずくなってきているらしい。私は今どこまで来ているんだろう。

方向は、距離は、地図は、足りないものは。


ふと、かすかに見覚えのある紺色の袖が見えた。紺色の袖には、金色の刺繍が施されていて、白い手袋は赤いストライプが入っていた。しかし、そのブレザーは踏切の遮断棒に引っかかっていて、さびしく風にそよいでいた。

あっ、と声を上げた。

私の気力がさびれて使い物にならなくなる寸前に現れたのは、白骨でできた踏切だった。

その踏切は大腿骨や上腕骨、肋骨や脊椎などを大胆につなぎ合わせたもので異様な雰囲気があった。また遮断棒の末端には、人間の頭蓋骨が超然とあった。そして左目には赤色のランプ、右目には緑色のランプがあり、踏切の音に合わせて交互に点滅していた。


カンカンカンカン……──


やがて左側からふたつほどのまばゆい光が近づいてきた。

私がそれだと認識するのにたいした時間はかからなかった。もっと言うと、光を認識するのと同じくして、私はすでに行動を起こしていた。

白骨の踏切をかいくぐり、私はふたつの光が通過する線路の上でじっとこらえた。

確実に近づいてくる光から避けることはできないことを知っていた。

私は両腕を上げた。


《 To come a finale, you have to overcome madness, chaos in your soul and some reason 》


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