2. ウィルス / 恐怖 / 死
「身体が弱い、なんてことはとっくの昔に分かってるよ」
女は微笑んだ。どこからともなく漂う灰色の煙の中で、女の灰色の髪がさらさらと流れてゆくのが見える。
「分からないから、怖いんだよね」
優しげな声色で女は語る。その通りだと思った。人は誰でも、未知の物を怖がる。そういう風にできている。それが動物としての本能なのだから、人間が新しいウィルスを怖がるのは仕方のない事ではないか。
「そんなこと無いんだよ。分かるかな、皆、少なくともこの国に生きていれば、死というものを直視する機会が無い」
彼女の表情に影が差した。こうなると彼女は語り出すのだ。本能的に直感する。
「例えば紛争地帯に生きている少年兵たちにとって、新型ウィルスってそんなに怖い物かな」
私は答えに窮した。確かに私たちは日々「死ぬ事のない世界」を前提として生きている。目の前の誰かが今すぐ死んでしまうような世界では、社会という物がそもそも成立しない。
「ね。ちょっと考えてごらん。飛び交う銃弾にいつ頭をぶち抜かれるかも分からない世界で、ウィルスなんてものが怖い訳が無いよね」
そこに在るのは並列化された死の要因の一つでしかない、という訳だ。色々な死に方をして生きる事を中断させられた人々にとって、銃弾で死のうとウィルスで死のうと大した変わりはないのかもしれない。
「でも、私たちの社会には死がない。養老孟司の議論、覚えてるよね」
思い出す。確かに養老孟司は「死の壁」でそれについてひたすら紙面を割いて論じていた。では今起きている事は、彼が語ったように日本が、皆が死を遠ざけすぎたから起きている事なんだろうか。
「ちょっと違うような気もするよね、私だって死ぬのは怖いもの。直視なんか元からしたくないよ」
そう、死ぬのは怖い。では、何故僕たちは死ぬのを怖がるようになったのか。
「今現在私自身は、どうして死を恐れるのか」
問いかける声が響き渡る。その凛とした冷たい声が響き渡る間に、窓の外はもう一度明るくなっている。
自分が思い残している事を考える。思わずため息が出る。
「そう…私の思い残している事とは、思い返してみればとても些末な事に過ぎない」
もっと遊びたい、もっと学びたい、もっと幸福でありたい、もっと世界を視ていたい…。さして価値が有るわけでもない、それで誰かを救うわけでもない、極めて独りよがりで傲慢で、自己中心的な願い。
「死んだとしたら、それで全てが終わってしまう」
その通りだ。僕たちは「死」を恐れているのではなく「全てが終わってしまうこと」を恐れているのだと思った。
「では何故世の中には自殺する人がこんなにも多いんだろう」
もう一度女の声が優しく、穏やかになる。この女がどこへ私を導こうとしているのかが全く分からない所が私には怖かったが、抗う術が無かった。女が灰色の髪の間から優しげな目線でこちらを見ているのが分かった。
生きながらにして、自分自身ではない何かに人生を支配されている感覚。それは今現在私が日々の生活で、このやりきれない日本社会で感じている何かそのものではないか。
女は一旦身を引いた。
「ふふ、私は別に君を支配しようとは思わない、ただ…支配か」
長い髪の間に女の眼が見え隠れする。
「支配権の奪い合い、皆ここに生きる誰も彼もが、さながら『万人の万人に対する闘争』を続けているという事かしら。ホッブズ定義した通りの自然状態が、370年後の今になって正確に現れたって事ね」
女は私よりも博識なようだった。私はホッブズは読んだことは無かったが、そう言われるとそんな気がした。
「忍野扇ちゃん…じゃないけれど、私は何も知らないの。君が知ってるのよ」
そう微笑む。どこまでがこの女の知識で、どこからが私の知識なのか分からない感覚に私は混乱した。既に窓の外は再び昼下がりになっている。
「私は間違った事ではないと思うの」
女が口を開く。言う事の半分は「今現在の私自身」の意見であり、もう半分は「未来の私」の意見なのだ。ローマ神話にそんな神が居たな。
「…ヤーヌスね。…このウィルス騒ぎで人々はやっと自然状態を思い出す。一時的にかもしれないけど、死を直視する事ができる。死神が自分の隣に現前した時に、人は自分がどれほど愚かで醜く、小さな存在であるかを思い出す事ができる」
確かに、と思った。けれどもそれでは人々が血の滲むような努力の果てに現代社会を築き上げてきた事を否定してしまうのではないのか。
「そんな事はないのよ。どれだけテクノロジーの発達した未来になっても、人間の存在の本質はさほど変わらない…アーサー・C・クラークだったかしら。そんな事を言った人がいたよね」
人は変わらないから、その本質によって象られる社会もまた自然状態の形を色濃く反映し続ける、という事だろうか。とすれば人には救いは無く、いつまでも無限に他者を蹴落とし支配すめための闘争を続ける定めの中に有るのか。
「そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない」
見透かしたような、見透かしていないようなことを言う。私には彼女の声がとても心地よく聞こえた。
「それは危険な兆候だよ」
そこまで聞くと、私は目を閉じた。
私が終わらせたくないものの事を思い浮かべた。
愛する人の笑顔、家族と過ごす何気ない時間、雨上がりの風の吹く夏の一日、泣き出しそうな曇り空すら雪の落ちる冬の日のこと。
「君は世界を愛しているんだねえ」
女の声はどこか冷笑的だ。
私のそんな態度を嘲っているようにも聞こえる。
私は本当は何も愛してなどいないのかもしれないと思った。
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