第47話 忘れられた戦場(下)

 1944年10月20日、マリアナ沖海戦の圧倒的勝利とサイパン島占領(1944年6月)の余勢を買って米軍20万がレイテ島に上陸します。米軍が上陸地点としてレイテ島を選んだのは,抗日ゲリラからの情報が大きな要因でした。日本軍の動向は抗日ゲリラを通じて米軍に筒抜けで,レイテ島は日本軍の最も防備が手薄い地帯であると判断したからです。

 米軍上陸当時,フィリピン全土で日本軍がまともに行動できたのは,マニラと点と点を結ぶ都市だけで,他は都市や街はすべて抗日ゲリラの影響下にありました。太平洋戦争を通じ,日本軍の占領地域でこれだけ抗日ゲリラが盛んだった国はフィリピンを置いて他にありません。

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 マニラ市の旧市街(イントラムロス地区)には,マニラ市街戦で廃墟となった建物がそのまま保存・展示されています。砲弾の跡が生々しく残っています。

 当初,フィリピン防衛のために組織された第14方面軍は,ルソン島での一大決戦に備えて防衛準備をしていましたが,レイテ島にアメリカ軍が上陸すると知ると防御方針を転換し,戦力の逐次投入を行って圧倒的火力の米軍にことごとく敗れ去りました。

 日本軍はマニラを死守する方針に固執し,これが原因で多くのマニラ市民が日米両軍の戦闘の巻き添えになり,マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を数えると言われます。フィリピン全土では一体いくらの罪なきフィリピン人が犠牲になったのか,その全容は現在でも明らかになっていません。

 一方,海では米軍のレイテ島上陸に際して連合艦隊が乾坤一擲の大攻勢に打って出ましたが,ことごとく敗れ去り,連合艦隊は消滅しました。これにより日本海軍の組織的な制海行動は終了しました。

 マニラ陥落後,指揮系統を失った日本軍兵士は,ある者は山岳地帯に逃げ,ある者は島嶼部のジャングル地帯に立てこもりました。敗戦から29年後,ルパング島で投降に応じた小野田寛郎少尉(1974年帰国)もその一人でした。こうしてあまりにも多大な犠牲を出したフィリピンの戦いは終わったのです。

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 このような事情から,戦後長らくフィリピンにおける対日感情はアジア最悪でした。マニラ市では「日本人は日中街を歩けない」とさえ言われるありさまでした。東京裁判におけるフィリピン代表判事のデルフィン・ハラニーリャ氏は,バターン半島における攻防戦で日本軍に捕虜になった経験(バターン死の行進)から,日本に対して連合国判事の中で最も苛烈ともいえる敵愾心を燃やしていたことは有名です。

 しかしこうしたフィリピンの最悪の対日感情も,時がたつにつれて融和の道をたどりました。フィリピンが戦後,マルコスによる親米独裁政権下で,反日感情よりも経済協力を優先させたこと(しかしそれでも、日比の賠償交渉は相当難航しました。)もありますが,最大の理由は,50万人ともされる日本人戦没者の遺族が,戦後,遺骨収集や戦没者慰霊のためにフィリピンに渡航し,現地住民との草の根の交流を広げたところが大きかったのです。

 ある遺族団は,フィリピンに着くなり現地住民から「日本軍が奪った俺のトラックを返せ!」と鬼の形相で怒鳴られたといいます。しかしこのような両国民の戦争による傷跡も,日本人戦死者50万人の背後にいる数百万の遺族らの渡比行為と草の根の交流事業により「日本人は決して鬼ではない」という融和の心をフィリピン人に惹起させ,カトリック教国特有の「赦しの心」により,日本軍の加害の罪を赦すという意識が芽生え広がっていったのです。

 1945年2月に始まった日米両軍によるマニラ市街戦は,住民を盾にした日本軍が掃討されるまで約1カ月続き,日本軍の死者は1万6000人以上に達しました。戦場と化したマニラで非業の死を遂げた民間人は10万人に及んだと言われます。当時,フィリピンの上院議員だったキリノ氏も,妻と次男,長女,三女の家族4人が外出禁止令を破ったとして日本軍に殺されています。

 1948年に前任者の急逝を受けて副大統領から昇格したキリノ大統領にとって,最大の懸案は対日講和,特にモンテンルパの刑務所に服役中のBC級戦犯の処遇問題だった。再選を目指す大統領選挙を4カ月後に控えた53年7月6日,米ボルティモアで入院中の病院のベッドで,キリノ大統領はラジオ番組の収録に臨み,日本人戦犯105名全員に恩赦を与える大統領声明を読み上げました。親族や友人を殺されたフィリピン国民の反日感情を考えれば,明らかに大統領選に不利に作用する声明でした。

 日比谷公園の片隅にある高さ2㍍ほどの大理石の碑の上部には、温厚そうな顔の青銅のレリーフがあり,「キリノ大統領声明」の文字の下に、日本語と英語の文章が彫られています。「私は日本人に妻と三人の子ども,そしてさらに五人の親族を殺された者として彼らを特赦する最後の一人となるだろう。私は自分の子孫や国民に,我々の友となり,我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に憎悪の念を残さないために,この措置を講じたのである」「私を突き動かした善意の心が人間に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である」

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 現在,フィリピンの対日感情はかつてないほど好転しています。かつて「アジアの病人」と呼ばれた経済も順調であり,総人口も1億人を突破したこと等から,日比間の経済交流・人的交流,防衛協力等も益々重要度を増しています。しかしその背景には,50万人の日本人戦没者と,それを上回る罪なきフィリピン人の被害者が存在したことを我々日本人は決して忘れてはなりません。

 戦争責任、加害の歴史と言うとすぐに韓国と中国が俎上に載せられます。もちろんそれはそれとして,しっかりと記憶に刻まなければなりませんが,フィリピンにうちても,日本人が決して忘れてはならない戦場であったことを再度心に刻む必要があるのではないでしょうか。

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