第46話 忘れられた戦場(上)

 大東亜戦争(太平洋戦争)の激戦地で真っ先に思い出されるのは,ガダルカナル,インパール,硫黄島,そして沖縄でしょう。ガダルカナルでの日本兵死者は約2万,硫黄島2万,沖縄約8~10万です。

 しかし,中国戦線を除きあの戦争で最も日本兵の戦死者が多かったのはフィリピン戦線です。大本営は「比島決戦」と称し,フィリピンでのアメリカ軍との会戦を「大東亜戦争の天王山」(小磯国昭首相談)と位置づけ,延べ75万人もの大兵力を送り,うち実に50万人もの兵士が戦死しました。

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 日本軍の真珠湾奇襲とほぼ同時に始まった南方資源地帯の占領は,「南方作戦」と呼ばれ,フィリピンは重要な占領目標とされました。フィリピンには,マニラ湾沖に浮かぶコレヒドール要塞やバターン半島南部で,アメリカ軍の頑強な抵抗にあったものの,1942年4月にはフィリピン全土を掌握しました。マッカーサー元帥は夜陰に乗じてオーストラリアに逃亡し,そこで記者団に語ったのがかの有名な「I shall return.」(私は必ず帰る)です。マッカーサーの有言実行どおり,米軍が約20万の兵力を擁してフィリピン奪還に動いたのが1944年10月20日です。

 ここから終戦までの約10か月,フィリピンでは,日本海軍が始めて神風特別攻撃隊を出撃させました。ジャングルや山岳奥地には敗残兵が立てこもり,戦後も投降勧告を黙殺し続ける兵士も多数いました。

 ガ島,インパール,硫黄島,沖縄などは,その地名が悲惨な戦場の代名詞ともなっていますが,フィリピンだけはあたかもブラインドスポットのごとく日本人の記憶から忘れられようとしています。それはフィリピン戦線が広大な島嶼に幅広く及び,かつ戦後,日比関係が紆余曲折を経ながらも友好善隣の関係として発展してきたことから,逆に負の歴史が日本人に自覚しづらいという側面があるからでしょう。

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 フィリピンは南米での米西戦争(1898年)の結果,アメリカがスペインから賠償名目で譲り受けた領土です。約400年続いたスペインの植民地時代が終わり,宗主国がアメリカに交代したのです。アメリカは当初こそ厳格な統治を敷いていましたが,やがてフィリピン人を発展した文明人へと引き上げようと努め,終には「アメリカの小さな茶色い兄弟」と呼ばせるほどになりました。

 アメリカはフィリピンを極東進出の足掛かりとして要塞化すべく,マニラ湾沖のコレヒドール要塞やクラークフィールド飛行場などを建設する一方,フィリピンのインフラ整備に莫大な予算措置を講じました。電話網,水道・灌漑施設の設置はもとより,教会,学校,映画館,病院等を整備し,基本的人権や民主主義の概念を教えました。

 そのため,1930年代のマニラは「東洋の真珠」と言われるほどの美観を保ち,一人当たりの所得は日本よりも高かったといわれており,この時期マニラに出稼ぎに来る日本人労働者が多数いました。マニラとは正反対に位置する南部ミンダナオ島のダバオ市には沖縄出身の日本人出稼ぎ工が中心となり,大規模な日系人街が作られ,その人口は最盛期で2~3万でした。そのため「第二の満州」と呼ばれ,アメリカから,領土的野心があるのではないかと警戒の目で見られることさえありました。

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 アメリカはフィリピンに独立を与えるつもりでした。1935年,約10年後(1946年)の独立を目途にフィリピン・コモンウェルス(フィリピン独立準備政府)が発足し,初代首班にマニュエル・ケソンが就きました。何もなければフィリピンは1946年にアメリカから独立するはずでした。しかし1941年12月8日,日本の真珠湾奇襲により勃発した太平洋戦争がフィリピンの運命を変えました。

 東南アジアの資源地帯を迅速に掌握し,対米持久戦の基礎とするいわゆる「南方作戦」の経過の中で,どうしても制圧しなければならないのがフィリピンであったため,フィリピン全土は1942年4月までに日本軍の支配下となりました。

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 よく「太平洋戦争はアジア解放の側面があった。」と言う論者がいます。確かに,「南方作戦」が大本営の予想以上に成功を収めた結果,英領ビルマやマレー,蘭印で,日本軍は「イギリス,オランダからの解放軍」と見做され,一時的に歓迎されたことは歴史の事実です。しかしフィリピンだけは様相が違います。フィリピンにおける日本の軍政は初手から破綻していました。

 まず,物資の現地調達が基本の日本軍が軍票(軍が発行権を握る通貨)を乱発し,アメリカの庇護のもとそれなりに発達していたフィリピンの金融経済をインフレによって破壊させました。また,フィリピンがスペイン時代から厳格なカトリック教国であったため,「八紘一宇」(全世界を一つにまとめて一家のように和合させること)(第二次大戦のとき日本が国家の理念として打ち出し,海外進出を正当化するスローガンとして用いられました。)の概念の押しつけに対する精神的反発が大きかったこともあります。

 「アジア解放のための聖戦」を美名にフィリピンを占領したものの,そもそもフィリピンは1946年に独立が約束されていました。何よりフィリピンを占領した日本軍は,前任者のアメリカ軍より圧倒的に粗暴でした。そのため,フィリピン占領初期から各地で抗日ゲリラが頻発し,やがて一大勢力になりました。マッカーサーはオーストラリア方面に撤退して連合軍の反転攻勢の機会をうかがっていましたが,その大きな情報はフィリピンにいる抗日ゲリラからの無線通信や,潜水艦を通じて豪州―フィリピンを結ぶ極秘ルートによってもたらされていました。アメリカ側は抗日ゲリラに武器・弾薬を送り,ゲリラはアメリカに日本軍の情報を送りました。彼らは「マッカーサーの目と耳」と呼ばれ,マッカーサーはオーストラリアに居ながらにして,フィリピンにおける日本軍の一挙手一投足を知りえていたのです。

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