第15話 フィリピンスタイル(下)

 フィリピーナのファミリーに対する愛は負の遺産を生みました。

 「富者は貧者に施せ」とは,キリスト教の博愛精神に基づく倫理上の義務(富者に課せられた義務)であり,日本でも相互扶助の精神は美徳です。しかし,フィリピンスタイルは,その裏返しとして,「食べられなくても誰かがなんとかしてくれる。」という依存精神を生み育んでしまいました。

 依存精神は,貧困層の人々から向上心や自立心を奪い,困ったらファミリーやフレンズあるいは日本のスケベオヤジにヘルプを頼めばよいという怠け心を助長してしまったのです。食べるものさえ事欠くその日暮らしの中で,ファミリーやフレンズ同士で食料やマネーをヘルプし合うことが当たり前のように根付いたのです。

 持っているにもかかわらず誰かに頼られたときに助けないと,日本の村八分のような目にあうこともあります。日本なら「逆恨み」と評価されるでしょう。しかし,ヘルプに応えるという義務を果たさなければファミリーやフレンズから恨まれるという恐怖感が生まれます。そのため,持てる者が持たざる者を助けなければいけないという義務感は,必ずしも道徳心の現れとはいえません。

 そのため貧困層のフィリピーナほど,日本のスケベオヤジから臨時収入が入るとすぐに使い切ってしまいます。使わずにとっておけば誰かを助けるために使う羽目になるため,自分とファミリーのためにさっさと使い果たしたほうがよほどましなのです。その日さえハッピーであればそれでよいのです。

 貧困層のフィリピーナには,カネを後先考えずに使ってしまうという悪癖がありますが,そうした習慣はヘルプ精神の生んだマイナス面です。「貯金するだけの収入がないだけだ」という反論にも一理ありますが,それは浅はかな分析です。

 GDPに占める個人消費の比率は,フィリピンでは70%ほどです。日本やインドは60%,中国は40%です。フィリピンのそれがずば抜けて高いのは,フィリピンスタイルのせいであることがわかるでしょう。

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 ヘルプし合うというフィリピンスタイルは,フィリピーナでさえ自虐的に使う「クラブメンタリティー」(Crab mentality)を育ててしまいました。

 「クラブ」とは「カニ」のことです。フィリピンの港に近い魚市場に行くと,竹で編んだカゴのなかに水揚げしたカニを入れてある光景をよく目にします。カニを一匹だけカゴに入れておくと,カニは竹かごを器用に上り,たちまち逃げ出してしまいます。

 しかし,竹カゴのなかに多くのカニを入れておけば,いつまでたっても一匹も逃げられなくなります。一匹のカニが這い上がろうとすると,他のカニも逃げ出そうとするあまり,そのカニの足を挟んで引っ張り始め,やがてすべてのカニが互いに足の引っ張り合いをするからです。

 相互ヘルプによる仲間意識が強いがゆえに,一人だけ抜け駆けすることをフィリピーナは許しません。もし,自分たちと同じ貧困生活から抜け出そうとするフレンズがいると,ねたみや嫉妬からそれを邪魔しようする人が驚くほど多いのです。悪い噂を流したり,さまざまな罠を仕掛けたりして,自分たちの住む貧困社会から抜け出せないようになんとか足を引っ張ろうとします。

 300年を超える長い植民地生活は,生まれながらの格差については初めから諦めるものの,自分たちと同じ貧困社会にいる人の抜け駆けは許さないという意固地さを生みました。激しい貧富の差が何世紀にも渡って続いているにもかかわらず,大きな暴動や革命が起きるわけでもなく,理不尽な身分社会が維持されてきたのは,こうしたフィリピーナのメンタリティに負うところが大きいといえるでしょう。

 貧困から抜け出すには,それなりの努力をしなければなりませんが,クラブメンタリティーはその努力を妨害します。理性ではなく感情なのです。努力や勤勉によって貧困層から這い上がろうとするフレンズの足は,ためらうことなく引っ張ります。

 クラブメンタリティーが徹底すると,這い上がろうとする努力そのものを自己否定します。下手にがんばれば激しい妬みを買い,人から足元をすくわれるだけだから,そのような努力は初めからしないというわけです。そのため,その日を生きていくことしか考えない刹那的な生き方が貧困層では当たり前になりました。フィリピンの貧困層は精神的にも貧困から抜け出せない連鎖を自ら招いています。

 旅行者はよく,フィリピンの子供たちは貧しくても表情が明るいなどと評しますが,その子供たちの笑顔は,大人になるにつれ消えてゆくのです。

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 スペインがフィリピンを支配した330年間によって形成されたフィリピンスタイルは,カトリック崇拝がもたらした面が大きいといえます。したがって,フィリピンスタイルに対する批判は,カトリックに関する批判とならざるをえませんが,それはフィリピンではタブーであるとか,フィリピーナの聖域に立ち入ることになるから避けた方が賢明だということになっています。

 確かに,現代フィリピーナには,カトリックを「悪」とみなす空気など微塵みじんもありません。ほとんどのフィリピーナにとってカトリックの信仰はアイデンティティの一つになっているでしょう。

 しかし,スペインによるフィリピン統治の歴史はスペイン・カトリック教会による過酷な支配そのものでした。フィリピンを支配したのはスペインというよりも,スペイン・カトリックだったのです(ローマ・カトリックではありません。)。フィリピン提督でさえ,フィリピン・カトリック教会によって追放された歴史があります。

 そもそも,フィリピンのカトリック教徒は,地道な布教活動によってではなく,武力による強制によって改宗させられたのです。そのことを知らず,無批判にカトリックを信仰することによって生まれたフィリピンスタイルを尊重することなど,私にはできません。尊敬すべきフィリピン文化は,カトリックとは無縁のものであってほしいのですが,過去と他人は変えられません。

 カトリックそれ自体が悪だと言いたいのではありません。スペインが植民地支配の道具としてカトリックを利用したこと,それによって貧困と貧困を原因とするフィリピンスタイルが生まれたのです。純粋な原住民は,植民地支配の道具としてのカトリックを無批判に信仰していた(させられていた)のです。それが貧困の連鎖を断ち切れなくしている原因の一つであるのだとすれば,それを批判することは当然です。カトリックそれ自体は批判の対象にはなりませんが,植民地支配の道具としてのカトリックは批判しなければなりません。

 私は無宗教者なので,カトリック自体を批判したいところですが,これを議論すれば宗教論争になりそうなので,このくらいで止めておきます。

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 少しメールが長くなってしまいました。賀茂課長に近況を報告するというよりも私の感想文のような格好になってしまいました。どうかお許しください。

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