第14話 フィリピンスタイル(上)

 前略

 賀茂課長,お元気でしょうか。

 フィリピンに来てからもう1か月経ちました。こちらに来てからは,ジェシカの実家があるマニラのトンド地区にある安宿に泊まっています。ジェシカの実家はいつの間にか立て替えれて,バランガイ一の立派なものになっています。

 長男はもう30歳ですが,無職で,ジェシカの実家に暮らしています。

 長男はいかにもジャピーノという顔つきで,私に似合わずハンサムですが,性格は日本人とは到底思えません。Tシャツのプリントショップをやりたいと言うので,ジェシカが日本から100万円ほどを送金したものの,店は閉めて趣味のバンドをやっています。白タクをするからと言って,ジェシカに400万円もするアルファードをローンで買わせたものの,クルマはガールフレンドとのデート用にしか使っていません。まだ若いのに完全にフィリピーノになっています。

 しかし,父親としての役目を果たせなかった私には,長男に対して説教できる資格はないため,何も言えません。

 最近は読書に明け暮れています。この国で老後を過ごすため,生涯の伴侶としてのフィリピーナを探そうと決めたからには,この国の歴史を勉強しなければならいと思い,日本から持参した鈴木静夫(故人)という大学教授が著した「物語フィリピンの歴史(「盗まれた楽園」と抵抗の500年)」(中公新書)を読み始めました。

 老眼の身には,文庫本の小さな文字を読むことだけでも苦痛です。しかも,この本の文字はさらに小さいばかりか,学術論文のような体裁で難解極まりないのです。しかし,理想のフィリピーナを探すためには,あの異様としか形容できないフィリピンスタイルを理解しなければならないと思い,努力して読み続けています。

 フィリピンに長く住んでいる日本人は,「この国ではフィリピンスタイルを受け入れなければならない。」とか「少なくとも何か一つを捨てなければ,この国では生活できない。」などとアドバイスしてくれます。しかし,私は,まずフィリピンスタイルと呼ばれる異様な生活様式を歴史に遡って「理解」したうえで,それを受け入れるかどうかを決めたいと思います。

     *****

 ジェシカの実家に出入りしているうち,ゴッドマザーのアビゲイル(Abigail)

からジェシカの生い立ちを聞きました。

 アビゲイルは,スモーキーマウンテン(Smokey mountain)と呼ばれるゴミ捨て場のスラム(slum)に長女として生まれました。アビゲイルの父親は,アビゲイルの母が妊娠した途端,脱兎のごとく逃げ去ったそうです。そのためアビゲイルは,シングルマザーの母(ジェシカの祖母)に育てられました。アビゲイルの母親の仕事は,ゴミの中から換金できるモノを拾い集めるスカベンジャー(scavenger)です。

 アビゲイルは,小学校に入学することができましたが,学年が進むにつれ,種違いの弟や妹が次々と生まれ,食べる物を口にできない日々が増えていきました。食費代がかさむようになったからです。

 授業料無料の公立小学校へ通うにも,交通費,制服代,文房具代,昼食代,プリント代がかかります。毎日の食費にも事欠くようになり,アビゲイルを小学校に通わせる余裕がなくなった母親は,やむなく仕事を手伝わせることになります。

 母親からゴミの分別や金目のものを見つける技術を習得したアビゲイルは,子供ながらに一人前のスカベンジャーとして食費を稼ぐ働き手の一人になりました。まだ幼い弟や妹たちを背負い,子守をしながら毎日毎日ゴミ拾いを繰り返す日々が続きました。頑張れば1日で200円ほどの収入を得られますが,1か月で6000円が上限です。今日食べることが精一杯で,将来を考える余裕などファミリーにはありません。考えたところでどうにもなりません。毎日毎日,拾ったゴミを換金し,その足でライスを買いにサリサリストアに行きます。袋麺を一つか二つ買い,そのスープと麺をライスにかけて食べます。

 アビゲイルはゴミ拾いにかけてはプロフェッショナルになりましたが,それ以外の経験と知識は何もありません。それ以外の仕事に就くチャンスも知識もアビゲイルにはありません。

     *****

 アビゲイルは,13歳のとき,同じスラムに住む年上の少年の子を身ごもります。フィリピンでは中絶が法律で禁止されているため,身ごもった以上は産むよりありません。その子がジェシカです。

 ジェシカが生まれても,アビゲイルの毎日は変わりません。狭苦しいブルーシートの掘っ立て小屋で,母親と弟妹たちといっしょに暮らします。スカベンジャー仲間の隣人たちによって子育ては助けてもらえますが,毎日の食費を稼ぐためにゴミ拾いをする日々には何も変わりありません。

 やがてジェシカは小学校に入学します。しかし,苦しい生活の中,やはり小学校を中退して,アビゲイルの仕事を手伝うことになります。

 アビゲイルは,母から伝承したスカベンジャーの仕事をジェシカに伝授します。アビゲイルに教えることができる技能はそれしかないのだから他に選択肢はありません。

 普段の食事は,ゴミを換金してライスと袋麺を買い,ライスに袋麺のスープと麺をかけるというものですが,ときにはそれを買うお金が稼げず,ファミリーは,何も口にできないまま空腹に絶えるしかない日もあり,ジェシカは,お腹が空いたと泣く妹や弟をなだめなければいけない日もあったそうです。

 ジェシカは,15歳のときに,同じスラムの青年の子を孕みました。16歳になると,当時マビニ・ストリートに乱立していたゴーゴーバーで売春婦をしていた叔母の長女(21歳)に勧められ,その名前を借りて「ジャパゆきさん」として来日し,フィリピンパブで働くようになりました。

 6か月ごとにいったんはフィリピンに帰国し,何か月か経って来日するという繰り返しをしていました。フィリピンに帰国中は,ゴーゴーバーで売春をしていました。どちらにしてもジェシカは,給料のすべてアビゲイルに渡していました。

     *****

 「ジャパゆきさん」とは主にフィリピンから日本に出稼ぎに来て,フィリピンパブで働く女性のことを指します。今ではすっかり死語になった言葉ですが,1980年代から2000年代の日本には「ジャパゆきさん」と呼ばれるフィリピン人女性が毎年8万人ほど来日していました。

 彼女たちは,都会はもちろん,地方に至るまで日本のあちらこちらに散らばりました。彼女たちは,日本のどこで働くことになるかは来日するまで知りません。

 彼女たちはフィリピン政府が「海外パフォーミング・アーティスト(Overseas Performing Artist: OPA)」と名づけたプロのダンサーや歌手としての資格を得て来日していました。

 彼女たちはエンターティナーとして,すなわち専門的な技能をもった外国人労働者として来日が許されていたのです。海外から大物アーティストが来日する際に発行される興行ビザと同じ構図です。しかし,現実はダンサーやシンガーの経験などありません。来日前に付け焼き刃的にダンスや歌の特訓を受けるだけです。

     *****

 誤解している日本人も多いかもしれませんが,フィリピンはカトリックの国なので,いかに貧困であっても売春をする女性は極めて例外です。KTVなどで水商売をすることも,フィリピン社会では売春婦と同様であると見なされています。水商売に縁のないフィリピーナの貞操観念は日本の女よりも高いのです。

 売春婦やKTV嬢の抱える事情はさまざまですが,決して自分のためだけにやっているわけでないことはほぼ全員に共通しています。それはひとえにファミリーのためです。どの国であろうと,最下層の仕事であるとわかっていても,偏見と差別にさらされたとしても,ファミリーの生活を支えるためであれば自分が犠牲になることをフィリピーナは厭わないのです。

 フィリピーナにとって,価値観のトップを占めるのはファミリーであり,ファミリーに対する愛は何よりも優先されます。その行き着く先が水商売であり売春であり「ジャパゆきさん」にすぎないのです。

 ファミリーのための水商売や売春を生み出す直接的な原因は,働きたくても生活費を賄えるだけの仕事がないという現実があります。しかし,その遠因には根深いものがあります。それは,富裕層と貧困層が意図的に作られたという歴史的背景,その歴史が育んだ諦観(あきらめの境地),その諦観に基づくヘルプ依存症です。

 330年にわたるスペインの植民地としての歴史は,抵抗しようにもその力がなく,支配層の命ずるがままに生きていくしかない絶望感をフィリピンの被支配者層に蔓延させました。

 貧困とカトリックのシナジー効果により,貧困層の人口は増え続け,それ故に大家族として一層貧困になるという悪循環に陥りました。支配層に搾取されるがまま貧困生活を耐え忍び,ファミリーでヘルプし合わなければ生きていけない歴史が延々と続いたのです。

 こうして,ファミリーに対する愛はフィリピンスタイルと呼ばれるようになりまました。ファミリーに対する愛は世界共通であるはずですが,フィリピンスタイルのそれは一種独特の異常ともいえるものです。ファミリーに対する愛を「文化」とは呼ばないはずですが,それはフィリピーナの精神的支柱として今日に受け継がれています。

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