第38話 亀戸黄門(旅立ち)

  じぃ~んせい/らぁ~くありゃ/く~もあるさ~

  

 老人の名は,徳山蜜君尼とくやまみつくんに亀戸天神かめいどてんじんの前にある商店街で,代々続くキャバクラのご隠居である。老人は,自らを亀戸かめいどのご隠居と呼んでいるが,商店街の人たちからは,亀戸きと黄門と呼ばれている。

     *****

 とある昼下がりの午後,ご老公は,書斎で書物を読みふけっている。傍らには,秘書である頓土真備二とんどまびにと,明棚雄みんだなおがまじめな顔をして,タブレットで電子書籍を読みながら控えている。

 古今東西の書物は読み漁ったが,価値ある書物からは,読み直すたびに新たな刺激を受ける。最近は,兵法書を読み直している。「孫子」「君主論」「五輪書」と読み直したが,何度読み直しても釈然としない。

 「これ,頓さん,明さん,もっと奥義を極めた深遠な書物はないのか。金に糸目はつけんから,もっとためになる書物を探して来なされ。」

 頓と明は,叱責を受けたかのごとく畏まった。

 頓がおそるおそる読んでいたタブレットから視線を挙げて言った。

 「そのように学問ばかりに熱中されず,拙者が今読んでおりましたネットのエンターテイメント小説などはいかがでござりましょうや。そのように紙に書かれた古典ばかりお読みにならず,広くインターネット上の書物もお読みくださりませ。」

 明が追い打ちをかけるように言った。

 「ご老公,拙者もネットのエンタメを読んでおりましたところ,これは未だ書籍として発売されておりませぬが,拙者が読む限り、近き将来,直木賞を受賞するは必定かと存じます。」

 確かに,軍事は情報戦じゃ。最新の情報はインターネットというものにあるらしい。大衆文学は後日再読しようと思っていたが,今読むのも悪くはない。

 「これ,そのタブレットとやらを貸せ。」と命じ,まず頓さんのタブレットを手に取った。

 タイトルに目をやると,それは「フィリピーナを愛したオヤジたち」だった。

 「なんじゃこりゃ!」

 「貴様,このわしをバカにしとんのか!」

 「手討ちにしてくれるわ。」

 「このような汚らわしきタイトルの書物など読む気になれんわ。」と叫びながらも,コメディ本のようなタイトルではあるが,何やら南蛮情緒が漂う。毒にも薬にもならんかもしれんが,今どきの若者がいかなる書物を好んでいるのかを知るために目を汚してみるのも一興と思い直し,読み始めた。

 「第1話 フィリピンの歴史」か。なるほどのう。「第2話 ピンパブ事始」じゃと?「ピンパブ」とは何ぞや。イミフじゃ。なに? 「蘭学事始」じゃと!ああ,あのご高名な杉田玄白先生の書物か!なに?本編とは無関係じゃと!なめとるんか,この書物は!人を小馬鹿にしおって,許せん!

 と叫びながらも,第3話,第4話と読み続けていく。

 ふむ,ふむ。まことに奥が深い。孫子やマキャベリなどの外人には到底わかるまい。兵法を極めたと言われる剣豪の宮本武蔵でさえも到底及ばぬ。

 頓さんは,これをエンターテイメント小説だと思っているようじゃが,読みが浅いわ。まだまだ修行が足りんのお。

 これぞ人類史上最高の兵法書ではないか。誠に深き兵法の極意が書かれておる。

 これはまるで,北斗神拳究極奥義「夢想転生」を伝授しようとする至高の指南書じゃ。

 ご老公は,食い入るように読み進んでいった。

     *****

 陽が傾いた頃,ご老公は,読み終えたのか,手にしたタブレットを置いた。

 「これ,頓さん,明さん,本日は残業を命じる。」

 ご老公が命じると,頓と明は口を揃えて,「はっ,畏まりました。割増賃金をお支払いいただけるなら,何なりをお申し付けください。」

 「今宵は,このピンパブとやらを旅するので,ついて参れ。」

 頓と明は,畏まり,「ははっ。」と即答した。

 ご老公が頓さん,明さんを伴い門を出ようとすると,雑用係の助兵衛が仕事を終えていそいそと帰り支度を始めている。今日も一人で赤提灯にでも行った後,キャバクラにでも通うのだろう。浮気で嫁に逃げられたばかりというのにのんきなやつだ。

 助兵衛は,めざとく3人を見つけ,「こりゃ,お珍しい。お三方揃ってどちらへお出かけで?」と聞いてくる。生真面目な頓さんが,「ご老公のお供をしてピンパブに行くところだ。」と答えると,「それではわたしもお供しませんと不忠ということになってしまいますので,是非ともご一緒させてください。」と言う。

 頓さんと明さんにとっては,その魂胆は丸見えだが,ご老公は,それに気付くようすはなく,「それではついてらっしゃい。」と快諾した。 

 ピンパブを目指す一行の後を現当主の密命を帯びた一人の男が隠れるように追った。総務課長の弥八だった。


つづく

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