第23話 賀茂の憂鬱

「困ったことになった。」と賀茂は,椅子に座ってため息をついた。

 つい先ほどまで,根木からのメール(童話「アビ」)をスマホで読んでいた。読み終えて,ミヒャエル・エンデの「モモ」のパクリかと思ったとき,取締役総務部長の平目一徹に内線で呼ばれた。部長室に入ると,来客用のソファーに座るよう勧められた。

平目:「賀茂くん。うちの備品はどこの業者から仕入れているの?」

賀茂:「はい。10年ほど前からカクヨの代理店をしているネギ文具という業者から納入を受けています。」

平目:「そう。それはどんな会社?」

賀茂:「私は先代のときから付き合いがありますが,今は,番頭だった従業員が会社を引き継いでいるようです。」

平目:「そう。来年度からその取引先を見直してもらえんかね?」

賀茂:「は?何か不都合でもおありでしょうか。」

平目:「いや。そういうわけではないんだが,先日,取締役会議の後の飲み会の席で,常務から,娘婿がカクヨの営業をしているので,ウチと取引をさせてやってくれと頼まれたので承諾したんだ。確かウチはカクヨの代理店から備品を納入してていたよなあ。代理店を切って,カクヨと直接取引してくれ。」

賀茂:「はあ。しかし,ネギ文具は長年取引をしており,合併前の予算が足りないときにも,無理をきいてもらったことがありますので,・・・」

平目:「その借りはまだ返していないのかね?」

賀茂:「いえ,そういうわけではありませんが,・・・」

平目:「なら,いいだろ。よろしく。以上だ。」

平目は,取引をさせたいという業者の名刺を渡し,賀茂は,それを受け取った。

賀茂:「はい。失礼します。」

 賀茂は,部長室を出て,今し方席に戻ったところだ。

     *****

 根木は,フィリピンで第二の人生を始めた。

 日本を去った後,毎週メールで近況報告してくれるとは想像もしなかった。頻繁に送られてくるメールを読むと,根木が人生の新たな出発をしているのがわかる。 何の変哲もない毎日を過ごす自分にとって,いつのまにか根木からのメールを読むことが唯一の楽しみとなった。毎週根木からのメールを読むたび,返事を書こうとは思うものの,何を書いたらよいか皆目思いつかないままだった。

 「いつかは私も・・・」

とまでは思わないとしても,根木がどんどん羨ましくなり,心から応援したいと思うようになった。

 根木は,ゆくゆくはネギ文具を番頭に譲るだろうが,引退したとはいえ今はまだ年金もないか,あっても少額だろうし,会社から毎月なにがしかの援助を受けているはずだ。そう思い,先日,新社長が新しいオフィス用品の見積もりを部下に持参したのを見かけたとき,部下を下がらせ,別室に案内した。何やら大部の見積書であったが,詳細を見ることもなく,

 「君は知らないだろうが,合併前当社の予算が削られたとき,ネギ文具には無理を聞いてもらったことがある。そのお返しをしなければならないので,この見積書は各項目を10%アップにして作り直してもらいたい。」

と言った。

 新社長は,

 「はあ。実はこれでも値切られると思っていたのですが,・・・」

と言うので,

 「まあ。そういうことだ。」

と言って,昨日10%アップの見積書による備品購入の稟議書に決済印を押したばかりだった。

     *****

 どうすべきか。ネギ文具の売り上げの半分近くはウチからの発注だと根木は言っていた。もしウチとの取引を打ち切られれば大打撃だろう。どうすれば,平目部長の要求を拒否できるか。平取の平目部長は常務取締役から頼まれたのであって,断れるはずがない。取締役などとっくに諦めた自分は,取締役の総務部長から頼まれた。どうすることもできないではないか。

 似たようなことはこれまで何度もあったが,すべて従ってきた。というより何も考えることなく上司の言うとおりしたからこそ,課長になることができた。今さら上司に逆らうことはできない。平目部長は,その名前から,その苦労は私ごときでないことは十分推測できる。

 いや,しかし・・・。

 賀茂の脳裏に,フィリピンで第二の人生を過ごそうとしているネギの姿がよぎった。ここは何としてもネギ文具を切ることはできない。作戦を考えなければ。

 賀茂は,退社時刻までの間上の空で考えたが,何もアイデアは浮かばなかった。 部下が少しずつ退社し始めたころ,賀茂は急に内線電話で,平目部長に連絡をとった。

 「部長,お話があるのですが,今度お時間いただけませんか。」

と言うと,平目部長は,

 「今帰るところだ。一杯つきあうかね?」

と言う。初めてのことで驚いたが,

 「はい。私もちょうど退社するところですのでお供いたします。」

と即答した。

     *****

賀茂,平目:「乾杯」

賀茂:「いただきます。」

平目:「いや。割り勘だよ。」

賀茂:「ははっ。恐縮です。」

 賀茂は,生ビールに口をつけた。賀茂は一口だけだったが,平目は一気にごくごく半分以上を飲んだ。

平目:「ところで,話というのは何だね?」

賀茂:「はっ。備品の納入業者の件ですが,ネギ文具を切るのは不憫で,何とか取引を継続したいと思うのですが,・・・」

平目:「ん?なぜだね?あれは常務の指示というか命令だよ。」

賀茂:「実は,・・・」

 賀茂は根木とのこれまでの関係について正直に話をした。緊張で悪酔いしたたいめ,合併前に無理を聞いてもらったというのも実は嘘で,正直ついでに見積書の10%アップの件まで話してしまった。

平目:「水増し請求が本当だとしたらゆゆしき問題だな。会社に損害を与えたのと同じだ。それは聞かなかったことにする。それはともかく,君も上司の命令は絶対だと知っているだろう。私だって常務に頼まれたから断れなかっただけで,君も私と同じ立場だろう。」

 賀茂は何も言えず黙っていた。

平目:「なあ,賀茂くん,サラリーマンって悲しいねえ。理不尽に耐えようやくここまで来たと思ったら,理不尽は尽きることなく続く。課長になろうが取締役部長になろうが何も変わらない。私ももう63歳だ。常務になれなければあと2年で退職だ。幸い子会社の社長などに転職しなくても世間様以上の年金が65歳からもらえるから,そのつもりはない。平目の平目人生ももはやこれまでだ。

 常務は専務,社長を目指しているようだが,私はもう疲れた。どうにでもなれだ。私には北海道で酪農を営んでいた90歳になる母がいる。幸い健康だが,今は一人暮らしだ。退職したら,北海道にもどり,母の面倒を見ながら,たとえ1頭でもいいから牛を飼ってみたい。それが私の余生だ。

 常務の娘婿なんか,くそ食らえだ。子供の仕事に親が出るなんて恥も外聞もなくよくできるもんだ。ちょうど株主総会も終わったから,常務を怒らせたとしても,あと2年は取締役として安泰だ。ネギ文具の件はわかった。常務に聞かれたらどう答えていいかわからないが,君の好きにしなさい。

 根木という人がうらやましい気がする。日本にしがらみがなく,たった一人で好きな老後を過ごせる。私だってそうしたい。こんな人生はもうこりごりだ。」

 賀茂は黙って聞いているうちに,じわじわと涙がたまり,こぼれ落ちそうになるのを堪えていた。

賀茂:「部長ありがとうございます。」

平目:「何言ってんだ。あの常務なんか自分の愛人に銀座でクラブを経営させ,自社や取引先が毎月いくらカネを落とすかをチェックしているんだぞ。それに比べれば,おまえの情実取引なんて一銭もならないのに,その根木というオッサンの理想の老後を援助してやっているだけじゃないか。水増し請求なんて好きなだけやればいいんだ。おっと,これは取消だ。それじゃあ。私は行きつけのスナックがあるので,ここで失礼するよ。」

 平目部長は勘定をして,ネオン街に消えていった。賀茂はその後ろ姿に頭を下げた。

 平目部長が向かうスナックのママが元ジャパゆきさんであることを賀茂は知るよしもなかった。

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