第17話 ゴッド(上)

 前略

 賀茂課長お元気でしょうか。フィリピンに来てもう1か月が経ちます。

 フィリピンの街角を散策していると,多くの教会を目にします。今やカトリックはフィリピーナにとって欠かすことのできない生活の一部になっています。

 多くのフィリピーナは日曜ともなると教会のミサに足を運びます。教会での滞在時間はその信仰心の強弱によってまちまちですが,アジア唯一のカトリック教国として,フィリピーナは深い信仰心を持っています。

 しかし,そのカトリックが,かつてフィリピーナを抑圧し,数え切れないほどの悲劇をもたらした元凶であったことを現在のフィリピーナは知りません。スペイン統治期,カトリック教会がフィリピンで何をしたのかについては,今日ではほぼ忘れ去られており,学校の教科書には触れられていますが,カトリックを批判することはタブーとして否定的な評価はされていません。

 しかし,フィリピンスタイルは,フィリピンの歴史に根ざしており,カトリック修道会のなした悪行から目を背けるわけにはいきません。本来は人を幸せにするはずの宗教が,不幸をまき散らす手段となったからで,それが歪んだフィリピンスタイルの元凶となっているからです。

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 「物語 フィリピンの歴史(「盗まれた楽園」と抵抗の500年)」(中公新書)を四苦八苦の末やっと読破したところです。しかし,フィリピンスタイルの頂点に君臨するゴッドを研究するためには,レナト・コンスタンティーノ著「フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1」(井村文化事業社)を読破する必要があります。今度はこれに挑戦しています。

 なお,以下では,「修道会」が運営する団体を「教会」と呼び,修道士がフィリピーナにとって神父であることを前提としています。

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 スペインによる植民地支配下におけるカトリック修道会の腐敗は,あくまでもスペイン・カトリック修道会によるものであり,ローマ・カトリック教会との関係は薄かったといえます。フィリピンにおけるカトリック修道士の非人道的な振る舞いの数々は目に余るものですが,カトリックそのものを批判することは正しくありません。諸悪の根源は,あくまでもスペイン統治期におけるスペイン・カトリック修道会の腐敗です。

 本来は俗世間とは隔絶した存在でなければならないスペイン人のカトリック修道士がフィリピンにおいて,どっぷりと世俗に浸かった理由は,ローマカトリックとスペイン国王との関係に遡ります。

 国王とローマ教皇との権力闘争は,フランス,ドイツ,スペインなど中世ヨーロッパの絶対君主国では何度も繰り返されました。このうち日の沈まない国と呼ばれた最強のスペインでは,スペイン国王がローマ教皇から「国王の教会保護権」を獲得します。

 「国王の教会保護権」をフィリピンに当てはめると,次のような関係になります。国王はローマ教皇から,本国だけでなく,フィリピンにおいても,司教(イエスの十二使徒の後継者で,任された地域(教区)のすべての教会活動に責任を負う者)や神父(司祭)(司教の協力者で,各地の教会で主に宣教活動や信徒の世話をする者)の任命権を与えられます。そのため,スペインからフィリピンに渡る修道士は,すべて国王の許可を必要としました。国王は,修道士の派遣費用,給与,教会の建設費・維持費を負担します。その代償として修道士は,スペイン国王のため,フィリピンで租税の徴収(貢税徴収)を監督するという行政上の責任を負うこととされました。

 このように,修道士はカトリック修道会に属するものの,スペイン国王の忠実な臣下でもあったわけです。結果的にスペイン人修道士は原住民と直接つながりをもつ利点を活かしながら,フィリピン提督の手先と化し,原住民を搾取する道具であったのです。

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 そこへ王室の財政難が追い打ちをかけます。1588年,スペインの無敵艦隊がイギリスに敗れると,事態はさらに悪化します。もはや王室には各修道会に十分な支援をするだけの余裕などなくなります。そのため財政的に行き詰まった修道会は,フィリピンにおいて自活できるだけの経済的な利権を必要としました。

 フィリピン・カトリック修道会は,交渉の末,スペイン国王に対し,フィリピンにおける土地の所有を認めさせることに成功します。黙想と神への奉仕を目的とする修道会は本来世俗的な財産形成とは無縁の存在であるはずですが,修道会による土地の所有が認められた瞬間より,飽くなき私利私欲が聖職者?の心を蝕(むしば)み始めます。

 かくして修道会は競って土地の所有に乗り出しました。土地の所有制度が確立していない当時のフィリピンにおいて,まともな対価を払って土地の所有権が移ることなど期待できるはずもなく,修道会による土地所有は,原住民への脅しや搾取など様々な非人道的な手口により実行されました。修道会は宣教という名の強制的改宗を始めてからわずか50年の間に,ルソン島とビサヤ諸島において 50万エーカーずつの極めて肥沃な土地を所有したとされています。

 そもそも,バランガイにおいて,土地は誰か個人が所有するものではなく,日本の入会地にように,バランガイ全体で管理するものでした。ところが修道会によって始められた土地の収奪は,原住民を土地を持たない貧しい農民(農奴)へと突き落とすことになります。

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 修道会による土地の寡占は,「アシエンダ」と呼ばれる大土地所有制に基づく大農園をフィリピンにもたらしました。アシエンダこそが,今日のフィリピーナの大半が貧困に喘いでいる元凶です。

 今日に繋がるフィリピンの深刻な貧困は,修道会の推し進めたアシエンダによってもたらされた面があるのです。スペイン国王が修道会に土地を所有する権利を認めていなければ,フィリピンは現在とはまったく違った歴史を歩んだでしょう。

 スペイン統治初期は,エンコミンダ制(Encomienda,スペイン語)がとられていました。エンコミンダ制は,スペイン王室がスペイン人入植者の功績に対する王室からの下賜として,一定地域の原住民の管理を委託する(エンコメンダール)という制度です。委託を受けた個人をエンコメンデーロ(encomendero)と呼びます。征服者や入植者にその功績や身分に応じて一定数の原住民を割り当て,一定期間その労働力を利用し,強制労働により貢納物を受け取る権利を与えるとともに,原住民をカトリック教徒に改宗させることを義務付けたのです。この受託権は一代限りです。

 これに対し,アシエンダ制は,スペイン人入植者による私的な大土地所有制度で,地主自身が原住民を管理し,または原住民の管理を委託するものです。地主は土地の所有権を有するため,相続すれば地位は継承されます。この制度では,原住民を地主自身の奴隷として労働力にできました。

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 土地の所有が認められたことと並び,修道士が暴走を始めることになったもう一つの要因があります。それは,修道士が受け持った教区に在住しながら原住民を管理できるようにするため,修道士に課せられていた「修道誓願」の義務が国王によって一時的に免除されたことです。「修道誓願」とは,貧困,貞潔(童貞),服従(従順)という三つの義務です。

 「修道誓願」の義務が免除されたことにより,修道士は聖職者としての特権を保ちながら,俗世間の享楽に思う存分浸かることを許されたのです。その結果,修道士たちはキリスト教の教義を省みることなく,ひたすら私利私欲を満たすことに夢中になりました。

 歴史家のコンステンティーノは「フィリピン民衆の歴史Ⅰ」のなかで、次のように綴っています。

「それまで聖職者はエンコメンデーロの残酷な誅求を告発してきたが,やがて彼らがそのエンコメンデーロにとって代ることになった。」

 精神世界と現実の行政面を一手に握った修道士らの残虐ぶりはエンコメンデーロの比ではありませんでした。

 修道会が具体的にどのような手口を駆使して原住民から多くの土地を収奪したのかについては,次の機会にお話したいと思います。

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