第12話 さらば祖国よ(私はアニータ)

 関西空港発マニラ行,「エア・アナル」765便の機内最前列右端のエクストラレッグシートにピーノは身を潜めていた。ピーノは必ずこのシートを選択する。鹿児島湾上空で薩摩富士と呼ばれる開門岳が見たいからだった。フィリピンのナショナルフラッグであるフィリピーナ航空と比べチケットは半額以下だ。同じLCCである「シャブ・パシフィック」は,前科を思い出す不吉な名前であるため避けている。

 175センチ,65㎏,体脂肪率1桁の浅黒い51歳のオヤジの眉間や顎には傷だかシワだか区別のできないマダラ紋様があり,頭もマダラにハゲている。そのため,人は,時にピーノを顔面凶器などと揶揄する。

 ピーノは大和魂に溢れた日本男児だ。ハードボイルド小説を好み,「マラテ鮫」を読み始めた昼下がりのフライト。離陸後間もなく,ふと視線を窓外に向けると,網膜に雲がかった開門岳が映った。窓の外を眺めながら開聞岳を見納めとして知覧,鹿屋を飛び立った英霊たちに想いを馳せるのがピフィリピン行脚のルーティーンワークだ。零戦に搭乗し,片道燃料で飛び立った英霊たちと同様,この時のピーノは片道チケットしか買っておらず,再び祖国を見ることはなく,靖国神社に咲く桜か夏の蛍となって戻ってくると堅い決意をしていた。

 何度この風景をみただろうかとピーノは痩せた横顔を窓外に向け回想に浸った。

     *****

 ピーノが片道切符を購入したのは,フィリピンに骨を埋める覚悟をしたからだ。20歳のころから,数知れずつきあったフィリピーナのうちの一人と結婚するためだった。その名は,アニータ。

 当時,青森県住宅供給公社の経理担当主幹だった男がチリ人のアニータに貢ぐため,十数億円の業務上横領をしたしたという事件が報道されたころだった。後にピーノは,チリ人のアニータとフィリピーなのアニータの名前が偶然の一致ではなかったことを思い知る。

 ピーノは,野性的で素朴なアニータに惚れ込んだ。「お母さん,ビョーキ(病気)」「お父さん,シャッキン(借金)」「ワタシかわいそう」「ヘルプミー」などと,キャバ嬢よりもはるかに貧しいボキャブラリーに洗脳され,借金を重ねるようになった。最終的には,組の金庫にあった3000万円の現金を横領し,アニータの後を追ってフィリピンに逃亡する羽目となった。しかし,ピーノは,青森の男よりも遙かに大きい幸福感を抱いていた。青森の男は一度もアニータの母国チリに行くことのないまま刑務所に行く羽目になったが,ピーノは,アニータととともに愛の逃避行を実現することができる。組が警察に被害届を出すこともないし,ヒットマンをよこしても返り討ちにしてやる自信があった。

     *****

 アニータは,セブ島の外れの漁村の生まれで,9人兄弟(男6人,女3人)の末っ子だった。両親はめずらしく離婚をしていない。日本ならビッグダデイと呼ばれテレビ番組にもなる資格があるが,ここフィリピンでは,よくある家族構成だ。

 シングルマザーの長女(30歳)は,長男(7歳)を両親に預け,ドバイに家政婦として出稼ぎに行き,毎月2万ペソ(約4万円)の仕送りをしている。

 これまたシングルマザーの次女(25歳)は,雪だるまのような体型で毎日眠っている時間以外は,スナック菓子,フライドチキンなどのジャンクフードをおかずにして,大盛りのライスを貪っている。雪だるまは,長女(8歳)と長男(5歳)を抱えた出戻りにもかかわらず,労働意欲のかけらもない。

 男の兄弟のうち二人は父親とともに漁師をしている。他の4人は,セブシティに出て働いているが,余裕はないらしく仕送りはしていない。

 アニータのファミリーが暮らしてた「ハウス」は,竹で編んだ壁に泥を塗っり,屋根として薄っぺらいトタンを設置している。天井板などは贅沢品だ。ネイティブハウスとかバンブーハウスと呼ばれるフィリピンの伝統的なハウスだ。しかし,南国では雨露さえ凌げればよいのだと,原始社会に憧れるピーノには気にならなかった。

 しばらく経って,アニータは,「ファミリーのためにハウスを建ててほしい。」と言ってきた。ピーノは,20万ペソ(約40万円)で,新築のネイティブハウスを建てたが,アニータも家族もなぜか不満そうだった。アニータの父親と二人の兄が漁をするための船も買ってやったにもかかわらずだ。

 竹と泥でできた壁は,1年ほど経って乾燥すると隙間ができ始め,夜中に虫が侵入して寝付くのに苦労するようになった。

 ちょうどそのころ,アニータが「ファミリーのためにちゃんとしたハウスを建ててほしい。」と言うので,ブロックの壁に天井板のある2階建てのハウスを建てた。250万ペソ(約500万円)の出費だったが,このハウスは,村一番の豪邸として評判になり,アニータのファミリーもご満悦だった。

     *****

 月日が経つうち,妙なことが起きた。アニータの父も二人の兄も,次第に漁に出なくなったのだ。それまで,三人は,天気のよい日には朝早く漁に出かけ,小さなマーケットや仲買人らしき者に釣果を売って,現金収入を得ていた。しかし,ニューハウスを建てて3か月も経つと,漁に出なくなり,一日中ハウスでテレビを見たりカラオケを歌うようになったのだ。しかも,セブシティに出て働いてた4人の兄弟たちが相次いでニューハウスに住みつき,働きもせず,一日中だらだらと生活をするようになった。そうこうしているうちに,毎月の生活費は5万円から10万円,15万円と増えていった。

 ピーノは,そうした状況に我慢ならなくなり,アニータに「近くの街にハウスを借りて二人で暮らそう。」と提案した。アニータは,「借りるんじゃなくて,買おうよ。」と言うので,2階建てののハウスを建てた。手持ちの現金約1300万円のうち500万円ほどで広い土地を買い,500万円ほどでニューハウスを建てた。アニータは,「外国人は不動産の名義人にはなれないから。」というので,土地も建物も所有者の名義はアニータとした(注/外国人は土地の名義人にはなれないが,建物の名義人にはなることができる。)。このハウスも街で一番の豪邸として評判になったが,手持ちの現金は300万円ほどになった。

     *****

 ピーノは,何か商売をしなければ生活費がなくなるとアニータに提案した。アニータは,「サリサリストアかトロトロをやろう。」という。「何それ?」と聞くと,アニータは,「サリサリストアは,スナックとか日用品を売る店。トロトロは,日本の大衆食堂のようなもの。」と言うので,二人で街中にあるサリサリストアとトロトロを見学することにした。サリサリストアは,アニータの村にあるような自宅の軒先を店舗としただけの零細規模のものから,店舗部分を独立させたものまで,その規模はいろいろあったが,どの店も品揃えは貧弱だった。トロトロは,日本の大衆食堂とは似ても似つかぬ食堂で,一言でいうと「安かろう悪かろう」の,人間がただ空腹を満たすためだけに存在する餌を売る場所としか思えなかった。冷めたおかずに冷めたご飯,ドリンクは常温だ。

 ピーノは,どうせやるなら,サリサリストアにせよトロトロにせよ,差別化しなくては儲からないと思った。サリサリストアをやるなら品揃えを多くし,トロトロをやるなら,内装を清潔かつ目立つようにして,同じような食事だとしても,注文を受けたらせめて電子レンジで温めてから出すとか,店内に電子レンジを置いて,客が食べる前に温めることができるようにすべきだと思った。

 ピーノは,サリサリストアにトロトロを併設した店舗を出そうと決めた。

 ピーノは,街の繁華街と住宅街の境目にある古めかしい建物をアニータ名義で借りた。ストア部分は品数を豊富にし,照明も日本のコンビニのように明るくするなどした。併設した食堂部分は,日本の丸亀製麺方式を採用し,客がスムーズに流れる導線を引き,食べ物は保温ケースに入れた。念のため,2台の電子レンジも置いた。コイン式のカラオケ器も設置して夜には宴会もできるようにした。どんなに少額でも,客には,必ず「サンキュー」と言うことにした。

 この時点で,ピーノの所持金はほぼゼロになったが,このようなタイプの店はなく,二人で始めた店の売り上げは順調に伸び,ピーノは一安心した。

     *****

 それもつかの間,村一番の豪邸に住んでいたアニータの両親が我が家に引っ越してきた。何でも店を手伝いたいからだという。ちょうど商売も繁盛し,二人で切り盛りするには手に余りかけていたことから,ピーノは渋々これを承諾したが,その後,店を手伝いたいという両親の言葉は嘘であったことを知る。両親は,最初の1週間こそ店を手伝っていたが,その後は,店に出ることもなくなり,自宅でだらだらと過ごすようになったのだ。

 しかも,村のハウスに住んでいた4人の兄が自宅に入り浸るようになった。仕事もせず,店を手伝おうともせず,腹が減ったら店に来て,金も払わず食事をする。ストアに陳列しているスナックもドリンクも無料で食べ飲み放題だ。「食べ飲み放題無料」「時間制限なし」という看板などどこにも出していないのに。アニータはそれを咎めることもなく放置している。やがて両親と兄弟は,夜な夜な,友人知人を同伴し,宴会を繰り返すようになった。もちろん,誰も金を払う気はない。それと前後して,アニータは,保温ケースの電源も入れ忘れるようになり,ストアの商品の仕入れにも行かず,昼間から両親,兄弟といっしょになって宴会をするようになった。間もなくして,その店は,資金不足で立ちゆかなくなり閉店した。

     *****

 閉店の日,ピーノはたった一人で,店舗の明け渡しのための片付けをした。夜暗くなってハウスに戻り,ドアの鍵穴にキーを入れると解錠しない。何度か試していると,横の窓が開けられたので,その窓から室内をのぞいた。窓際には,アニータ,その横に両親,その背後に4人の兄弟がいた。

 アニータは,「ワタシもファミリーもノーマネーのアナタにラブないから,出て行って」「アナタの荷物はそこに置いてあるから」と言う。その横でアニータの両親は,得意のカラオケで歌い込まれたデュエットを歌うときのように二人で薄笑いを浮かべていた。ピーノが薄暗い庭を見ると,段ボールの箱が2つ置いてある。ピーノが,「WHY?!」と叫ぶと,アニータは,熱帯夜の夜にもかかわらず,まるで北極圏に住む雪女のごとく冷たく言い放った。

   「ワタシはアニータ」

   「ノーマニー・ノーハニー」(No money,No honey)

 ピーノは,両手に段ボール箱を抱えて,街灯もない暗闇に消えていった。「ノーマニー・ノーハニー」(No money,No honey),「ノーマニー・ノーハニー」(No money,No honey)とつぶやきながら,「日本でいう『金の切れ目が縁の切れ目』とはこのことか。」とニヒルな笑みを浮かべながら,「I shall return」と眼光鋭く独り言を放つピーノには,その怪しい姿を見て,物陰に隠れていた強盗グループがひっそりと立ち去ったことには気づかなかった。

 若きピーノの行方を街人は誰も知らない。


 

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