第3話 ピンパブ事始(下)

 1分経ったのか,10分経ったのか,根木の横に座るジェシカの下半身から発せられるレーザー光線にも,20年前は若かったであろうオバさんの毒蛇のごとき温もりにもようやく慣れた頃,賀茂はふと我に返った。

 向かいでは,ひそひそ話が一段落したのか,ジェシカが,根木に「ドリンク/イーデスカー?」(訳注/ドリンク(一杯)いいですか?)とおねだりしている。根木が「いいよ。」というと,すかさずオバさんは,「ワタシモ/イーデスカ」(訳注/私も(ドリンク)いいですか。)と言う。歯の抜けたオバさんを見つめながら,「ああ。」と答える。オバさんがボーイを呼び,ドリンクをオーダーをする。しばらく経ってボーイが持ってきたのは,フルボトルサイズのテキーラだった。

     *****

 銀座の自称高級クラブでも,ホステスは,カモとみなした客には,一言「ドリンクいいですか。」と言って,フルボトルのワインを持ってこさせることがある。そのボトルの値段は,ホステスがカモとみなした客の懐具合を推測して決まる。

 加茂は,自分の名前(賀茂=カモ)を反面教師とし,これまで,ホステスのカモだけにはならないと固く決心していた。例えば,ホステスに「ドリンクいいですか?」と聞かれると,条件反射のように,必ず「何飲みたいの?」と聞き返すことになっていた。ホステスの答えが,カクテルとかジュースというものであれば,「ふーん。」で終わるが,それが「ワイン飲みたい。」であるなら,さらに面倒である。 

 ワインには,グラスもあれば,ハーフボトルもあるし,フルボトルもある。ましてや,夜の店のワインなど,どのようなものであれ,値段などあってないようなものだから,自分で払うときなどは,細心の注意を払わなければならない。

 その昔,加茂がまだ20代だったころ,なけなしの金をはたいてお気に入りのキャバ嬢に会うため,キャバクラに行ったところ,やはり「ワインいいですか」と聞かれ,無理して「いいよ」と答えたところ,フルボトルの赤ワインを注文されたことがある。彼女がトイレのため席を立ったとき,彼女のグラスについであった「赤ワイン」を飲んでみたら,それはワインのボトルに入れた,ただのグレープジュースだった。

 賀茂にとって,目の前にいる根木とジェシカの関係は,根木がカモにされているとしか思えなかったが,ほろ酔い加減ながら,カモにされているのは,サラリーマンをドロップアウトした根木であって,サラリーマンの本分を貫き,大手企業の課長になった自分に限ってはありえないことだと妙なプライドに満足していた。とはいえ、カモ・賀茂とネギ・根木はミラーボールの輝きの中で攪拌され,徐々に渾然一体となっていることには気づかなかった。

     *****

 「延長しますか。」不意にボーイが根木に声をかけてきた。根木は,チラと私に目を向けて,「どうしますか?」とアイコンタクトをしてきた。賀茂の自覚する明確な意思は,隣に座っている蛇腹のオバさんから一刻も早く逃げ出したかった。ところが,心とは裏腹に,賀茂は,根木に対し,「根木社長もまだ心残りでしょうから,もうワンセットだけつきあいますよ。」と言ってしまった。と,その瞬間,賀茂は自覚した。「おかしい。今日の自分は,心と体が分離している。思っていることとやっていることが違う。」と。

 そのとき,ボーイが,「アナさん」と声をかけてきて,アナコンダは席を立った。賀茂は,ジェシカが去った後,加茂は,なみなみとテキーラの入ったグラスの上に置かれたコースターに目を向けながら,オバさんを呼んだボーイが救世主に見え,人生最大の危機から救われたという感じた。

     *****

 「シツレーシマース」(訳注/失礼します。)という声が聞こえ,20代と思しきフィリピーナがまたもや両手で握手を求めてきた。そのフィリピーナは,「ハジメマシテ。タカコデース」(訳注/初めまして。タカコです。)と微笑みながら横に座った。フィリピーナであっても,キャバクラの源氏名のような日本風の名前をつけることもあるのかと思った瞬間,ギョッとした。タカコは,身長165センチほどで,顎はシャープ,ウェストは加茂の太ももくらいの細さで,そのルックスはスペイン映画に登場する美女と見まがうほどだった。さきほどまで横に座っていたフィリピーナの名前さえ忘れ,なんてかわいい子なんだと驚いた。根木を見ると,根木は,ジェシカの腰に手を回し,鼻の下が腰まで届かんばかりの表情をして,加茂などここには存在しないような態度をしていた。

 蛇腹のオバさんに対しては,流暢な日本語で話しかけられても聞き流すだけで聞く耳持たず,「まあ。」とか「そう。」と生返事だけをを繰り返していたが,タカコに対しては,「君,何歳?」と自ら話しかけた。タカコは,キョトンとしながら,「ゴメンナサイ。ワタシ,ニホンゴ ワカラナイ」(訳注/ごめんなさい。私,日本語わからない。)と答えた。

 賀茂は,文学部英文学科を卒業しているものの,大学卒業後は英語を使う仕事に就いたことはなく,プライベートでも英語を話す環境にはなかったが,ここは昔取った杵柄と思い,下手な英語で話しかけてみようと決心した。加茂には,フィリピンの公用語が,タガログ語と英語であることを知っていたからである。

 「How old are you?」(何歳ですか?)と聞くと,タカコは,「I'm twenty two.」(22歳です。)「Sacho,Do you speak English?」(サチョウ,英語が話せるんですか?)と答える。加茂は,えっ?社長?わたしは社長ではなく,課長なんだけどなあ・・・課長って英語でなんて言うんだっけなあ?と思いながら,「I'm not a president.」(私は社長ではないよ。)と答える。タカコは,きょとんとした。

 タカコに対して,我を忘れて積極的に話しかける賀茂の右手はタカコが置いた右膝の上の左手に覆いかぶさり,その鼻の下は先ほど内心で根木を馬鹿にしたことも忘れていた。向かいから根木が加茂の鼻の下が床につきそうなほど伸びていると馬鹿にしていることにも気づかないまま。このときの賀茂には「タカコ」という源氏名が「鷹子」すなわちカモの天敵である鷹(hawk,falcon)の子(girl)という意味であることを知る由もなく,タカコの目の奥から細いが鋭く発せられるホークアイさながらの眼光に気づくことはなかった。

     *****

不意に,ジェシカとタカコが立ち上がり,ステージに向かう。店内にいるフィリピーナたちもすべてステージに上がっていく。突然,大音量の音楽が流れ出し,フィリピーナたちはダンスを踊り始める。その曲「The Manila」https://www.youtube.com/watch?v=Xe6356qxT6g

を加茂は知らなかったが,課長職以上を望めない今の自分でもフィリピンパブでは社長になれるのかと妙な気分になったまま,ステージを見つめていた。


 マーニラじゃシャッチョサーン♪(シャッチョサーン♪シャッチョサーン♪)

 パルパロシャッチョサーン♪(シャッチョサーン♪シャッチョサーン♪)

 マーニラじゃシャッチョサーン♪(シャッチョサーン♪シャッチョサーン♪)

 ボラボラシャッチョサーン♪(シャッチョサーン♪)


 愛して/なくても♪(シャッチョサーン♪)

 一晩/だけなら♪(シャッチョサーン♪)

 マニラの/夜は宝石の街♪


 東京に/帰れば♪(カッチョーサーン♪)

 社長に/なれない♪(カッチョーサン♪)

 マニラの/夜は/誰でも/みんな♪ (シャッチョサーン♪)



https://www.youtube.com/watch?v=8nuPs2UiFbE


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