第37話
バグもエイジも横に縦にぐるぐると回りながら落下していく。
ただただひたすら暗闇の中を落ちて行くバグとエイジ。
やがてはるか底の方に小さな光が見えた。
光は徐々に大きくなり二人の全身を激しく照らす。バグはとっさに身を小さくした。バグがあたりの様子を伺うと、眼下には夕日のオレンジ色に染まった街が広がっている。街は海に囲まれており、建物はそこそこ密集してはいるものの緑が多く、その街を真っ二つに切るようにして一本の路面電車が走り、その線路は海の向こうまで続いている。そして隣には真っ白な巨大なタワーが天と地を繋ぐようしてそびえ立っていた。
南国に棲んでいそうな鮮やかな鳥の群れが目の前を横切り、タワーの周りには艶やかな朱色が美しいでっぷりとした金魚が列をなして優雅に泳いでいる。そしてはるか遠くには雲の合間を巨大な白いクジラがオレンジ色に照らされながらのんびりと泳いでいた。
バグは両肩から黒い靄を吹き出し大きな翼を形成した。毒々しいほど真っ黒で艶があり、雄々しい二本の翼。だがその翼も下からの強い風を受けると根元からブツンともげ頭上で瓦解した。バグのダイ場を操作する力がすっかり弱くなっているようだった。
タワーの周りを泳いでいる金魚たちが小石を投げられたようにサッと散った。
バグが反射的に視線を向けると、タワーの下の方からリレーのように部屋の明かりが灯った。
部屋の中に人影が見える。不思議なことに猛烈なスピードで落下しているのにもかかわらず、それははっきりと分かる。いわゆる映写機の残像効果に似ていた。
タワーに見える人影は小さな女の子、一歳の時のコズエだった。ヨチヨチ歩きで母親の元へ歩いて行き、強く強く抱きしめられる。
その次に見えたのは三歳の頃のコズエ。黄色い帽子に黄色のカバン、青いスモックを幼稚園に出かけようとしていた。父親には満面の笑顔でいってきますと手を振っている。
それから少し大きくなったコズエが見えた。まぶしいくらいにキラキラとした新品のランドセル背負って、嬉しそうにくるくると回るコズエ。後ろ姿はまるでランドセルに足が生えているようだった。
次々と現れる過去のコズエの像を見てバグは苦しそうに呻き声をあげた。体のあちこちに入った亀裂から排ガスのように真っ黒な靄が溢れ出る。
次に現れたのはセーラー服を着たコズエだった。ベッドの上に寝っ転がりながら電話握りしめ、時折口を大きく開けて笑っている。電話の相手はおそらくナミコだろう。
その次はブレザー姿のコズエ。エイジも知っている高校の頃の制服だ。泣きじゃくりながら母親と喧嘩をしている。いつもニコニコしているコズエしか知らないエイジにはとても意外だった。
次に現れたコズエは今までとは全く違う部屋に座っていた。おそらく大学時代の一人暮らしをしていた部屋だろう。コズエの他にもエイジが見たことのない女の友人らしき姿が数人居て楽しそうにおしゃべりしたり時折ふざけてじゃれあったりしている。
そしてオフィス制服を着たコズエの姿が映し出さられた。その格好から察するに最近のコズエの姿を映したものだろう。しっかりとメイクをしており、その長い髪にはクルクルとしたゆるふわヘアアレンジが施されている。すっかり大人びた雰囲気に変わってはいるが、ベッドに腰を下ろし携帯をいじりながら時折溢れる笑みは昔のコズエの笑顔そのものだった。
「なんだよ、今でもそんなに楽しそうに笑えるんじゃないかよ」バグはその言葉を聞くとエイジの方に顔を向け咆哮した。空気が破れるようにビリビリと震える。
「コズエ! そんなもん脱いじまえっ! そんなもんに飲み込まれるな! お前はバグになる必要なんて全然ないんだ! お前はまだあんなに楽しそうに笑えるだろ!」
バグがタワーに顔を向け直す。バグは苦しそうな呻き声をあげると頭をかきむしり、空中で身悶えた。
胎児のように身を屈めるとエイジにも聞こえるほどバリバリと音を立てながら体中にヒビが入る。爆発でもしたかのように黒い靄の塊がバグの体から逃げて空中で散り散りになった。
「帰ってこい、コズエ! 帰ってこい。家に帰ろう……」
バグは巨大な水柱を天高く上げて海にぶつかった。空に舞った無数の水粒が水面を軽やかに叩いた。
浮かび上がったバグが顔を出すとバシャバシャと水面を打って暴れる。やっとの思いで陸地に上がるとそこは海にポツリと浮かぶ小さな駅のホームだった。
バグはすっかりコズエに戻っていた。素顔を覆っていた黒い仮面は剥がれ落ち、ところどころにどす黒い油のようなものが顔にこびりついている。コズエは逃げることもせず、小さな肩を揺らしただただその場に立ち尽くしている。
やがて、一両編成の電車が海面を滑るようにしてホームにやってきた。
クリーム色した古ぼけた電車。ずぶ濡れになったダボダボの黒い服を引きずりながらコズエは吸い込まれるように電車に乗り込む。敷かれた艶のない木製の床を踏むと小さくキシキシと音を立てた。
電車の中はくたびれたモケット生地のロングシートにエイジがただ一人座っていた。コズエはエイジの隣にゆっくりと腰を下ろした。
「……久しぶりだね、エイジ君」
「高校卒業以来だもんな」
「ん? どうかした?」
「なんかその、随分大人っぽくなったっていうか……」
「ホント? なんだか嬉しいな。でも全身ビショ濡れになっちゃった」
「大丈夫、すぐに乾くさ。それで今の気分はどう?」
「……なんだかカラっと晴れたみたいな気分。なんて言うかなあ、今まではまるで心の中が分厚い雲で覆われているような暗くてどんよりとしていたの。どこまでいってもずっと薄暗い場所を歩いているような。でも、今日は久しぶりに楽しかったなあ。エイジ君やナミちゃんとも会えたし」
「知らなかったよ。コズエがこんなにも苦しんでいるなんて」
「うん……。でも大人なんだから仕方ない、辛いのはみんな一緒なんだって我慢してたんだけど、ダメだったみたい……」
「いいんじゃないかな?」
「え? いいって?」
「別に我慢しなくても。例えダメでも、それの何がいけないのさ?」
「だってそれは……。みんなに迷惑かけちゃうし」
「今まで頑張ってきたんだから、ちょっとぐらいは迷惑かけないと。周りがきっと何とかしてくれるよ」
「ダメだよそんなの! そんなことしたらきっと……」
「……お父さんのこと?」
「……」
「お父さんのことは俺は詳しくは知らない。だけどコズエが原因だってことはきっとない。そのことを一人でずっと抱え込む必要なんて絶対にない!」
「エイジ君……」
「だからもうちょっと素直に気楽にやってみてよ。もしも万が一、何かあったら俺がいる! 多田もいる! 俺の上司もボスも行きつけの喫茶店のマスターもきっと力になってくれる。それから駐車場警備のコウタ君ってのもいるんだけどさ、見た目怖いけど本当はいい人だからきっと彼も力に……」
「もぉ~! どういう交友関係よそれ!」
「あ、あれ? 変だった? でも本当にいい人たちばかりだからさ……。ちょっと、笑いすぎじゃない?」
「あ~もう、久しぶりにこんなに笑った。……ありがとう。もうすっかりいいみたい」
「俺もコズエとこうやって話せてよかったよ」
「エイジ君、なんだか体から白い煙っていうかモヤみたいの出てるけど……」
「ん〜、そろそろ時間みたいだな。ほら、もう駅に着く。そこで降りたらいいよ」
「エイジ君、これは夢なの? それとも現実?」
「もちろん夢だよ。目が覚めたらもっともっと楽しくて素晴らしい事が嫌ってほど待ってるよ。コズエ次第さ」
「エイジ君。また、会えるよね?」
「会えるさ。会いに行く」
「ありがとうエイジ君。おやすみ……」
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