第33話
エイジが目を開けると前回ダイブした時と全く同じ光景が目に飛び込んできた。白く所々くすんだ校舎、自分のすぐ目の前を通り過ぎる同級生たち、怒鳴るような大きな声で挨拶する教師。ということはコズエはこの数日間はずっと同じ夢を、同じ夢の中で苦しんでいたのか……。
「うっ! ちょっと待て、なんだこれ?」エイジは不意に顔をしかめた。前回と全く同じと思われたそのダイ場には一つだけ違うことがあった。
「オエッ、く、臭い! なんだよこの臭い? なんでこんなところで……」エイジはとっさに手の甲で鼻を押さえた。甘く酸っぱい匂いだが、嗅いでいると胸がムカムカするような嫌な気分になる。
「これはさすがにマズイだろ。とにかく急がないと」
オペレーターがいないダイ場への初めてのダイブ。外からのサポートはない。時間に余裕はないが、焦ったままバグと対峙しても結果は目に見えている。
エイジは気持ちを落ち着かせるために自分の体を確認した。初めて自分がダイブをした時のように。
「いつもの茶色のツナギに……、よし、スリープガンもちゃんとある。いつも通りだ。やっぱり本部のベッドルームでも装備は一緒なんだな。スリープガンが通用するかは怪しいところだけど……」装備を確認すると早々とスリープガンを抜き取り、両手で握り締める。
横切る生徒たちの合間を抜け校舎の中に恐る恐る足を踏み入れる。
エイジが校舎の中に一歩入った途端、音が消えた。テレビの電源をプツリと切ったかのようにあたりは一瞬で静まり返った。弾かれたように辺りを見渡すと、先ほどまであれほど学生たちで溢れていた校内の人影は綺麗さっぱり消えている。
エイジにはそれがバグの仕業だとすぐに分かった。こちらを脅かしているのか、それとも挑発のつもりか……。いずれにせよ前に進む以外の選択肢はない。
バグがいるであろう教室に向かう道中も誰ともすれ違うことはなかった。ダイ場は静寂、というよりも無音の状態。空気が流れる微かな音もない。エイジの足音や息づかい、小さな咳払いや忙しそうに動く心臓の音だけがグワングワンと校舎に響く。
どんな小さな変化も見逃すまいと神経を研ぎすませながら、地雷原を歩くように一歩一歩慎重に進んでいく。
エイジが教室にたどり着くと辺りを警戒しながら廊下側の窓から中を覗くと教室の中はポツンと一人机に座るコズエがいた。他のクラスメイトはもちろん、バグの姿は見当たらない。そろりそろりと静かに教室の扉を横に滑らせて中に入る。
「うっ!」入った瞬間、エイジはすぐさま手で口元を覆うと体を捻った。先ほどの何倍もの強烈な悪臭が鼻を突き抜け脳天を刺激した。生物が腐ったような匂いに悪意が芽生えたようなおぞましさ。
そこが本部の連中が言う肉体のない精神世界にも関わらず、思わず吐きそうになる。
バグがこの場にいるのは間違いない。姿は見えないが油断はできない。エイジはコズエから目を逸らすなと自分に言い聞かせた。大事なことは観察すること、ただ見るのではなく、看るということ。
教室中に充満していた嫌な匂いが換気扇に吸い込まれるようにスウっと引いた。いや、引いていくのではなく一箇所に集中していく。コズエのすぐそばにどす黒い煙が渦を巻くように集まり、みるみる人の形を作っていく。そしてあっという間にバグが姿を現した。その姿は前回よりも禍々しく見えた。全身から赤黒い靄を立ち上らせ、乱暴に肩を揺らしている。バグに表情というものがあったらきっと鬼のような形相をしているに違いないと思えるほど荒々しい様子だ。
エイジはバグが現れてもスリープガンを向けることはしなかった。ただ強くスリープガンのグリップを汗ばんだ手でギュッっと握りしめたまま、瞬きもせずまっすぐバグを見つめていた。バグの体から流れ出るモ靄、黒いツナギや顔に貼り付けている仮面の質感、バグがどうやって自分を叩きのめそうか考えていることまでも理解できるよう深く観察し、看破しようとした。
バグから出ているモヤが急に少なくなった。その瞬間をエイジは見逃さなかった。「来る!」そう思ったエイジはすぐさま横に身を投げ出した。それよりもほんの僅かに遅れてバグがエイジめがけて猛突進した。大きな衝撃音とともにバグの右腕がエイジの後ろにあった黒板に深く突き刺さる。
間一髪で難を逃れたが、間合いを詰められたエイジ。体を翻し、尻餅をついた状態になる。それでもスリープガンを撃つどころか構えもしなかった。とにかくバグの観察を続ける。バグの攻撃で埃や塵が辺りに漂うが、以前瞬きをすることなくほんの僅かな時間も観察に費やす。
バグは猛獣の咆哮と女のヒステリックな喚き声がミックスされたような雄叫びと共に右腕を引き抜くと、エイジの胸元をサッカーボールをシュートするように蹴り上げた。
エイジはとっさに腕をクロスさせて蹴りを防御するが、それでも強烈な衝撃が体を突き抜ける。エイジは勢いよく滑ると壁に叩きつけられた。思わず呼吸がつっかえる。
痛みと息苦しさで瞼が痙攣する。視界に微かだがノイズが混じり始める。それでもエイジは視ることをやめなかった。ブルブルと痙攣する瞼の隙間から暴れる焦点を必死にバグに合わせた。
バグがヒタヒタとゆっくりエイジに近づくと耳をつんざくような不気味な声で何かを訴えてくるように喚き散らす。以前のダイブの時とは明らかに様子が違う。これはまずい、とにかく起き上がらなければと思うが体はうまく動いてくれない。
『エイジ君、無事か?』突然頭の中で響くアキオの声で意識が鮮明になり、痙攣していた手足の感覚がシャープになる。
「あ、アキオさん!」
バグがエイジを踏みつけようとするのをとっさに体を横に転がして躱す。そのまま急いで立ち上がり身構えるエイジ。
「アキオさん、どうなってるんですか? ベッドルームは使えないはずじゃ……」ジリジリとバグの動きを警戒しながらアキオに尋ねる。
『実はテンマ支所のベッドルームを使わせてもらってるんだよ。どうも本部から連絡があったらしいんだよね。エイジ君の今のデータは全てリアルタイムで本部から転送してもらってるんだ。君の元には所長が向かってるよ。それでどんな状況だい? 数値を見る限りあまりよろしくない、というかだいぶ悪いようだけど』
「今まさにバグと交戦中です! 今回は今までよりも……」
そう言いかけた時、バグが一瞬で距離を詰めエイジの胸ぐらを鷲掴みすると後方の壁に叩きつけるように投げた。エイジの後方は窓ガラス。宙を舞いながら「ハジかれる!」と反射的に思った。
だが、予想に反してエイジがハジかれることはなかった。その代わり背中にズシンと重たい衝撃が走る。エイジが叩きつけられたのは窓ガラスではなく、白く冷たいコンクリートの壁に変わっていた。
エイジの身体中の骨が軋み、悲鳴をあげる。あまりの痛みに身悶えることもできず、横たわるエイジ。もはや視線をバグに向けることもできなかった。
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