第34話
エイジを見下ろすバグはやおら掌を前に突き出す。すると天井から無数の黒い蔦が蛇のようにうねりながら降りてきてエイジの体中にぐるぐると巻きついた。続けてバグは撫で付けるようにクルリと掌を回すと黒い蔦がエイジの体を床から引き離し磔にされたような格好で立たせた。
エイジは自分に絡みついている蔦をなんとかしようと必死に手首をひねりスリープガンを上に向けようとした。
その瞬間バグがエイジにかざしている掌を握り潰すようにギュッと閉じた。それに呼応して黒い蔦がエイジの腕を強烈に締め付け、枯れ枝が弾けるような音と共にスリープガンを握っている腕をへし折った。
今までに見たことのない方向に折れ曲がった自分の腕を見ながらエイジは叫び声をあげた。
『どうした、エイジ君! 大丈夫か!』アキオはエイジの悲鳴を聞いて慌てて呼びかけたが、返答する余裕はエイジにはなかった。
蔦が突然エイジの体を解放するとエイジはそのまま床に崩れるように倒れこんだ。
『一旦距離を取るんだ! エイジ君、そこから離れろ!』アキオの声が頭の中で跳ね回る。
エイジは窓枠に手をかけ立ち上がると這いずるようにして教室を出た。一歩でもバグから遠ざかるためにおぼつかない足取りでヨタヨタと逃げる。あれほど必死になってバグを観察しようとしていたのに今のエイジの体は恐怖で溢れていた。筋肉はビリビリと痺れ、骨は軋み、内臓は絞り上げたように苦しい。そこにあるはずのないエイジの肉体が悲鳴をあげている。
だが十メートルも行かないうちにエイジの足がガクンと沈んだ。バランスを崩し危うくつんのめりそうになる。視線を足元に落とすと自分の足が泥沼に飲み込まれるように床にめり込んでいた。
足を引き抜こうと必死に足掻くがビクともしない。
目の前の床が盛り上がり、湧き出るようにバグが姿を現す。その右手には鋭く光るコンバットナイフが握られている。
エイジの足はガクガクと震え、呼吸の間隔も短く荒くなる。体が恐怖に支配されて行く中、エイジはあることに気がついた。
「……あれ?」
バグの左手がせわしなく小刻みに動いている。人差し指から小指までの四本の指がトトトン、トトトンとリズミカルに自分の腿を叩いている。
「こ、……コズエ?」
エイジはナミコから聞いたコズエの癖のことを思い出した。ストレスが溜まった時によく出る癖。その仕草を目の前でバグがやっている。それに猛獣や怪鳥の咆哮に混じって聞こえる女の声。悲しさや怒り、不安や恐怖が入り混じったようななんとも言えない声。エイジに助けを求めているかのような切迫した声……。
「お、おい! お前コズエか? 俺だよ、わかるか? 不二沢だよ! ……そうか、夏野さんが言ってたことっていうのは……」
エイジは全てを理解した。バグが一体何なのか。
「アキオさん、わかりました! バグの正体が! バグは、バグこそが対象者だったんです!」
『何? ちょっ、ちょっとどういうことだよ!』
「だから! 俺らがバグだって思っていたのは実は対象者で! 対象者だって思ってたのは創り出された影、ドッペルゲンガーだったんですよ!」
『ドッペルゲンガーだって……! それじゃあ……』
「対象者は無意識のうちにバグの姿になってもう一人の自分、ドッペルゲンガーを殺そうとしているんです!」
対象者はいわゆるドッペルゲンガーでバグこそが対象者そのもの。だから驚異的な身体能力を発揮することができるしダイ場を思い通りにすることもできる。夏野がバグを倒した後に対象者が死んでしまったのは、バグと対象者は繋がっているためだったのだ。エイジは今、コズエの深層心理と対面しているということになる。
『つまり、自分で自分を殺そうとしているのか! でも何だってそんなことを?』
「……肉体の放棄。あいつら、本部の奴らが言ってた、無意識に精神を肉体から解放しようとしているのか」
エイジは風絽木の言葉を思い出した。人間誰しもが抱く精神世界への欲求。強いストレスを抱えることでごく稀に、無意識のうちに自らの肉体を放棄することで精神世界を目指そうとする。その無意識という存在がバグを生み出していたのだろうとエイジは考えた。
バグの左手がエイジの首を鷲掴みにするとギリギリと万力のように締め付ける。エイジの手からするりとスリープガンが離れ落ち、床にゴトンと転がった。
エイジの視界の端がどんどん白くなる。手足の感覚が徐々に曖昧になり、血液の流れる音が耳のすぐそばで聞こえる。
『おいおいおい! 同調が起きてるぞ! どうしたエイジ君、しっかりするんだ!』頭の中に直接聞こえるアキオの声さえもはるか遠くに聞こえる。
エイジは影踏みした時のように余計なことを考えずにコズエをバグを受け入れるように、精神状態をフラットにする。徐々に息苦しさは薄れ、頭の中に色々な記憶が流れ込んできた。小学校の卒業式や中学校の修学旅行、家で飼っているペットの犬との楽しい思い出や、ナミコと夜遅くまで長電話したこと……。
ぼんやりしていた記憶は徐々に鮮明になっていき、次に思い浮かんだのはクラスメイトたちの顔。懐かしいはずなのに、なぜだが胸がムカムカする。
記憶の波は途切れることなくエイジの内側に入ってくる。それに比例して気分はどんどん悪くなる。職場の上司や同僚たちと思われる人間たちにはもはや嫌悪感しかなかった。喉の奥から酸っぱい空気が流れてくる。
嫌な記憶の群れに埋もれるように隠してある色あせた記憶のかけらを見つけた。それはずっと幼い頃の父親との思い出だった。おぼろげながら覚えている父親との楽しかった日々。そんな父親が家族の元を去っていった日のことも。
「皆んなから好かれたいとか、いい顔したいとか、そんなんじゃねえんだな……。親父さんのこと、自分のせいだと思っていたんだ。自分がもっと父親に好かれていれば出ていくこともなかったと……。だから無意識のうちにどんなやつにも愛想よく振舞っていたんだ」
『エイジ君、聞こえてるか! このままじゃ帰れなくなるぞ! ここは君の夢じゃないんだ!』アキオが声を張り上げているのがぼんやり聞こえる。
「いや、俺の夢ですよ。半分はね。コズエを救うにはもうこれしかないんですよ」
『どういうことだ! 君、一体何をする気なんだ!』
「すいません、アキオさん。通信切ります。サポートありがとうございました。また後で……」
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