第32話

「実際に人は夢の中で見て聴いて触り、味わい、匂いを嗅いで、そして体験する。まるで本当に自分がそこに存在しているかのように。それは人間の脳が創り上げた【幻】だという者もいるだろう。しかしそれだけの【幻】を創り上げるのにどれだけのエネルギーがいると思う? 体を休めるために睡眠を取っているというのに」

「ちょ、ちょっと待ってください。それじゃあ、夢っていうのはそ本当の世界、例えば異世界みたいなものだっていうんですか?」エイジは顔をしかめた。そうだったのかとすんなりと納得できるわけがない。

「異世界か……。厳密には違うんだが、そう言えば分かりやすいかもしれないね」

「それじゃあデタラメで理不尽な夢の世界も現実だっていうんですか? まるでカラフルな絵の具をバケツにぶちまけて、力任せにかき混ぜたような世界が存在していると?」

 エイジが食ってかかるように言った。こんな馬鹿げた話に付き合っている暇はない。一刻も早くコズエのダイ場に行かなくてはならないのだ。

「ふんっ。そういう夢しか見れないやつはな、肉体に対する執着心が強いんだよ。きちんとした夢を見ているのにまともに認識すると言うことができていないんだ」刈田が鼻を鳴らした。

「彼のいう通りだ。夢をしっかりと認識できない者は肉体に対する執着心がとても強い。いわゆる現実主義とかいうタイプの人間だな」

「……それじゃあ逆にはっきりとした夢を見る人っていうのは……」

「そう。肉体の、ひいては現実世界に対する執着が薄い人間だ。そういうタイプの人間がダイバーとして適性があるわけだね。もちろんエイジ君、君も例外じゃない」

 エイジは言葉を失った。ショックだったが思わず納得してしまった。アキオに会ってダイバーになるまでの自分の生活を思い出す。睡眠障害のおかげで将来への光が見えず、深い穴の底をひたすら這いずるような毎日。現実世界への執着なんてあるはずもない。

「思い当たることがあるようだな。まあ、別に恥じることはないさ。片方だけの世界に執着するのが正しいとは私は思わない。いや、それよりも夢の世界に目を向けようとせずに肉体世界に囚われている事の方が問題だ」風絽木は両腕を広げて声のボリュームを上げた。

「この精神世界は希望に溢れているんだよ。ある程度の物理法則は存在するが、可能性は肉体世界の比ではない。肉体という足枷がないおかげで脳への負担というものがない。おかげで私たち自身が直接全ピロウにアクセスすることも可能だし、この本部を作り上げることもできたんだ。我々三人はずっと前からこの精神世界の可能性に目をつけていた。ピロウの開発理由も大半はそれが目的だ」

「そしてとうとう肉体を捨てたわけか。でもそれって自殺じゃないですか」

「分かってないわねえ。あんた話聞いてた? 精神世界も現実の世界、つまり私たちは死んでいないの。活動の場を肉体世界から精神世界に移しただけで今もちゃんと生きてんのっ」襟平がイラついたように指で机をカツカツと叩いた。

「いいかね、エイジ君。人間というものは皆誰しもが潜在的に肉体から精神を解放することを望んでいるんだ。だから人は夜な夜な夢を見る。完全な精神世界に恋い焦がれてね」

「もう、話はいいでしょう? 聞いててこっちの頭がどうにかなりそうだ。……とにかく時間がないんです。お願いですからベッドルームを貸してください!」

「本気でバグを撃退するつもりかね?」椅子から立ち上がったエイジに風絽木が投げかけた。

「はっきり言おう。君にはバグを倒すことはできない」

「それは夏野さんにも言われました。でもやって見なきゃわからないでしょう」エイジはムッとしながら答えた。

「そう膨れるな。そうだな、君にはという言葉は正しくないな。たとえ誰であってもバグを撃退することはできない」

「それもアキオさんに言われました」

「それが事実ということだ。我々でもバグについてはわからないことだらけだ。バグが一体なんなのか、弱点はなんなのか……。それらはまだまだ研究中だ。しかも今回のバグは今までに例を見ないほど強力なものときている。それでもなおダイブしようとするなんて無謀以外になんという?」風絽木がゆっくりと椅子の背もたれに寄りかかる。

「でも、夏野さんはバグを撃退したことがあるじゃないですか! 可能性はゼロではないでしょ?」声を荒げるエイジに刈田がやれやれと言った風に首を振った。

「やはり、隠すべきではなかったのだ。だからこういう勘違いをした輩が出てくる」

「何がだよ……? どういうことですか」エイジは眉間に皺を寄せる。

「そうだな……。これは誰にも言っていないことなんだが……。DSA全体の士気の低下や混乱につながると判断してね」風絽木がもったいつけて言った。

「夏野君が撃退したバグ、そのバグに苦しめられていた対象者なんだが……。死んでしまったんだよ。バグを撃退した次の日にね」

「な、えっ? 死ん……」

 もはや言葉にならない言葉を吐き出すとエイジの体が凍るように硬直した。指の先から血の気が引いていくのが分かった。

「上手くいったと誰もが思ったよ。DSAの歴史が変わったと我々も思った。もちろん対象者の危険度も劇的に下がり通常の数値になった。しかし、一時間も経たないうちに対象者に異変が起きた。そしてあっという間に弱り切り、最後には……。我々の推察ではバグが消滅する際に何かが引き金となり、対象者にとって有害なものが発生したのではないかと考えている」

「そんな……」

「夏野君だけは対象者が死んでしまったことに気づいてしまった。そしてその数日後に彼は漂流者になった。おそらく責任を感じたのだろうな」風絽木が小さくため息をついた。

「これで分かった? 自分が今どれだけ馬鹿げたことをしようとしていたか。あんたがバグを倒そうと倒せまいと対象者を助けることは不可能なの」

「もう帰れ。世の中にはどうあがいてもどうにもならないことが……」

「嫌です。俺はダイブします。ベッドルーム、貸してください」エイジは俯いたままの姿勢で言葉をさえぎった。下を向いているので三人からはエイジの表情は見えないが、その声には力が宿っていた。

「はあ? もう、あんたなんなの……。マジで。あんまり調子に乗ってるとさあ、私らも黙ってらんないよ」

「礼儀知らずなガキが。今すぐ去らないのなら力づくでも叩き出してやる」刈田と襟平が立ち上がる。

「……てめえらこそ、てめえらこそこんな妙なところで踏ん反り返りやがって、偉そうに! やってもいないのに無理だから、無謀だからやめろだって? そんなもん素直に聞けるわけがねえだろ! 俺はいくぞ! コズエが苦しんでるんだ、黙ってられるかよ! バグに殺されようがなんだろうがコズエだけは助けてみせる!」あまりの剣幕に刈田は思わずたじろぐ。

「ガキがいっぱしに吠えやがって! 女のためなら命なんて惜しくねえってか? 頭おかしいんじゃねえの! てめえの命をなんだと思ってやがるっ!」襟平が机をバシンと叩き身を乗り出した。

「あんたらに命のことをとやかく言われたくねえよ! 肉体を捨ててこんなところで永遠に自分自身を縛り付けてる奴が命がどうとか言ってんじゃねえ! 誰かのために命をかけることがそんなにおかしいかっ!」

「……そんなに大事かね? そのコズエちゃんが」風絽木が顎を撫でながら言った。

 興奮のあまりコズエの名前を口走ってしまったエイジは顔を赤くしながら頷く。

「大事だよ。俺たちはただの高校の同級生だけで特別な間柄でもなんでもないけどさ。……それでも俺にとってコズエは命を張る価値のある人間だ」

 しばらく間を置いて風絽木がゆっくりと言った。

「君の左のほうに白い扉が見えるだろう? そこがベッドルームだ。使いたまえ」

「いいんですか?」風絽木が言い終わるのを待たずしてエイジがパッと顔を上げた。

「ちょっと待ってください、風絽木さん! なんでこいつに……」

「どういうことだ司令! 一体この小僧に許可を出す理由がどこにある? どうなるかなんて結果は火を見るよりも明らかだ」

「理由か? そうだな……、ただ面白そうだと思ったからだよ。それだけだ」

「面白そうって……」刈田はポカンと口を開けたまま立ち尽くした。

「ちょっと待って、もう何がなんだか……。もし肉体があったなら間違いなく頭が破裂してるわ」襟平はドスンと椅子に座ると机に突っ伏した。

「ただ一つ条件がある」風絽木はピンと人差し指を立てエイジを見た。

「条件?」

「そうだ。もし、今回の件が終わったら君もこの本部で働いてもらう。例えバグの撃退が成功しようが失敗しようがね」

「ちょっと本気? 私は絶対反対! ムリよこんなやつと一緒にいるなんて! ただでさえ目の前の坊主頭で限界なのに!」

「それはこっちの台詞だ! 司令、一体何を考えている? 幾ら何でも正気の沙汰とは思えない」

「私の方こそ君たちが反対する理由が理解できないな。彼ほど精神世界に適応できる人間は滅多にいないんだぞ? 彼がこの本部に加われば心強いじゃないか」風絽木が目を細める。

「つまり、俺にも漂流者になれと?」

「そうだ。肉体を完全に捨てて本部の、精神世界の人間になってもらいたい。任務が終わればピロウが君の精神体を肉体から完全に切り離す。それがベッドルームを貸す条件だ。君にその覚悟はあるかね?」

「いいよ。分かりました! なんだってやります。例え本部でも漂流者でもなんだって」

「そうか。よし、いいだろう。ベッドルームの使用を許可する。オペレーターがいなくても対象者へは自動でダイブできるように設定してある。君はただ横になるだけでいい。急いだ方がいいぞ、キリュウジ支所のダイバーに先を越されたら流石にどうしようもできないからな」

「ありがとうございます……!」エイジは駆け出すと体当たりするようにベッドルームの灰色の扉を開け、中になだれ込んだ。ベッドに飛び乗り横になると、深く息を吸い込み、ゆっくり息を吐く。

「待ってろ、待ってろよ。絶対に助けに行くから……。絶対に、絶対に! お前は俺の……」エイジがつぶやきながら呼吸を整える。呼吸が完全に整うとゆっくりと目を閉じた。

「それにしても風絽木さん、なんだってベッドルーム貸しちゃうかなあ? 本部に加える前にあいつ死んじゃうよ? 今回のバグは普通じゃないんだから」襟平は再びくるくるとイヤリングを弄りながら口を尖らせた。

「ふむ、そうだなあ……」風絽木は顎を撫でながらニヤリを笑った。

「だがな、エイジ君という男も普通のダイバーじゃないよ。まあ、見てみようじゃないか。それから刈田君、すまんがテンマ支所に連絡を入れてくれないか?」

「テンマ支所に? ……それは構わないが一体なんの連絡を?」

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