第22話

「えっ! キリュウジ……支所?」

 エイジは驚いた。キリュウジといえばコズエが住んでいる町ではないか。

 所長室に入ると、チカコの座る立派なデスクの前に、高価そうなスーツを着た痩せているメガネの男が立っており、入って来たアキオとエイジをじろりと一瞥するとすぐさま顔をチカコの方に向けた。

「そっちの若い方が例の……?」

「ええ、そうよ。ダイバーの不二沢エイジ君」

 チカコが言うとメガネの男はくるりと振り向くと、オーバーに両手をいっぱいに広げ、エイジに歩み寄った。

「いやあ、君がバグを発見したんだって? 入ったばかりなのにとんだ災難だったね。でも無事で何よりだよ」

「あ、はあ……」エイジは曖昧に返事をしながら様子を伺う。どうやらエイジが心配していたことではないようだった。

「おっと、自己紹介が遅れたね。私はキリュウジ支所所長の荻野ハルキ。あ、もちろん名刺はないよ。規則でね」

「キリュウジ支所の……所長さん?」

 エイジは思わず荻野の顔を見た。フレームのないタイプのメガネにりんご飴のようにテカテカした七三分けのヘアースタイルはいかにもインテリといった風体だったが、どう見ても三十代そこそこにしか見えない。そんな若さで所長になるなんて、どれだけ優秀なんだろうかと思った。

「でももう心配はいらない、今回のバグの一件は我がキリュウジ支所が引き継ごう。君は今までのように通常通りの任務に専念したまえ」

「だから! 勝手なこと言わないでちょうだい! 私はそんなこと一切認めません!」チカコはデスクの天板を強烈に叩きながら立ち上がった。

「それに対象者はキリュウジ町の人間よ! 完全に規定違反じゃないの!」

 チカコが声を荒げた。初めて見る所長の恐ろしい形相に思わずエイジの方が萎縮してしまいそうになる。

「何事にも例外ということは存在します。必要なら本部に掛け合って承認を取りましょうか?」荻野は肩をすくめながら言った。

「初めて見たけど、噂通り嫌なやつだな~……」アキオがエイジの耳元でボソリと呟いた。確かに、コウタがボコボコにしてやろうと思ったと言っていたのが納得できる。

「我がキリュウジ支所でなければ対処は難しいでしょう。うちは優秀なダイバーをたくさん抱えてますから。それに、言っちゃあなんですが、このレンダイ支所はDSAの中でもかなり規模が小さいじゃありませんか。唯一のダイバーもまだ一週間も経っていない新人でしょう? 誰がどう見たって無謀じゃありませんか」

「大きなお世話よ。優秀さで言ったらうちのダイバーだって負けてないわ! とにかくこの件はうちで処理するわ! 例え引き継ぐにしても、しかるべき支所に渡します!」

「例えばテンマ支所とか、ですか? レンダイ支所と仲がいいみたいですからねえ。同じ弱小同士」

 さすがにこの言葉にはエイジもカチンと来た。一言文句を言ってやろうと体がピクリと動いた瞬間、アキオがエイジの腕をぐっと掴む。振り返ると、アキオは黙ってエイジの顔を見つめている。ここは堪えろ、と必死に目で訴えているようだった。

「言いたいことはそれだけ? 他に用がないのだったらお引取り願えるかしら? 私たちも暇じゃないのよ」

「ふう。そうですね、今日のところは引き上げます。こっちはそちら以上に忙しいですから。でもまた近いうちに伺いますよ。その時は覚悟しておいてくださいね」

 ハルキは右手をひらひらさせながら所長室から出ていった。

「あ~、本当に腹がたつわ! 会うたびに嫌な人間になっていくわね、荻野君は!」チカコは腕を組んで椅子にどっかりと座った。

「噂以上に嫌な男ですねえ。あれがキリュウジ支所の所長ですか」

「ええ。そういえば高野君も会うのは初めてだったかしら? 全く、まだまだ子供のくせに一丁前の口叩くようになって……!」

「でも、分かんないですねえ。どうしてキリュウジ支所が動くんです? 対象者は同じ地区のキリュウジ町に住んでいるってのに」アキオが顎に手を当てながら首を傾げた。

「どうせ、バグ撃退の功績と引き換えに本部に引き上げてもらうつもりなんでしょ。本当バカよね」

「なるほど。出世願望ってやつですか。……本部から承認おりますかね?」

「微妙なところね。正直言って絶対にない、とは言い切れないわね。悔しいけどキリュウジ支所のダイバー在籍数は群を抜いてトップということは事実だし……」チカコは顎に手を添えてため息をついた。

「あの」エイジが口を挟んだ。「さっきのキリュウジ支所の所長もダイバーだったんですか?」

「ああ、荻野君? まあ、昔はね。フフッ……」ついさっきまで難しい顔をしていたチカコが思わずプッと吹き出した。

「それがね、DSA歴史上でも最低クラスのダイバーだったのよ、彼」

「あの荻野所長って典型的な〈オンドリ〉なんだってさ」ニヤニヤしながらアキオが言った。

「〈オンドリ〉?」

「初心者とか、未熟なダイバーのことでね、ダイブしてもあっという間にハジかれちゃうのさ。何にもしてないのにだよ? 目を覚ますのが早いからそう呼ばれるんだ」

「よくダイバーになれましたね。そんなんで、ちゃんと任務出来るんですか?」

「もちろんできやしないわよ。ダイブしても五分としないうちにハジかれちゃんだから。ダイバーとしての適性もなかったけど、オペーレーターとしてもなかなかひどかったわねえ」

「そんな人がどうやって所長にまで上り詰めたんですかね……」

「処世術だけは超一流だったわね。誰の下につけばいいのか、そういう嗅覚だけはすごくいいのよ。まあ、ある意味出世するには重要な能力かもしれないわね」

 確かに、能力もないのになぜか上のポジションに就くやつがいる。それはきっと荻野のような人間なんだろうなとエイジは妙に納得した。

「さあさ、二人とも仕事の時間でしょ。あなたたちは何も心配しなくていいから、やるべきことをしっかりやってちょうだい」

 チカコは両手を叩きながら二人に言った。

 そのとき初めてエイジはなぜ、先ほど荻野に対してあんなにも怒りを露わにしたのか理解した。

「はいっ。失礼します」そう言って頭を下げると、ベッドルームに向かった。

「……お互い良い上司を持ったよねえ」モニターに目を向けたまま、キーボードを忙しなく叩きながらアキオが言った。

「そうですね。せっかく所長が守ってくれたんだから、今回は必ずバグの正体を掴んでやりますよ」

「いやいや、さすがにそれは無理でしょ~。とにかく、ダイ場の詳しい状況把握とエイジ君自身の身の安全を優先して……」唐突にモニターからダイ場が安定したことを告げるアラーム音が鳴った。アキオが険しい表情でモニターに顔を近づける。

「準備できたみたいですね。……アキオさん、どうかしましたか?」

「早すぎる。これはちょっとマズいかもな」

「えっ何? どうかしましたか?」アキオの神妙な表情を見て背筋に冷たいものが走る。

「ダイ場の安定、つまりレム睡眠期に入るのが早すぎるんだよ。対象者が入眠してから三十分も経ってない」

「てことはつまり眠ってからすぐにダイ場が安定したってことですか? それが何かマズいんですか?」

「マズいね。かなりマズい。普通は大体二時間ぐらいでレム睡眠期に入るんだよ。でもこんなに早くダイ場が安定するのはヤク中や心身に問題を抱えてる可能性が高い」

「そ、それじゃあ……」エイジは青ざめた。

「うん、こりゃあ思ったより時間がないね」

 エイジは急いでシンクベッドに横になった。

「アキオさん、行きましょう!」

「わかった! じゃあ始めるよ!」

 アキオがエンターキーをパンっと叩いた瞬間、エイジの体が霧状になったかのように重力が消えた後、全細胞がグルグルと渦を描くようにへそのあたりに一気に凝縮された。

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