第20話

「聞きましたよ。バグが出たそうですね」

 カウンター席にエイジとアキオが座ると〈カフェ・REN〉のマスターが二人に言った。

「そうなんだよ~。本当に参っちゃうよ……。あ、モーニンングね」アキオが指でブイサインを作り、モーニングセットを二人分注文した。

「それで、アキオさん。そのバグってのははどうやって撃退すりゃいいんですか?」

 エイジがそう尋ねると、アキオは困ったように頭を掻きながら言った。

「それなんだけどねえ、僕にもよくわからないんだよ。って言うか、DSAの人間でわかる人いないんじゃないかな……」

「わかる人がいないって……。それじゃあ今までどうやって退治してたんです?」エイジは眉間にしわを寄せながらアキオに詰め寄った。

「それがね、退治できたって例は今までで一度もないんだ。もしもバグが現れたらもう終わりだよ」

「嘘でしょ! それじゃ、他のダイバーに引き継いだところで意味なんか何もねえじゃん!」エイジはアキオの両肩を掴みガクガクと揺さぶる。

「で、でもDSA何もしないで放っておくわけには行かないからさ。一応撃退の任務は行われるんだよ」

「そんな……!」

 エイジは思わず絶句した。バグとやらがいくら厄介な存在だったとしても有効な対処法や撃退法は確立されているもだと思っていた。

「そりゃあ、もちろん撃退しようとはするよ。でもどういうわけかバグにはツナギの偽装効果が効かないんだ。つまり、ダイバーを攻撃してくる。その上、凶暴で人間離れした身体能力を持っているからね。並みのダイバーは撃退どころか、逆にやられることがよくあるんだよ」

「今のDSAでトップの、一番すごいダイバーだったらどうですか? バグを撃退できる可能性は?」

「残念だけど今のトップクラスのダイバーたちでも難しいかな……。ピロウが開発されて負担が激減した代わりに最近ではダイバーの能力も全体的に下がってるんだ」

「それじゃあ誰にもバグは始末がつけられないじゃんかよ……」エイジはストンとスツールに座るとがっくりとうなだれた。

「もちろんDSAでもバグの研究はされているんだけどね。如何せん出現の件数が少なくて十分なデータが取れないから、あんまり進んでないんらしいんだよね。あ、ちなみにバグの語源はコンピューターの不具合を指すバグと、イギリスの言い伝えにある人間に悪夢を見せる悪霊を指すハッグから由来するっていう二つの説があるんだけど……」

「そういえば、前にいませんでしたっけ? バグを撃退した人が」アキオがどうでもいいウンチクを披露している中、マスターが二人の前にモーニングセットを差し出しながら言った。

「ああ~、そういえばいたね! いたいた! 夏野さんだっけ?」

「それ、本当ですか!」エイジは勢いよく顔を上げ身を乗り出した。

「そうそう! 夏野さんっていう、そりゃあもう凄腕のダイバーでね。いや、伝説的って言ってもいいかな。その人がさ、五日間の激闘の末、とうとうバグを撃退したって話なんだよ」

「おおっ、すげえ! それで、どうやって退治したんですか?」一言一句聞き逃すまいと食い入るようにアキオを見つめる。

「詳しくは聞いてないけど、普通にスリープガンで撃退したらしいよ。夏野さん、射撃の腕も凄かったから」

「……それで、その夏野さんはどこの支所にいるんですか? その人にバグ退治を引き継ぎましょうよ」

「いや、もうDSAにはいないんだ」一瞬にしてアキオとマスターの表情が硬くなる。

「えっ? やめちゃったんですか? それじゃその人に連絡とかつきますか? せめてコツみたいなの聞けたらありがたいんですけど」

「夏野さん、漂流者になっちゃったんだよ。バグを退治した三日後に」


 昼下がり。地面から立ち上る陽炎がゆらゆらと街の景色を歪めている。

 エイジはファミレスの窓側の席に座っていた。元気に走り回る夏休み中の小学生やハンカチで汗を拭うサラリーマンの姿をガラス越しにぼんやりと眺めていると不意に聞き覚えのある溌剌とした女の声が聞こえてきた。

「おーっす、エイジ! 久しぶり! 元気そうじゃん! 最近よく眠れてるかあ?」エイジが見遣ると背が高く若い女が手を振りながらこちらにツカツカと歩いてくる。

「よう、多田。……っていうか、声がでかいよ。他の客に迷惑だろ?」エイジは店内をキョロキョロと見渡しながら小声で言った。

「何言ってんの。お前が声が小さいんだよ。エイジはチビなんだからさあ。声ぐらいは大きくないと」エイジの向かいの席に座ると、近くにいた店員にアイスコーヒーを注文した。

「チビじゃねえよ! お前がでかいだけだろ」

 エイジの向かいに座る女性、多田ナミコとは幼稚園からの付き合いだ。ナミコもレンダイ町に住んでおり、今でもたまに連絡を取り合っている。

 背はすらりと高くスレンダーで、肩を越す黒く長い髪は緩やかにウェーブしている。目は猫目のようにキリッとしており、鼻筋はすうっと通っている。凛とした彼女が街を歩けば多くの男たちが振り向くだろう。

「そういえば、あんたバイト辞めたんだって? 今何やってんの? おばちゃん達心配してるんじゃない?」ナミコは目の前に置かれたアイスコーヒーのストローを使わず直接すすった。

「え? ああ、今はあれだよ。公務員。特例でね」

「へ~そんなのあるんだ。すごいじゃん! それで今日は一体何? 私に告ったりするわけ? あんたそういう時はさあ、ファミレスとかじゃなくてもっと雰囲気のあるお店とかじゃないと。全くまだまだ女ってものが分かってないなあ、エイジ君は」

「いや、ちがうよ! なんでそうなるんだよ。……今日はさあ、ちょっと頼みがあんだけど」エイジは神妙な顔で手を組むとテーブルの上に乗せた。

「えー何々? なんか怖いんだけど!」ナミコは自分の二の腕を掴み、体をくねらせた。

「多田さあ、小畑と仲よかったよな? その……、連絡先とかも知ってるわけ?」

 エイジはコズエの状況が気になって仕方がなかった。コズエ本人に直接様子を聞き出すため、学生時代仲の良かったナミコを呼び出したのだ。対象者と連絡をとってはいけないということは職務規定書には書かれてはいなかった。もっともダイバーと対象者がダイ場以外で接触することがはじめから想定されていないだけなのかもしれないが。

「そうかそうかあ。そういえばあんた、コズエのことずっと好きだったもんねえ~。やっと行動する気になったかあ」

 ナミコは腕を組んで感慨深そうにウンウンとうなづいた。

「ばかっ! だから声がでかいって!」エイジは慌てて手を振ると、また店内の様子をうかがった。

「まあ、とにかくさ、連絡先知ってるんなら俺に教えていいのか小畑に聞いて欲しいんだけど」

「しょうがねえなあ。まあ、聞いてやるよ。他ならぬ子分の頼みだからな」

「誰が子分だ」

「そういえば、あのコ今四国に住んでんのよ。知ってた? キリュウジ町ってとこ。だから私も最近は会ってないんだよね。ちなみに今、彼氏はい・な・いっ」スマートフォンをせわしなく操作しながら、目を細めつつエイジをちらりと見た。

「あ、へえ~そうなんだ……。まあ仕事とか色々と忙しいんだろうな」エイジは素っ気なくこたえた。

「あ~っ! 喜んでる喜んでる! 全然変わってないよね~。あんたってさ、嬉しいことがあると鼻の穴が膨らむんだよね~」

「そ、そんなんじゃねえって!」エイジは右手で鼻をこすりながら少々語気を強める。

「でもさあ、コズエのこと、正直心配してんのよね」

「なんだよ、心配って。小畑、最近なんかあったのか? 病気とか?」

 エイジはバグのことが脳裏に浮かびドキリとした。

「そうじゃなくて。コズエってさあ、ほら、あのコ皆と仲良いじゃん? っていうか向こうから勝手に寄ってくるっていう感じだけど。コズエ可愛いし性格もいいしさ。でも、本人の自覚してない部分で結構無理してる部分もあると思うんだよね」

「あ~、なるほど……。確かに人当たりよさそうだもんな」

 ピロウに対象者として選ばれるくらいだから、ナミコの心配は当たっているのかもしれないとエイジは思った。

「だからさ、前にも言ったのよ、無理して皆と合わせる必要なんかないって。たまにはシカトしたり、蹴っ飛ばしたりしたって良いんだからって。そしたら別に無理なんかしてないから大丈夫、皆と話してるの楽しいって言うのよ。なんかもう、すごい健気じゃん」

「そりゃあ多田じゃないんだから、そんなことできねえだろ。それじゃあ、やっぱりストレス溜まってたんだ……」

「ん? あんたも気づいてた?」

「あ、いや、そんなわけじゃないけど……」エイジは慌てて頭を振った。

「あの子ね、ストレスが溜まると決まって出る癖があるの。自分の太ももをさ、左手の指でトントントントン叩くのよ。なんていうかな、ピアノを弾くみたいに」ナミコがテーブルを左手の指でトトトンと叩いて見せた。

「それにお父さんことも……ってこれは私が話すことじゃないか」

「何だよ?」エイジの眉がピクリと動く。

「何でもない、忘れて。……よしっ、と。一応コズエには連絡しといた。今まだ仕事中だと思うから、返事が来たらまたメールする。感謝しろよな~」ナミコは踏ん反り返るように胸を張った。

「はいはい。ナミコ様様ですよ、ありがとうございます。もちろんこの場は俺が払いますんで」エイジはわざと恭しく頭を下げて見せた。

「おっ! よ~し、言ったな! 後悔しても知らないよ~」ナミコがウキウキと体を左右に揺らしながらメニュー表を広げた。

「常識の範囲以内で頼むよ」

「あんたさあ、私が遠慮なんてすると思う?」

ナミコはメニュー表から顔を出してとニンマリと目を弓形にさせた。

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