第19話

「いってえ!」

 エイジは飛び起きるなり、腹を両手で押さえ身悶えると、勢い余ってベッドからドサリと転げ落ちた。

「大丈夫か、エイジ君! 落ち着いて! 深呼吸して深呼吸!」

 アキオは慌てて駆け寄ると床にうずくまるエイジの背中をゴシゴシとさする。

 エイジは痙攣する腹部を抑え小刻みに震えながら、少しづつゆっくりと呼吸を整えた。

「……あ、あの黒ツナギ野郎は一体何なんですか? いきなり蹴り飛ばされましたよ!」なんとか痛みが和らぎ、腹をさすりながらゆっくりと立ち上がる。

「あれは〈バグ〉と呼ばれている」

「バグ?」

「バグは対象者に危害を加える、いわゆる存在していけないものってやつさ。君の見た通り、基本的に黒いツナギの顔なし男さ。ダイ場を荒らしたり、対象者を直接攻撃したりするんだ」

「そいつが何で小畑、あ、いや、今回の対象者のダイ場に出てきたんですか?」

「それがわからないんだよ。目的もその正体も。大体暗い場所での目撃例が多い。逆に明るい場所のダイ場に出るのは相当強いバグだと言われている。それに……」

 アキオが少し下を向き、言い淀む。

「……それに?」

「バグが出ると、その対象者は深刻な被害を受けて、必ず一週間以内に死んでしまうんだよ」

「死んでしまうって……! 何でそんな重要なこと教えてくれなかったんだよ!」エイジは腹部の痛みも忘れてアキオに掴みかかった。

「ご、ごめん! でもバグが出る確率はものすごく低いんだ。日本では一年に一件あるかないかぐらいだから、バグの事はエイジ君がダイバーの仕事にも少し慣れてからと思って……」

 エイジは崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。

「まずはバグの確認を報告しよう。規則だし。その後は普通だったらそのままバグの撃退任務に移るんだけど、エイジ君はまだダイバーの経験も浅いし、他の支所に回すことになるかな。対象者も知り合いだったし。えっと、対象者はキリュウジ町に住んでるから、それ以外の支所だね。まあそれは所長が判断するさ。とりあえずは所長に……」

「俺にやらせてください!」

「な、何いってんの! ダメダメ、危険すぎるよ! 君に素質があるといっても、圧倒的に経験が少なすぎる。ただでさえ、同調が起きる危険があるんだから」

 アキオは首を振ったが、それでもエイジは譲らず必死に食い下がった。コズエが一週間以内に死んでしまうかもしれないのだ、譲れるはずがない。

「同調には十分気をつけます! バグにも無茶はしません! どうしてもやばいと思ったらすぐに離れますから! セーフティバックでもなんでも使ってください! アキオさん、お願いします!」

「知り合いを助けたいって気持ちはわかる。痛いほど。でもオペレーターとして経験の浅い君をバグ撃退の任務に行かせるわけには……」

「じゃあ見るだけ! 遠くからバグの動きやダイ場の様子を確認するだけにしますから」

「確認してどうするのさ?」

「そりゃあ、次のダイバーに引き継ぐ時に少しでも役に立てるよう情報を集めたり……。とにかく対象者を死なせたくないんです」

「本当に無茶しない?」アキオは目を細めて訝しむ。

「しません! 約束します!」エイジは頭が取れるような勢いで力強く頷いた。

「う~ん、……じゃあ一回だけ! でも絶対に見るだけだからね。安全を第一に考えてよ? いいかい?」

「はい! ありがとうございます!」

「それで……好きなコだろ? ええ? 対象者は」アキオが緩んだ顔をしながらエイジを肘で突く。

「えっ、い、いや、そんなんじゃないですよ、別に。何言ってんですか!」エイジはしどろもどろになりながら視線を泳がせた。

「うっそだあ! ただの同級生にそんなに必死になるぅ?」

「ただのクラスメイトですよっ! そんなことよりバグの報告しましょうよ!」

「はいはい、わかったわかった」

 アキオは終始ニヤつきながらベッドルームを出て所長室に向かった。エイジは照れ隠しにわざと難しい顔をしながら後ろからついていく。


「あら、どうしたの? 二人して珍しい。エイジ君、ダイバーの仕事はどう?」

 チカコはそう言いながら椅子から立ち上がり、机に手をつきながらアキオとエイジの顔を交互に見た。

「はい、何とかやっていけてます」

「まあ、すごいじゃない。その調子よ。……それで、用件は何かしら?」

「それがですね所長……。うちが担当する対象者にバグが出ました」アキオがいつになく神妙な顔で言った。さっきのだらしない顔つきとは大違いだなとエイジは横目でちらりと見た。

「何ですって!」チカコは慌てて立ち上がるとエイジに駆け寄った。

「エイジ君大変だったわね、大丈夫だった? ケガはしてない?」

「はい。俺は大丈夫です。その事で所長、お願いがあるんです。今回の任務、俺にやらせて欲しいんです!」

「何言ってるの! あなたにはまだ危険すぎるわ! やるにしてももっと経験を積まないと! バグはね、エイジ君が思っている以上に危険なのよ。迂闊に手を出すとダイバーだって命を落とすことがあるんだから!」チカコは激しい剣幕でまくし立てる。予想以上の反応にエイジは少し気圧された。

「それはよく分かっています! アキオさんからも聞かされました。バグの様子やダイ場の状況を確認するだけでもいいんです」

「ダメ。そんな無謀な事自分の部下にやらせるわけにはいかないわ!」

「あの~しかしですね所長、他の下手なダイバーに任せるよりもエイジ君に任せた方がいいと思いますけど。経験こそ足りてませんけどエイジ君ならダイ場の適応能力は中堅のダイバーにも負けてませんし……」

「高野君まで何言ってるのっ! バグの恐ろしさなら貴方だってわかっているでしょ」チカコは援護射撃をしてきたアキオの顔をにらんだ。

「分かっているからこそ言ってるんです。ダイ場の適応能力が高いって事は離脱もスムーズにいくって事だし、一度ダイ場を見てるから無事に帰還する確率も高いと思うんです。遠くから確認するだけなら危険もずっと減りますし、何よりバグの情報があれば引き継ぎのダイバーにとっては大きなプラスになりますよ」

 チカコは席に戻るとゆっくりと腰を下ろし、考え込むように手を組み顔を伏せた。

「はあ……。全く、どうして私の部下はみんな聞き分けがないのかしら……。エイジ君、絶対に確認するだけよ。バグとの接触は避けること。高野君、くれぐれも頼んだわよ」

「はいっ。了解です」アキオは背筋をピンと伸ばし、頭を下げた。

「でもね、エイジ君。バグは本当に危険で手強いわよ。何をおいても身の安全を第一に考えなさい。いいわね」

 チカコは念を押すようにエイジを鋭い目つきで見つめる。

「はい! わかりましたっ。ありがとうございます」エイジもアキオに習い深々と頭をさげる。

「それじゃあ、失礼します。エイジ君、行くよ」

 だだっ広い所長室を後にする二人。その後ろ姿を眺めながらチカコはぽつりと呟いた。

「また、なのね……」

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