第10話
帰りの道中、エイジはふと足を止めた。そこは再び〈カフェ・REN〉の前だった。やはりはっきりと認識できる。思わず見落とすというような店では無い。だが、道ゆく人々は全く気づく様子が無い。ちらりと一瞥することもなく、店の前を通り過ぎる。アキオの言っていたことは本当らしい。
店の前で通行人の観察をしていると、店から漏れてきた魅惑的な香りに鼻腔の奥を刺激され、エイジはまたもや店の中にふらりと入ってしまう。この店はある意味でとても危険な場所なのかもしれない。
「いらっしゃいませ。お一人様ですね? カウンター席にしますか? それともテーブル席?」
オールバックのマスターがエイジに穏やかな口調で声をかけてきた。
エイジがテーブル席の方にちらりと目をやると、すでに若い女性が一人座って漫画を読んでいた。エイジは少し迷ったがカウンター席を選んだ。
「カフェオレと……、卵サンドイッチください」
「かしこまりました」
エイジのオーダーを受け、マスターがテキパキと流れるような手つきで注文の品を作り上げる。その様子は洗練されており美しかった。芸術的なマスターの動きをぼんやりと眺めながら今日起きたことを思い返した。まるで夢のようだった。非現実的なことが現実に起こってしまうとは。
「今日はどうでした?」
不意にエイジに声をかけてきたのは、カウンターを挟んで対面しているマスターだった。
「えっ、えっと……、とにかく驚きました。最初はやはり半信半疑だったもんですから」
「無理もありませんね。現実離れした話ですから」
マスターはそう言いながら、カフェオレと卵サンドイッチをそっとエイジの前に差し出した。エイジはペコリと軽く頭を下げ、カップに口をつけた。まろやかな口当たりで、程よい甘さの中に香ばしさを感じる苦味が絶妙だった。
「マスターも前はあそこで働いていたんですか? その……」エイジはテーブル席に座っている女性客をちらりと見た。
「大丈夫。あの人もDSAの人間です。私も以前はそうでした。もう随分昔の話ですが。そういえばポジションはもう決まったんですか?」
「はい。えっと……、ダイバーになるみたいです」サンドイッチを頬張りながら答えた。残念ながらこちらの方は普通のサンドイッチだった。
「そりゃ凄い! ダイバーはDSAの花形職業ですからね。私なんか万年オペレーターでしたよ」
「それじゃあ、マスターもアキオさんと組んだりしてたんですか?」
「ええ。一時期はずっと組んで任務に当たってました。アキオさん、腕はいいんですけどね……。ほら、あの人おしゃべりでしょ?」
「確かに。底抜けに明るいというかなんというか」
寡黙な人だと思っていたマスターとの会話はとても心地よく、楽しかった。時間はあっという間に過ぎ、軽くコーヒー一杯のつもりが随分と長居をしてしまった。
「それじゃあ、ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。ぜひまた来てください。そうじゃないと潰れちゃいますから」
外は完全に夜になっていた。空を見上げると普段はなかなかお目にかかれない星々が健気に輝いていた。
「あれー、エイジ君。お疲れっす。今日からでしたっけ? その、なんとかって仕事は」
DSAと地上世界を唯一繋いでいるエレベーターを日々守っている峰川がエイジに声をかけた。
相変わらずパイプ椅子にふてぶてしそうに座り、鋭い眼光でエイジを見上げている。凶暴そうな外見は全く変わっていない。
「コウタ君、お疲れ様です。今日からお願いします」
「うぃーす、よろしくです。ああ、アキオさんもさっき来ましたよ。んじゃ、まあ、頑張ってください」
エイジはぺこりと頭をさげると、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた鉄扉を開け、エレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが静かに地下のDSAレンダイ支所にエイジを運んでいく。途端にエイジの胸は緊張感や不安でいっぱいになった。両の掌がじっとりと汗で濡れる。
ややあってエレベーターから小さなベル音がなり、扉が開く。再び真っ白で明るい通路がエイジの視界に飛び込んで来た。なんだかこの前よりも着くのが早いような気がした。
とりあえず、エレベーターから降りて真っ直ぐ通路を進む。仕事初日なんだし、まずは所長に挨拶をして、それから仕事内容についてのレクチャーを詳しく……。
「おお、来たね。こっち来て。こっちこっち」
不意にアキオがベッドルームからひょっこり顔を出し、エイジに手招きをする。戸惑いつつも、エイジは小走りでアキオのいるベッドルームに入った。
ベッドルームにはこの前の見学時とは違い、様々なコンピューターやモニターが起動して降り、電源ランプがあちらこちらで忙しそうに明滅している。
「今日が初日だし、所長や他の職員の人たちに挨拶とかした方がいいんじゃないですか?」
「ああ、そういうのいいから。大丈夫大丈夫。うちはね、そんなの気にしないの」
アキオがあっけらかんと言う。一ヶ月前と様子は少しも変わっていなかった。思わず先ほどの緊張感や不安はすっかりしぼんでいる。
「これからエイジ君にはダイブ……あ、夢の中に入ることね。そのダイブをする前に、基本的な任務の流れを説明したいと思います」アキオがビシッと背筋を伸ばして言うが、どこかコミカルに見える。
「まずは我がDSAが誇るハイテクコンピューター、ピロウが対象者を自動で選定します。あ、ちなみに対象者の住んでる地域はランダムなんだけど、支所がある地域は絶対に選ばれることはないんだ。つまりこのDSAレンダイ支所だったらレンダイ町から対象者が選ばれることはないってわけ。んで、対象者を選んだらダイバーをそこの特製ベッドから『ダイ場』……あ、対象者の夢のことね。そのダイ場にダイブさせるの」
「そのピロウってのは一体どういう理屈で他人の夢の中にダイブさせてるんですか?」
「僕にそんなこと聞くう? えっとね、ダイバーの意識を電気信号に変換して対象者の脳波にシンクロさせ潜り込ませる、とかじゃなかったかな? そんで対象者の夢から離れるときはピロウがシンクロした二人分の脳波からダイバーのものだけを引っぺがして元に戻すのさ。確かそんな感じだった気がする。多分」
アキオが曖昧な説明を終えた時、モニターから目覚まし時計のようなアラーム音が鳴り出した。その音を聞いた途端、アキオはより一層明るく張り切った様子で言った。
「よおーし! そんじゃあ行ってみようかあ」
「ええっ、もう? このベッドに寝ればいいんですか?」エイジが慌ててシンクベッドを指差した。
「うん、いいよ。おっ、対象者がレム睡眠期に入った! ダイ場はすこぶる安定してるよ。さあ、寝た寝た!」アキオはデスクに座ると、モニターに顔を近づけはしゃぐように言った。
エイジは恐々とシンクベッドに体を預けた。とりあえず仰向けに寝てみるが、そう簡単に眠れるわけがない。慣れない環境に慣れないベッド、そしてすぐ近くにはおしゃべりな男が大騒ぎしているのだ。
だが変化は突然起きた。足元から猛烈な勢いで吸い込まれるような感覚が襲ってくる。まるで極小のブラックホールでも出現したかのようにエイジの全身をつま先から頭の天辺にかけて吸い込んでいく。驚き、声をあげようにもそれすらも飲み込んでしまう。手足を動かそうとするが恐ろしく強い引力のせいで指一本動かすことができない。瞼さえも開けておくことができず、ただ激しく痙攣している。
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