第6話
「おおーっ。こっちこっち。随分と早かったね。あ、マスター。この子僕のお客ね」
エイジは頭が混乱した。事態が全く飲み込めない。なぜここにいるんだ? この現実世界に? とうとう夢と現実の区別もつかなくなってしまったのだろうか?
頭が目の前で起きていることをうまく処理できない。世界が狂ったかのように視界が歪む。エイジの混乱をよそに小柄な男は底抜けに明るい声でエイジに言った。
「そんな突っ立ってないで、こっち座んなよ。朝ごはんは済ませた? まだなら何か食べるもの注文したら?」
完全に思考回路がショートしたエイジの脳に、男の声が呪いのように入り込み、エイジの体を動かす。おぼつかない足取りで、男に対面するように席に着く。
マスターがエイジの元に注文を取りにやってくる。
「ブレンドコーヒーと……、ハヤシライスってあります?」
「ございます」
マスターがほんの少しだけ右眉をひくつかせながら答えると、男ははしゃぐように言った。
「お目が高いねえ! ここのハヤシは絶品だよ!」
「じゃあハヤシライスも……」
「かしこまりました。少々お待ちください」
マスターは無表情のまま静かにそういうと、厨房の方に消えて行った。
「さて、と。それじゃあ君の名前を教えてくれるかな? あ、僕の名前は高野アキオね。高い低いの『高』に野原の『野』。簡単でしょ? はい、じゃあ君は?」
「はあ? 名前?」
「そ、名前。教えてくれる?」
「不二沢エイジ……」
「エイジ君かあ。うん、なんかそんな感じがするね」アキオが腕を組みウンウンと頷く。
「俺の名前、知らなかったんですか?」
「知らないよそりゃ。当たり前じゃん、聞いてないもの。君だって僕の名前知らなかったでしょ? だからこうして自己紹介してるんじゃないの。おかしな事言うねえ」
「まあ、そりゃそうだけど……。なんかその、何でも知ってるぞって雰囲気だったもんで……」
「ええー。そんな風に見える? 意外だなあ。まあ、君よりだいぶ歳がいってるからね。そう見えるのも無理はないのかなあ。ほら、年上の人ってなんかそういう感じするじゃん? でもさあ、実際そんな事全然ないって。いくつになっても何にも考えてない奴は考えてないんだから。ははは」
ケラケラと楽しそうに笑う小柄な男を内心あきれ気味に見つめながら、そういうことじゃねえよと思わず心の中で突っ込んだ。何度も人の夢に出てくるし、思わせぶりな台詞は残していくもんだから、色々と自分のことやエイジの知らない世界のことを知っているんじゃないかという風に見えたのに。この男は名前も知らない自分の夢に何度も出てきていたのか。
エイジは男に恐々と質問した。
「高野さん、だっけ? 聞きたいことがあるんですけど」
「ん~堅いなあ。下の名前でいいよ。もっと気楽にいこうよ。気楽に」アキオがぐっと親指を立てる。
「それじゃあ……、アキオさん。俺たち以前にも……」
「うん。君の夢の中で会ってるよ。嬉しいね、やっぱ覚えてるんだ」
アキオはコーヒーをすすりながら驚くほどあっさりと、非現実的な答えをさらりと言ってのけた。やはりこの男は只者ではなかった。かと言って別に特別な風には見えない。どこからどう見てもその辺にいる、中年の男に見える。それが余計に分からなくなる。どうせならもっと、立派な白髭でも蓄えているとか、寡黙な大男みたいな感じだったらわかりやすかったのに……。
「やっぱ気のせいじゃなかったのかよ……」
「そうだね。気のせいなんかじゃなく、君の夢の世界に何度かお邪魔させてもらったよ」
「ありえねえ! あんた一体何者なんだ? 何が目的なんだ? どうやって三回も俺の夢に出てこれたんだ!」
「ん? 三回?」
アキオの左眉がピクリと踊る。弾かれたように顔を上げ、目を見開いた。
「エイジ君、僕が出てきた夢、全部覚えてるの?」アキオはほんの少し上目遣いにエイジを観察するようにじっと見ている。
「はあ? ……えっと、まずは昨日の夢に、その前の電車の夢だろ? もう一つ、はっきりといつの夢っていうのは分かんねえけど、確かに夢の中で見たっていう気がするんだよな……。いや、そんなことより、あんたのことを……」
アキオが体を反らし、背もたれに大きく寄りかかりながら、ふうっと息を吐いた。その顔に笑みはなかった。先ほどまで底抜けに明るく振舞っていたアキオの顔つきが急に神妙になる。
「いや、さすがに驚いたね、これは。一回目は完全に認識できないようにしていたのに。さすがに君みたいな人は滅多にいないよ」
急速に二人のテーブル周辺の空気が緊張していく中、つかつかと乾いた靴音を鳴らしながらマスターがブレンドコーヒーとハヤシライスを運んできた。コーヒーからは熱々の湯気が立ち込め、店の外で嗅いだ豊かな香りが顔を優しく撫でる。ハヤシライスはしっかりと煮込まれた大きな牛肉とトロトロになった玉ねぎやマッシュルームを濃厚なデミグラスソースが包み込んでいる。
「冷めないうちに食べなよ。すっごい美味しいから」
アキオが再び明るい調子と取り戻す。
促されハヤシライスを口に運ぶエイジ。ジューシーな肉汁をふんだんに吸い込んだデミグラスソースが舌に絡みつく。非常に濃厚だがどぎつさは一切なく、やさしく穏やかで後を引かない美味さ。具材の牛肉もひと噛みした途端、ホロホロとほどけてあっという間に消えて言ってしまう。
「うまっ!」エイジは思わず目を剥いた。その味は今まで食べてきたハヤシライスは偽物だったんじゃないかと思えるほどぶっちぎりに美味かった。だが目の前の男の事が気になり、存分に味を堪能するというわけにもいかなかった。
目線は皿の方に向けているが、意識は完全にアキオの方に向けられていた。それを察するかのように、アキオが口を開いた。
「えっとねえ、どこから話していこうかな? う~ん……、やっぱり頭から一つずつ説明した方が分かりやすいか」
アキオはそう言うと、芝居掛かった咳払いを一つすると、ゆっくりと喋り出した。
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