第2章
第5話
エイジが目を覚ますと辺りは明るくなっていた。
生きてる。まず始めにそう思った。体勢は眠りについた時のうつ伏せの格好のままだった。どうやら身動き一つせず眠り続けていたらしい。
ひとまずシャワーを浴びようと体を動かした瞬間、頭に激痛が走り、再びベッドに突っ伏した。今までで経験したこの内容な鋭い痛み。じっとしていると頭痛は次第に消えていくが、頭を少し動かしただけで再びズキリと強烈に痛みだす。まるで、無数のアイスピックが頭に深々と突き刺さっているようだった。わずかに身動きするだけで脳を掻き回されているぐらいの痛みが襲いかかってくる。
ベッドから少しも動くことができない。エイジはあまりの恐ろしさにパニックになりそうなのを必死にこらえて、一体なぜこんなことになってしまったのか、原因を突き止めようとあれこれ考えた。
昨日の夢で無茶をしすぎたか? いや、あれくらい別に大したことじゃない。過去にはもっとスケールのでかい夢の操作をいくつもやってきた。高校の時なんか、夢の中で自分だけの王国を創り出したことさえあった。そうなると、原因はやはり、あの男がに違いない。夢の終わり際の視界の亀裂とノイズのようなちらつきは今までで一度も経験したことがない……。
エイジは男を捕まえて直に話をした時、確信した。あの男は明らかに異物だ。エイジが頭の中で生み出した夢の住人ではない。もっと生々しく、まるで現実世界で他人と会い、会話をしているような感じがした。ひょっとしたらあの男は自分の夢を盗んだり乗っ取りにきたのかもしれない。エイジは昨日佐久間から聞いたモンタージュの男の話を思い出した。
そろそろ頭痛も和らいだかなと、エイジは恐る恐る頭を持ち上げて見た。すると先ほどまでの痛みはきれいに消えて無くなっており、それどころか体の疲労感もまるで感じなかった。
体を完全に起こし、ベッドに腰掛けると安堵のため息を一つついた。現在時刻を確認すると朝の八時を少し回ったところだった。
こんなに早く目覚めるのは珍しい。さっきまでの陰鬱とした気分がほんの少しだけ明るくなる。
ベッドから立ち上がると一晩中ほったらかしにされてすっかり傷んでダメになったハヤシライスを諦めて浴室に向かった。
シャワーヘッドから吐き出されるお湯をうなだれるようにして体全体で受け止める。お湯が体を伝って足元の排水口に流れていく様を黙って見つめながら、夢の中で例の男が去り際に残した言葉を思い返した。
あの男、最後に『また後で』って言ったよな。ということは、また夢に出てくるっていうことか? なんだか妙にはしゃいでいたけど、あれは一体何だったんだ?
さっきの夢を思い出すと、温かいシャワーを浴びているはずなのに、なんだか背中のあたりが寒くなった。エイジはそれ以上はなるべく考えないようにして、手早くシャワーを済ませた。
バスタオルで頭をゴシゴシと拭きながら風呂場から部屋の方へ戻ってみると時刻は八時半を少し回ったところ。
「ハローワーク行かなきゃな。でもその前に……」
昨晩から何も口にしていないせいで、エイジの腹の虫が大きな鳴き声を上げている。なんでもいいから胃袋に食べ物を放り込まなければ。それになんだか今は一人で部屋にこもっている気にはなれない。ほんの少しでも昨日の夢から離れたかった。
平日の朝ということもあり、街の様子は慌ただしかった。ビジネススーツに身を包んだ男が腕時計とにらめっこしながら足早に通り過ぎたり、幼い子供たちを詰め込んだ賑やかで可愛らしい通園バスがすぐそばの道路を走り抜ける。
とても忙しい、一分一秒が貴重な朝の時間。しかし、それとは逆にエイジの動きはひどく緩慢だった。ほんのちょっぴり抱く優越感と罪悪感。
腕時計に目を落とすとまだ九時にもなっていない。だがエイジの空腹はすでに限界近かった。目玉だけを動かしてあたりを見渡す。どこかで胃袋を満たせるところかないものか。もういっそのことコンビニでも何でも……。
そう考えていた時、自分が立っている右側の建物が喫茶店ということに初めて気がついた。
〈カフェ・REN〉と書かれた乳白色の看板は日に焼けて黄ばんでおり、とても昨日今日できたという代物ではない。控えめそうな佇まいの店だが、別段隠れる風でもなくそれなりに堂々と構えている。
エイジはこのレンダイ町に住んでもう六年になるが、こんなところに喫茶店があるなんて気付きもしなかった。自宅のアパートからさほど離れてもらず、ましてやアルバイトに向かうためいつも通っていた道だというのに。
唯一通りに面している大きな窓ガラスから中を伺うと客はおらず、無人のテーブルと椅子が数セットじっと並んでいる。
店内からコーヒーの香ばしい香りが漏れ出し、エイジの鼻先をくすぐる。ろくに本格志向のコーヒーを飲んだこともなければ、味の違いがわかるほど舌が肥えているわけでもないが、深みのある芳醇な香りはインスタントコーヒーとはまるで違うということはエイジにも分かる。
ついつい漂っているコーヒー色に染まった空気を鼻から勢いよく吸い込んでしまう。脳を刺激するような中毒性の高い香りだった。
「喫茶店かあ。結構早い時間からやってんだな。ひょっとしたらモーニングセットみたいなの、あんのかな?」エイジが人目もはばからず、匂いを堪能していると、腹の虫は輪をかけて騒ぎ出す。これ以上は本当に限界だ。
普段ならこういった個人経営の店には抵抗があって、入ることはまずない。大抵そういう店には常連客がたむろしていて、誰かが店に入ってくると、一斉に客たちが入り口の方に注目する。エイジはあの常連客の視線というのが大の苦手だった。
だが今回ばかりはそういうわけにもいかなかった。限界寸前の胃袋の必死の訴えと店から漏れてくる香りの誘惑に負け、店内に入ることにした。今なら客はいない。店のマスターも無愛想かもしれないけど、なるべく気にせずにとっと何か食べてさっさと店を出ればいい。
「いらっしゃいませ。おはようございます」
ずっしりと重たい木製の扉を開き、エイジが店内に入ると、カウンターの奥からマスターらしき人間が穏やかに言った。背が高く、髪はオールバックにきっちりとセットしており、目つきは猛禽類のように鋭い。一見するとか厳つい面相だが、不思議と怖いという印象はない。
店内は思っていたよりも狭く、カウンター席が三人分、二人掛けテーブルが二台、窓際の席はベンチタイプになっており、こちらもテーブルが二台用意してある。そのうち二人掛けテーブルには一人の先客が座ってコーヒーを飲んでいる。何だ、客いたのかよと心の中で舌打ちした。
店内の様子もやはりだいぶ前から営業しているような雰囲気だった。壁紙の隅っこの方が少し剥げて黒ずんているし、目の位置ほどの高さの本棚には漫画の単行本がぎっしりと収められているが、どの本も背表紙の部分が日に焼けて随分色あせている。
初めて入る店内にソワソワしているエイジに向かってマスターらしき男が静かに声をかけた。
「お一人様ですね。カウンター席にしますか? それともテーブル席?」
「えっと、そうですね。それじゃあテーブル……」
エイジがガラガラに空いたテーブル席の方を見た時に、目に飛び込んできたものに思わず言葉を失った。
二人掛けテーブルにすでに座っていた客は、先ほどの夢に出てきた小柄の男だった。
思わず体が凍りつく。全身から一気に血の気がひき、手足は寒さを感じるが心臓は爆発するかのように激しく動き、胸のあたりだけが焼け付くように熱い。
不意に男が顔を上げて、エイジと目が合うと、夢の時と同じようにニッコリと微笑み、元気よく手を振った。
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