第4話

 エイジは静かに腰掛けている。ついさっきまで暗闇の中でベッドにうつ伏せ状態だったはずのエイジはいつの間にか椅子に腰掛けていた。おしゃれなオープンカフェのテラス。空は青々と美しく晴れ渡り、ちぎった綿菓子の欠けらのような雲がいくつか浮いている。気温は少しだけ暑かったが横から優しく吹きつける風のおかげで全く気にならない。実に開放的で快適な空間だ。

 目の前の木製テーブルにはディープグリーンのパラソルが日差しを遮ってくれる。

 エイジはすぐにこれが夢の世界なのだと理解した。そうか、あのまま眠ってしまったのか。

 帰りにコンビニで買った大好物のハヤシライス、冷蔵庫に入れておくんだった。起きた時には悪くなってるよなあ。明日体調が良かったら仕事を探しに行くか。これ以上うるさい姉に小言を言われたくないし……。

 奇妙なことだが夢の世界で現実のことをエイジはあれこれ心配した。

 改めて夢の世界の風景を見渡してみた。普段なら気後れして絶対に入ることのない小洒落たオープンカフェ。その目の前には道路を挟んで石造りの建物が並んでこちらを見下ろしている。おそらくここは海外だ。エイジにはそう思う根拠があった。なぜなら三日前に見た洋画のワンシーンとほぼ同じ光景だったからだ。

 昨日見た電車の夢とは違い、人影は見当たらなかった。今度こそは落ち着いて過ごそうと椅子に体を預ける。時折デコボコとした石畳の感触を確かめるように足の裏で撫でたりした。

 余計なことは一切考えず、目の前に広がっている美しい街並みをただぼんやりと眺める。動くものは一切存在せず、聞こえてくる音は風がそよぐ音のみ。エイジ以外の全てが停止した静寂の世界。

 そのはずだったが突然左後方から視線を感じる。

 エイジはまさかと思い、視線を感じる方に体を向けた。

 視線の主は例の小柄の男だった。電車の夢に出てきて、無断で居座り続け、エイジの疲労を増大させたあの小柄な男。

 男もオープンカフェの一卓に座り、右手のみで頬杖をつき、うっすらと笑みを浮かべてこちらを見続けている。

 昨日とは違い、露骨にこちらを見ている。まるで意図的に自分の存在を主張するかのように。

「あの野郎……!」エイジは静かに怒りを燃やした。ここで一気に怒りを爆発させてはいけない。怒りという極めて強力な感情は心のそこに沈めておかなければ。心拍数を急激に上昇させると夢から覚める可能性が非常に高くなってしまう。それはつまり男を取り逃がしてしまうことになる。

 静かに立ち上がり、ゆっくりと歩き、男との距離を縮めていく。男は特に動きを見せず、近づいてくるエイジに視線をぴったりと合わせ外そうとしない。

 男に近づくにつれて大きくなっていく怒りと興奮をエイジは必死に抑え込む。

 残りあと五、六歩の距離まで詰めた時、男が急に立ち上がった。エイジはピタリと歩みを止め、静かに様子をうかがう。男が一体どう行動に出るのか全く予想できない。飛びかかってくるのか、逃げ出すのか、その場でずっと立ち続けるのか……。

 エイジが慎重にもう一歩近づこうとした時、電車の夢の時と同じく男は急に笑った。声を出して笑うのではなく、ニッコリとした満面の笑顔。想定外の行動にエイジは思わず動揺した。

 男は笑顔のままクルリと回れ右すると、そのまま走り出した。完全に虚を突かれたエイジは後を追うのに少しばかり間を作ってしまった。

 エイジも駆け出すが、随分離された上、相手は見かけによらずアスリート並みに速い。だがエイジは少しも慌てたりはしない。相手が誰であろうと絶対に逃さないという自信があるからだ。

 大きな交差点に差し掛かった時、小柄な男は左に曲がり東側道路へ逃走を続けようとする。エイジは走るのをやめ、歩き出す。そして落ち着き払って静かに言った。

「ここは俺の夢だぞ。俺から逃げ切れると思ってんのかよ? そっちは行き止まりだ。足元気をつけろよ」

 エイジが右足を軽く踏み鳴らすと、男の目の前の道路に無数の亀裂が走り、砕けたクッキーみたいにバラバラと音もなく崩れ落ちる。男はいきなり現れた巨大な穴に目を見開くと慌てて踏みとどまり、二、三歩後ずさる。

 地面にぽっかりと空いた大穴は底が全く見えず、不気味な闇がどこまでも続いている。

 男は止むを得ず踵を返す。交差点に戻るとそのまま真っ直ぐに正面の西側道路を突っ切ろうとする。

 再びエイジの視界に現れる小柄な男。

「次は上だな。頭上にも注意したほうがいい。夢の中では何が降ってくるかわかんねえから」

 エイジは顔の前で人差し指を空に向けた。

 どこからともなく風を切り裂くような音が聞こえてくる。男は交差点の中心付近でピタリと立ち止まると警戒するように辺りを見渡した。

 男が顔を正面に向けた瞬間、目の前に大型バスが凄まじい勢いで落下し轟音をあげてフロント部分から地面に激しく衝突した。その衝撃でバスのサイドミラーやガラス片、土埃が四方八方に飛び散り舞い上がった。男は反射的に右腕を上げて頭をカバーしながら身を屈める。

 地面に突き刺さるように立ってたバスがバランスを崩し、金属やガラスを折り砕きながら、腹に響くような低い地響きを鳴らしながら横転した。

 しかも降ってきたのは一台ではなく、二台、三台、四台とバスが次々に落下してきては激しく地面にぶつかり、粉塵を巻き上げると男の逃走経路をまた一つ完璧に遮ってしまった。

 怒涛の落下が治るとゆっくりと腕を下ろし、エイジの方に体を向ける。顔には相変わらず薄く笑みを浮かべている。

 エイジは男に対して、さあ次は一体どうするといった挑戦的な視線をぶつけている。逃げれるものなら逃げてみろ、と。

 男はニッと口元を歪めると、くるりと振り返り、後方に残されている北側道路に向かって駆け出した。

 エイジは男の後ろ姿を視線で追いながら、落ち着いた様子でまあそうするだろうなと軽くため息をついた。

「よし、これは大サービスだ。見てろ」

 エイジはそう言うと、右腕を前に突き出し、撫で上げるように手首だけをくるりと回した。エイジの手のジェスチャーに合わせて、唯一残された道路から石造りのビルがロケットのように猛スピードで天に向かって生え出し、あっという間に北側道路を塞いだ。わずかな土埃を巻き上げると、ずっと昔から建っていたかのようにどっしりとその場に構え、微動だにしなくなっていた。

 交差点東側の道路には底なし穴、西側には四台のひしゃげた大型バスの山、北側には石造りのビル、そして南側には誰あろうエイジが待ち構えている。

 佐久間から受けた忠告はすっかり頭から消え去っていた。

 逃げ道を完全に潰し、じっくりと確実に男に歩み寄る。どうだ見たか。俺がちょっと本気になればこんなもんだ。夢の中でこの俺から逃げられるやつなんて存在しない。夢の中では俺はヒーローなんだ、とエイジは心の中で啖呵を切った。

 男はエイジに背を向けたまま微動だにしない。一体どうしてくれようか。正体を突き止める前に文句の一つでもぶつけてやらないと気が済まない。

 とうとうエイジは男の肩を掴み体を自分の方にグイっと向けた。

「おい! てめえ、一体どういう……」

「いやあ、君すごいよ! 想像していた以上だ! 間違いない、君には見込みがある! やっぱり僕の目に狂いはなかったよ。だいたい狭い場所から人員を探さなきゃならないなんて、前々から疑問だったんだよね~」

 男はエイジの言葉を遮り、満面の笑みを浮かべながら右腕を広げてはしゃぐように言った。まるで少年のように明るく楽しげな男。

 エイジはただぽかんと口を開けたまま突っ立っている。追い詰められといて、一体なぜこんなにも嬉しそうに振る舞えるのか全く理解できなかった。男は御構い無しに続ける。

「文句なしの合格だよ。合格も合格、大合格さ! おめでとう! よし、そうと決まれば早いとこ手続きを済ませなきゃ」

「な、何がおめでとうだよ! この野郎! こっちはなあ、てめえのせいで色々と迷惑してんだぞ! こっちはなあ、お前のせいでなあ……」

 エイジは混乱しつつも必死に文句を男にぶつける。他にも言いたいことや聞きたいことがあるのだが、こんがらがった頭では適当な言葉が出てこない。

 男は相変わらず笑みを絶やすことなくなだめるように言った。

「まあまあ、待って待って、落ち着いて。この場であれこれ説明するのも難しいからさ。詳しいことはまた後で話そう。ね? いいね? ごめん、ちょっと荒っぽくなるけど。でもすぐ良くなるから」

「はあ? ふざけんな! おい、ちょっと……」

 話を切り上げようとする男の胸ぐらを掴もうとした瞬間、男は素早く拳銃を取り出しエイジの眼前に向けた。真っ黒な銃身は光を鈍く反射し、ぽっかりと空いた銃口はまっすぐエイジの眉間を見つめている。

「ちょっ、おっおい!」ギョッとして言葉にならない声を上げた時、エイジの視界に亀裂が入った。そして古いテレビ映像のようなノイズが入り、だんだんとちらつきが激しくなる。こんなことは今までで一度も経験したことがない。夢の空間を正常に戻そうとしてもうまくコントロールできない。夢がいうことを聞かないのだ。

 エイジはなぜか死を連想した。世界、本当に終わっちまう……。 

「じゃ、また後で……」砂嵐のようなちらつきが視界全体を完全に占拠する中、男の声だけがはっきりと聞き取れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る