第3話

 クリニックを出ると凄まじい熱気と街の騒音がエイジを出迎えた。さっきまでクールダウンしていた体は早速じんわりと汗を滲ませている。

 ぼんやりした頭で来た道を引き返す。全身から吹き出した汗のせいで背中にぴったりとTシャツが張り付く。

 たまらず視界に入ったコンビニへと足を向けた途端、後ろから飛んで来た声にエイジは思わずドキリとした。

「あれ? ひょっとして不二沢か?」

 エイジは本当は振り返りたくなかった。できることなら走って逃げ出したかった。だがエイジの顔の筋肉は無理やり明るい表情を作り、体をゆっくりと声のした方に向けた。

「ん? おう、及川か。やっぱりお前かよ」

 声をかけて来たのは高校の同級生、及川だった。仕事中なのだろう、ワイシャツにネクタイ姿でハンカチで額の汗を拭っている。

「なっつかしいなあ! 高校以来か? 今お前何やってんの? 仕事は?」

「俺? 俺は……今ちょっと休職中でさ」

「休職? なんで? なんかあったの?」

「んー、ちょっと体調が良くなくて……。睡眠障害ってやつで」

「へえー。何、眠れないの?」

「まあ、そんな感じかな」

「そっかあ。大変だな。でもさあ、正直羨ましいよ。俺なんか毎日こんなクソ暑い中セコセコ働かなきゃならないんだぜ? 全くやってらんねえよ」

「……へえ、そうなんだ」エイジは顔を引きつらせながら言った。

「この前もさ、ちょっと役職が上がったんだけどさ。まあ小さい会社だから大したことはないんだけどよ。そんでラッキーって思ってたら仕事がめちゃくちゃ忙しくなるしよぉ。彼女と遊ぶ暇なんか無えから毎日小言言われてんだぜ?」

「……んー、そりゃ大変だな」エイジは調子を合わせて頷いてみせてはいるが、心底うんざりしていた。愚痴るふりして自慢話かよと腹の中で毒づく。

「まあでも俺らもいい歳じゃん? そろそろ身を固めて家も買わなきゃなんねえし、しょうがないんだけどさあ」

「えっ。及川、結婚するの?」

「まあ、すぐにじゃねえよ? 一年後、二年後あたりかな? だって俺らもいい歳じゃん? おっ、悪い悪い。なんか愚痴っちまって。これからどっか行くとこあるんだろ?」

「あ、いや俺は別に……」

「体の調子が良くなったらさ、みんなで飲もうぜ! 俺がみんなに連絡して人数集めっからよ。あ、コレ俺の名刺な。携帯の番号も書いてあっから。それじゃあまたな」

 エイジは去って行く及川の後ろ姿を見つめたまま受け取った名刺をグシャリと握りつぶした。


 部屋に戻ったエイジはベッドの上に寝っ転がり、何時間もただひたすら天井を見つめていた。慢性的に蓄積した疲労から瞼がどっしりと重くなるが、眠ることはしなかった。ピクピクと痙攣するように震える瞼をかろうじて開けている。エイジにとってこれが睡眠の代わりだった。眠れば現実世界で生活するよりもずっと疲れてしまう。エイジは長年かけてこの覚醒と睡眠との間に存在するまどろみの時間に体を休めるというワザを身につけた。しかしそれでも完全に疲労を取ることはできない。

 一体いつまでこんなことをしなきゃいけないんだろう?

 そんなことをぼんやりと考えていると顔のすぐそばに置いていた携帯が鳴った。ドキリとして目をいっぱいに開いた。おかげで眠気は一瞬で吹き飛ぶ。

 携帯から充電器のコードを引っこ抜いて画面を見てみると相手は五つ上の姉からだった。エイジは顔をしかめるとベッドに伏せったまま電話を取った。

「もしもし、姉ちゃん?」

『あー、エイジ? あんた最近どうしてんのよ? 連絡もよこさないで』エイジの耳元でキンキンとした声が耳を刺す。

「何言ってんだよ。つい二週間前も電話したろ」

『えーそうだったっけえ? そんなことよりもさあ、あんた仕事はどうなってんの? ちゃんと就職できたわけえ?』

「……別に相変わらずだよ」

『はぁ~、もう何やってんの! いい加減にしてよ。本当あんたってダメね。なんでこうもデキが悪いのかしら……』

「うるっせえなあ。関係ねえだろ」

 エイジはぶっきらぼうな態度で返した。本当はこのまま電話を切ってやりたかったが、そうすると後々面倒なことになる。この女の執念深さは天下一品だ。このまま部屋に押し入って来ることも十分にあり得る。

『関係あるでしょ! 実の弟が未だに就職できてないなんて恥ずかしくて外歩けないわよ。勘弁してよね! ちゃんと病院行ってるの?』

「ずっと行ってるよ! 今日も佐久間先生の所に行ってきたよ!」

『それなのに就職もできないわけ? 本当呆れるわ。だいたい睡眠障害なんて甘えよ、甘え!』

「おい、大して知りもしねえのにいい加減なこと言ってんじゃねえよ!」

『だってそうじゃない。病は気からって言うでしょ? あんたにはやる気ってもんが足りないのよ。昔っからそうだった。あんた今までに何かやり遂げたことあんの?』

「……俺だって、こんな病気がなかったら……」

『あ~あ。あんたが佐久間先生みたいにイケメンでしっかりした弟だったらねえ』重たいため息がスマホの受話口から漏れて来る。

「……全く、話になんねえよ」

『あんたお母さんたちにもちゃんと連絡しなさいよ? 毎日心配してるんだから。それとお盆帰ってくるんでしょ? どうせ暇だろうし帰るわよね?』

「知るかよ、そんなこと!」

『帰るんだったらウチの子たち見ててくんない? 私友達と遊ばなきゃなんないから』

「ふざけんな。なんで俺がそんなこと……」

『それぐらいはしなさいよね! 毎日フラフラしてるんだから! 少しは家族の役に立ちなさいよ』

「フラフラって……! あのなあ、俺が毎日どれだけ……」

『じゃっ。そういうことでよろしく~』

「おい! ……くそっ、信じらんねえ! くそっ、くそっ!」

 電話が切れるとエイジはベットに顔をぎゅうっと埋めた。姉の刺々しい言葉に怒りよりも虚しくなった。

 ベッドにうつ伏せの体勢のまま、目を閉じる。この先自分はどうなっていくのだろう。そんなことを考えること自体が鬱陶しい。どうせ考えたところで解決方法なんて見つかりっこないのに。

「世界、終わってくんねえかな」そう呟くと自分の意思とは関係なく涙まで溢れてしまった。

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