第2話
エイジのぼやけた視界に飛び込んできたのは見慣れた薄汚れた天井だった。海面を走る電車は跡形もなく消えて去っており、そこにあるのはいつもエイジが暮らしているアパートの部屋の光景。築年数三十二年、ワンルームタイプの家賃六万五千円のアパート。壁はタバコのヤニで黄ばんでおり、テーブルの上には空になったカップ麺やコンビニ弁当の容器が山のように雑に積まれている。
窓の外はすっかり明るくなっており、まだ七月の頭だというのに蝉の鳴き声は頭が痛くなりそうなぐらい騒々しい。
「あんな気持ち悪い夢見たの何年ぶりだろ……。なんだったんだ、あの野郎は」
カーテンの隙間から差し込む日差しが焼けるように熱い。顔中にびっしりついた大粒の汗を両の掌で拭い、上体を起こそうとするが、うまく力が入らない。まるで体に大量の鉛を埋め込まれたように重くなっている。頭の中も霧がかかったようにぼんやりしているが、相当な疲労が溜まっているとことだけはすぐに理解できた。
エイジはタバコに火をつけ、煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
「さすがにヤバイかな……。あ~くそ! 久しぶりに行ってみるか」エイジは枕元に置いておいた携帯に手を伸ばし、少し考えてから電話をかけた。電話はツーコール目が終わらないうちに繋がった。
「あっ、もしもし佐久間先生? 俺です、不二沢です」
『おはよう、エイジ君。随分と久しぶりだね。どうしたんだい?』
「おはようございます。いや実はさ、今日病院に行こうと思ってるんだけど、予約する前に先生が空いているか確認しようと思って」
『今日? ちょっと待ってて……。うん。午前中、十時だったら少し時間が取れるよ。……夢のことで何かあったのかい?』
「ええ、まあ……。今回のはちょっといつものと違うっていうか、気になったもんだから……」
『そうか。うん、わかった。受付には僕から言っておくから大丈夫だよ』
「ありがとうございます、先生。それじゃあまた後で」エイジは電話を切ると吸っていたタバコを汁が少し残っていたカップ麺の容器にヒョイと投げ込んだ。
疲労が溜まりきった鉛の体に鞭を打ち、「よっこらせ」と体を起こそうとするが頭がうまく働かない。深くため息を吐きゆっくりと立ち上がるとフラフラと出かける準備をした。動くたびにズキリと頭が小さく痛む。その度に昨晩の夢の出来事が浮かんでくる。
やっぱり昨日の夢では大人しくしておくべきだったかなあ。そうすればこんな事にはならなかったのに。いや、違う。あいつだ。全部あの気味の悪い男のせいだ。あの男が出てこなければ……。
今更考えても仕方のない事だとわかっていても、どうしても考えてしまう。そう考えてしまう自分の愚かさに気づき、腹が立つ。そしてその怒りの矛先はまたあの男に向けられる。そんなことを頭の中で循環させたままシワだらけのTシャツにジーパン、サンダル履きというラフな格好で部屋を出る。そして玄関扉の鍵穴に鍵を突っ込んだ瞬間、思い出す。
「あの男、昨日の夢が初めてじゃないよな……」
「やあエイジ君。久しぶりだね。と言っても二週間ぶりぐらいかな? まあ掛けなよ」白衣を着た男が椅子に座ったまま軽く手を挙げた。
「今日はどうしたの? 症状は多少改善されたと思ったのに」白衣の男はエイジが通う病院の睡眠医療認定医で名前を佐久間といった。物腰が柔らかくスマートで整った顔立ちをしており、同性のエイジから見ても美しかった。
「どうも佐久間先生。ちょっと昨日の夜が特にひどかったもんで……」エイジはTシャツの襟元をパタパタと扇ぎながら佐久間と向かい合うように椅子に座った。
真っ白な天井と壁、大きな窓が外からの自然光を部屋の中いっぱいに振りまいている。広く開放的なその空間はとても診察室とは思えないほど洗練されている。家具にもこだわっているようで通常の病院にあるような無機質で事務用家具は一つもなく、デザイナーズものが必要な分だけ置かれている。もちろんエイジの座る椅子も簡素なスツールではなくゆったりと座れるリクライニングチェアだ。
「なるほど、詳しく聞こうか。その前に最近の様子も聞いておきたいな」佐久間は組んだ手の上に顎を乗せたまま優しくエイジを見つめた。
「う~ん、そうですね……。まあ、少しは良くなったと思いますよ。ここ最近は強烈な頭痛は減ってきてるし、吐き気もない。でも疲れはほとんど取れてないですね。ひどい時はまともに動くこともできないですから」
「そうか……。やはりまだ継続的に治療をする必要がありそうだね。夢の内容に変化はあるかい? 怖い夢、悪夢を見る回数が増えたとか?」
「特に変化はないですよ。悪い夢を見るってこともそんなにないかな。ただ一つ一つがリアルなんです。何も考えないようにしてるんですけど、勝手に世界が出来上がっていくっていうか……」エイジは目線を上に向けて昨晩の夢の内容を思い返すと少しだけ頭がズキンと痛みが走った。
「やはり無意識のうちに夢の中で脳を酷使してるのが問題だね。その問題さえクリアできればエイジ君の睡眠障害は解消されるはずなんだけど……」佐久間は顎に手を当て眉間に皺を寄せる。
「何か良い改善方法はないもんですかね?」
「そうだね……。夢の中で目を閉じることはできる?」
「できますよ。でもダメ、とっくに試しましたよ」エイジはため息をつきながら首を左右に振った。
「ふうむ、そうか。でもすごいな。エイジ君は夢を夢だと完全に理解しているわけだ。その上で現実世界と同じようなクオリティを夢の中で創り上げてしまっている」
「俺にしてみれば迷惑なだけですけどね。そんなことができたってなんの役にも立ちやしないし」エイジはかたをすくめると鼻を鳴らした。
「前にも言ったけど昼間に運動をしてみるってのは試してみたかい? ジョギングや何かスポーツを始めるとか」
「いやあ、それがなかなか……。体を動かすっていうのはどうも苦手で……」
「運動不足は良くないな。何か始めてみたらどうだい? ちょっとしたことでもいいんだよ。散歩するとかストレッチをしてみるとか」
「まあ、そうですね……。考えときます」エイジの適当な返事に佐久間はやれやれと小さくため息をついた。
「前々から興味があったんだけどエイジ君はどこで夢か現実かを見分けてるの?」佐久間は再び手を組むとやや体を前に傾けながら尋ねた。佐久間はエイジといる時はペンを取ることは基本的にしない。向かい合って会話をするだけだ。そのおかげでエイジは治療やカウンセリングを受けているということを忘れてリラックスすることができる。
「う~ん、ただそう感じるとしか……。今、俺は現実にこうして先生にカウンセリングを受けているわけですよね? それは夢じゃないってはっきりと分かっている。それと同じで自分が今夢の中にいるってこともはっきりと分かるんです。ん、あれ? 説明になってないかな?」エイジは腕組みをしながら首を傾げた。
「いやいや、ありがとう。それで、昨日の夢はどんな感じだったの? 具体的に教えてくれるかな」
「え~っと、気がついたら古い電車に乗ってたんです。海上を走る電車に。日が沈んだばかりの頃で空には星が見えてたかな。海辺には街があるようで結構な数の灯りが点いてて……。ああ、それから電車の中には何人か乗客が乗っていました。まあ乗客は見た感じ全員普通でしたね」
「相変わらずよくそこまで記憶しているね。それで?」
「それで問題はその乗客なんですけど、その中の一人の男が変なんですよ」エイジの脳裏にあの男の顔が浮かんできた。不気味なまでに生々しい笑顔を思い出すと背筋にゾワゾワとした寒気が走った。
「変?」
「はい。なんていうか、その……」エイジは言い澱み、少し間を置いて続けた。
「消えなかったんですよ。つまりその、コントロールできなかったっていうか……」
「なに! 君、またアレをやったね?」佐久間の顔が急に険しくなる。
「いやいや、ほんのちょっとだけですよ? 一人になった方が落ち着くと思って、つい……」エイジはばつが悪そうに肩をすくめてポリポリと頭をかいた。
「これは何度も言っているけどねエイジ君、例え些細なことだとしても君の脳には大きな負担がかかっているんだ。君が夢の操作をやめない限り症状は一向に改善しないんだから! ……それでその奇妙な男について何か心当たりはある?」
「そんなもんあるわけないじゃないですか。そりゃあどこかですれ違ったりテレビか何かでちらっと見たことがあるのかもしれませんけど。でもそういう感じでもないと思うんだよなあ……」
「以前に同じような経験したことは?」
「コントロールできないこと? はっきり言ってないですね。今回が初めてですよあんな気味の悪いこと。それになんだか……」
「ん?」
「なんていうか、やたらに生々しいんですよ。そいつはまるで……」
「本物の人間みたいに?」
「……はい」返答を先回りされたエイジはゆっくりと頷いた。
「ふうむ」佐久間はため息をつくように唸るとしばし考え込み、エイジの顔を見ずに話し始めた。
「こういう話がある。ある一人の女性が精神科を訪れた。彼女が言うには自分の夢の中に奇妙な男が毎晩のように現れるのだそうだ。精神科医は彼女の証言をもとに男のモンタージュを作った。それからしばらくしてその精神科医のもとに同じ悩みを持つ男性がやってきた。モンタージュを作ってみたところ女性の時と全く同じものができたそうだよ」佐久間は立ち上がると後ろに手を組み、ゆっくりと窓に向かって歩く。
「あまりに不思議な出来事に精神科医は医者仲間に相談したところ、驚いたことに彼らのところにも同じ悩みを抱える人たちがいると言うじゃないか。インターネットでそのモンタージュ写真を投稿したところ、その奇妙な男の目撃例はなんと二千を超えたらしい」
「……それで、その男の正体はなんなんですか?」エイジが思わず身を乗り出す。
「それがね、そのモンタージュや精神科医の話は全てでっち上げたデマだったのさ」佐久間はエイジの方に振り返ると肩をすくめて口の端を持ち上げた。
「なんだよ、ただの作り話か」エイジは苦笑いすると再び背もたれに寄りかかった。
「まあそんな所だね。なんて事のない話だろ? 君もあまり深く考えない方がいい。夢は潜在意識の投影だからね。とにかくそういう夢は見たら何も考えずリラックスすることだよ」そう言いながら佐久間が窓をカラカラと開けた。途端に部屋の中に蝉の鳴き声が暑い空気とともになだれ込んでくる。
「でもどうして昨日の夢の男だけコントロールできなかったんでしょうか? それが一番気になってるんですよ」エイジが佐久間の背中に投げかけた。
「そうだなあ……。ひょっとしたらその男は君自身、つまり自己の投影なんじゃないかな。制御ができなかったのは抑圧からの解放を暗示していて、不満を抱いている日常生活から抜け出したいと望んでいるとか」
「抑圧ね……。そりゃあ確かにそうですけど、そんなの今に始まったことじゃないですよ。相変わらず就職もできないですし。それどころか……先生には話しますけど、先週バイトもクビになりました。休みすぎだからって。またバイト探しですよ、面倒くせえ」
「あ、いや、すまない。そういうつもりで言ったんじゃないんだ」佐久間が慌てて頭を下げた。
「はは、そんなのわかってますよ」佐久間との付き合いはもうかれこれ五年になる。佐久間はいつだって辛抱強く親身になって治療やカウンセリングを行なってくれるし、今日みたいに忙しい時でも必ず時間を作ってくれる。彼がどれだけ信頼できる医師かということはエイジはよくわかっていた。
「それじゃあ今日はここまでにしよう。ごめんね、時間が取れなくて。いいかい、くれぐれも夢の中を弄らないようにすることだよ?」
「気をつけます。それじゃあ先生、お世話になりました」
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