ダイバーよ深く眠れ

石丸砲丸

第1章

第1話

 不二沢エイジは古びた電車に揺られていた。

 海面上を走るクリームを色した一両編成の電車は、跳ね上げた波をスカートのように纏いながら迷いなく進んでいた。

 空と海はほぼ夜の色に支配され、わずかに残った夕暮れのオレンジ色を今にも飲みこまんとしている。濃紺の空の天井部分にはすでに星明かりがいくつか瞬き、遠くの方には港町の灯が点々と見える。

 電車の中には彼を含めて七名ほど乗客が乗っており、エイジと同じくロングシートタイプの座席に静かに腰を下ろしている。どこで誰が乗ったのか、そしてどこで降りるのか、そもそもこの電車がどこに向かっているのかすらもまるで分からない。

 運転手や車掌の姿はなく、どういう理屈で動いているのかエイジには検討もつかなかったし、興味もなかった。

 電車が線路の上を滑るガタタン、ガタタンという音と車輪が海面を切り裂く音が合わさり、軽妙な音楽を奏でている。その音に驚いてか時々海面から魚が飛び上がっては海の中へと消えていく。

 天井には数台のくたびれた扇風機。壁には着物姿の女性モデルが載った色あせた広告。床には艶のない木材が敷き詰められ、電車の鼓動をエイジの足の裏に伝えている。

「あ~あ、またかよ。こりゃ明日もしんどいだろうな……」

 窓に映ったボサボサ頭の自分の顔をぼんやり眺めながら舌打ちすると座席に深く座りなおした。少しくたびれたモケット素材のシートが彼の背や尻を優しく包み込む。

 エイジは首を左右に振り改めて乗客を見渡した。くたびれたコートを着た男、雑誌を読んでいる若い女性、カンカン帽をかぶった老紳士、ミニカーを大事そうに握っている男の子とその母親と思しき女性など……。

 少しでも落ち着いた空間にするためにもこの電車はたった今から貸切だ。

 エイジは右手でピストルのポーズを作り、対面のシートに座っているコートの男の乗客に照準を合わせた。そしてバン、と撃つ真似をすると男は塵一つ残さずフッと消えた。そのことに騒いだり驚いたりする乗客は一人もいない。もちろんエイジも例外ではなく、たった今目の前の男を消したと言うのに凄腕の殺し屋のように眉ひとつ動かさなかった。

 エイジは次から次へと乗客たちに照準を合わせ、心の中で引き金を引き、次から次に乗客を消していく。いたって冷静に、キーボードのタイプミスをデリートキーで一文字ずつ削除していくように淡々と。

 コートの男を撃つ。消える。

 若い女性を撃つ。消える。

 老紳士を撃つ。消える。

 母親と子供を……少し躊躇った後、やっぱり撃つ。消える。

 隅っこに座る男を撃つ。消えない。

 ……消えない?

 消えなかった。一番離れて座っている最後の乗客だけが何事もなく存在し続けている。車内はさらに静まり返り、線路が軋む音や海面を切り裂く音、天井の扇風機の羽が回転する乾いた音がより鮮明になって耳の奥へと入ってくる。

 エイジは動揺しそうになるが、もう一度落ち着いて人差し指を最後の乗客に向ける。冷静に乗客が消えるビジョンを丁寧にイメージする。

 狙いをつけて撃つ、バン。消えない。

 狙いをつけて撃つ、バン。消えない。

 狙いをつけて撃つ、バン。消えない。

 狙いをつけて撃つ、バン。消えない。

 狙いをつけて撃つ、バン。バン、バン、バン、バン、バン……、消えない……。

 エイジは動揺した。こんなこと普通はありえない。いや、あってはならない。エイジは眉間にしわを寄せ、未だに平然とシートに腰をかけている乗客の正体を確かめようとじっと見つめた。

 その乗客は小柄な中年の男だった。年齢は四十代半ばくらいで頭髪はやや薄くなっている。服装は少し大き目の茶色のツナギを着ており何かの作業員のようだった。別にこれと言って変わったところはない。ただ一点、エイジの命令に逆らう存在ということを除けば。

 どうしたものかとエイジは顔をしかめた。このまま小柄な男の存在を無視し続けるか、もしくは何としてでも排除すべきか。

 頭をガシガシと掻くと、エイジは立ち上がった。やはりここは消しておこう。疲労は確実に増すだろうが、得体の知れない疑問をこのまま残しておきたくない。

 しかし、エイジが数歩足を踏み出したところで男が急に顔を上げるとエイジを見つめて二コリと笑みを浮かべた。男の顔に刻まれたシワがよりくっきりと深くなるが、目元だけは笑ってはおらず、まるでエイジの心の底を見透かそうとしているかのように冷静さがその眼差しにはあった。

 予想だにしない反応にエイジはギョッとし、思わず上半身が仰け反る。まるでオカルト、怪奇現象だ。人物画が喋りかけてきたり、鏡に映った自分が勝手に動き出すような不気味で得体のしれない恐怖。だが不思議と目をそらすことができない。

 途端にエイジの呼吸が荒くなる。心拍数が急激に上昇し、顔全体がジンジンと痛くなるほど熱をおびていく。エイジは瞬間的にしまったと思ったが、遅かった。

 そしてその怪奇現象の男の口が動く。互いの距離は車内の端から端まで離れているが、まるで耳元で囁かれているかのようにはっきり聞こえた。

「ありゃ、ハジいちゃう?」

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