その7


 お互い仕事上がりのスーツ姿のまま、帰り道で見かけたバー『Januar』に立ち寄る。全体が木で統一された内装にダウンライト。優しく流れるジャズミュージックが耳に心地良い店だ。

 こんな時に頼れる人間と言ったら、彼しか思いつかなかった。

 私の元彼を奪った因縁の相手————八雲。まぁ、それを知ったのは社会人になって随分経ってからだったので、わだかまりがあるわけじゃない。

 黒いベストをきちんと着こなしたボブカットの女性ウェイターにギムレットを注文して、彼を誘った本題を切り出す。


「告られた。雨宮に」


「直球だな」


「何て答えればいいか、分かんないんだよね」


 八雲は聞いているんだかいないんだか、むっつりとした顔で私を見ている。

 別に想定通りの反応だから、構わず続ける。


「雨宮、本当はいい子だし、大事な親友だよ。でも、付き合うってのと上手く結びつかなくて、さ」


 元彼と八雲に関する一件と、思い返すもおぞましい『緑の庭事件』——同性同士の恋愛に関わった経験は人生で二度あるけれど、どちらも他人事だと思っていた。いざ自分が当事者になってみても、実感が湧いてこない。


「それ、そのまま言えばいいだろ」


「ムリ」


「何で」


「——言ったらあいつと縁切れちゃいそうなんだもん」


「雨宮はそんな不器用なやつじゃない。現に、昔振られた俺に普通に接してきてる」


「私が嫌なの」


 俯いて黙ると、八雲は何も言い返してこない。さっきからカウンセラーと問答しているみたいだ。


「私はあいつみたいに慣れてない。断ったら、絶対気まずくなるよ」


「そんなの時間が解決してくれる。和の持論じゃないか」


「忘れらんないよ!」


「——おねーさん、失礼します」


 どきりとする。トレイにグラスを乗せて運んできたのは、黒いベストを着た小柄な女の子の店員だ。つい周りが見えなくなっていた。

 でも、そんなこと忘れて、彼女に吸い込まれるように見入ってしまった。差し出されたグラスを受け取ろうとして、落としてしまう。グラスが割れる音がどこか別の世界の出来事のように響いた。


「わっ、すいません」


 女の子がさっとタオルを手渡してくれる。


「いえ……、こちらこそ」


「あちゃ。スーツにかかっちゃいましたね……」


 彼女は私のスーツの上着を脱がせようとする。


「大丈夫ですよ。——って、キミ。この間の水族館で、写真の……っ」


「あぁ、和希さんっ! スーツだと雰囲気変わりますねぇ」


 なんでだろうね。

 ああ————。この子も恋をしているんだな。水族館で会ったときからそんな印象を持っていた。完全にただの勘だけど、相手は女の子のような気がした。そういえば、雨宮に負けないくらいの美人さんを連れていたっけ。

 思いがけない再会のせいか、雨宮のせいか、脈絡のない考えが頭をよぎる。それは問いかけになって口から溢れた。


「好きな人は、いる?」


 いやいや。

 言った瞬間に冷静になる。後の祭りなんだけど、初対面の客が店員に言うには、ちょっと厚かましかったかも。


「やっぱ、今のなし。変なこと言ってごめんね」


「いえ——」


 彼女は恥じらいなく言い切る。


「いますよ、すきな人」


 別のテーブルに呼ばれて、彼女は背を向ける。

 でもその言葉は、日向のように私の心を照らし出した。


 雨宮にとっての私とは。「今のあたしには、晴海がいるもの」いつかの彼女の一言が蘇る。

 私がいるから、雨宮は安心して馬鹿を繰り返したのだろうか。


「だって、雨宮には私が居なきゃ————」


「居なきゃ?」


 違う。安心してたのは私だ。

 雨宮が別れて傷ついて、そしてあの家に——私の下に戻ってくることに。


「…………うん。居なきゃ、ダメ————」


 駄目なのは雨宮? それとも、私?

 いつからだろう。雨宮の居ない生活なんて考えられなくなっていた。


 雨宮が浮気を繰り返して、私がそれを仲裁する度に、うんざりした。彼女が遠藤さんや大平さんと付き合っていたことを知ったとき、ちょっと腹が立った。

 そのときは、毎回迷惑をかけていたことへの苛立ちだとしか思っていなかったけれど。

 ————嫉妬した?

 それなら、私が雨宮に抱いているこの感情は————、


 八雲は顎に手を当てて溜め息をつく。


「和の中ではほとんど答えが出てるように見えるけどな」


 そこで言葉を区切る。珍しく考え込むような表情で固そうな髭を掻いてから、ゆっくりと言った。


「女同士ってのは置いといて、もう一度ちゃんと考えてみたらどうだ?」


 やっぱり彼も悩んだりしたことがあるのだろうか。それは不思議な説得力をもって、私の腹の底に落ちた。




   ***続く***

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