その6


 島田さん事件の後は二ヶ月くらい、平穏無事な生活が続いた。

 季節は新年を迎え、短い正月休みを経て仕事始めを待つばかり。こたつにくるまって雨宮の作ったお雑煮を食べながら、テレビを見て笑っているうちに、日々はなだらかに過ぎていった。


 珍しいことに、雨宮の浮気性はすっかりなりを潜めていた。というか、あの一件以来、大平さんとも別れて独り身なんじゃないだろうか。週末家に居ることも多くなった。

 知り合ってからというもの、一度も男が途切れたことのない雨宮。いったいどんな心境の変化があったのか——。気になってはいるが、何となく本人に聞くのは憚られた。


 ——懲りたのかな。

 そんなことを思い始めていた、夜のことだった。


 自室で微睡んでいると、軋んだ音を立ててベッドが揺れた。

 たちまちむせるほどに香るのは——、雨宮のシャンプーの匂い。


「——ちょっと、雨宮?」


 壁に向かい合って寝ている私の背中に、彼女はぴったりと寄り添う。そう思ったときには、生温かく湿った感触が首筋を這っていた。


「——って、ちょっ、やめ……ぇ——っ」


 むず痒い感覚が背筋を襲い、腰のあたりでじんわりと留まる。いや、ちょっと。これは結構——。


「あ、あんた、どういうつもり————」


 慌てて後ろに伸ばした手が、雨宮の腰あたりに触れる。手のひらに伝わるのは、滑らかな素肌の感触だった。

 私のキャミソールの裾を掴む手に、力がこもる。


「晴海、あたしのこと好き?」


 雨宮が喋ると耳元に吐息がかかる。熱い。その熱がじわじわと、私の芯まで染み込んでくる。


「晴海のことが好きなの。初めて会ったときからずっと」


 シロップ漬けにしてその上から蜂蜜と練乳をたっぷり塗り付けたように、とろりとして甘い囁き。それは理性をぐらつかせるような響きを伴って、耳の中にこだまする。


 ——好き? ルームメイトとして? それとも、別の何か————?


 その先の言葉を見つけるのは躊躇われた。

 だって、雨宮だよ。押しに弱くて惚れっぽくて、男にだらしなくて。ぶっちゃけ、世の中から男性が消えたら真っ先に飢え死にしそうなタイプ。そんな彼女が私に対して特別な感情を抱くなんて、あり得ない。

 ——そうだ。彼氏いない期間が長すぎて、頭がおかしくなったに違いない。


 でも絶対にそうだと言えるだろうか。そう言えるほど、私は雨宮のことを理解しているんだろうか——?


 思考がまとまらない。白い紙の上に垂らしたインクのように、ただただ拡散していく。

 雨宮の体温は少し冷たかった。いや、熱いのは自分だ。滅茶苦茶にやかましく脈打っている鼓動。それが、触れ合った部分から彼女に伝わってしまうのは、ものすごく恥ずかしかった。

 何か答えなきゃ。義務感にも似た感情が胸を焦げつかせる。「私も」とか言えるはずもなく。かといって拒絶もできない。そうしている間にもどんどん広がる染みの片隅で、「雨宮ってこんな声も出すんだ」とか、馬鹿みたいな言葉ばかりが浮かんでくる。

 そのうちインクの縁がぼやけて、境界が曖昧になる。

 一瞬にも永遠にも感じられる静寂の果てに、全てを赦すような優しい囁きが響いた。 


「おやすみ、晴海」


 ————うん、おやすみ。

 いつもより温かい微睡みの中へと。私は逃げ込むように意識を手放した。




 明け方目が覚めたときには、雨宮は部屋中のどこを探しても居なかった。




   *

   *

   *


 いつか、雨宮は知ってしまったんじゃないだろうか。


 自分の中では、誰かを好きという感情が共存できることに。

 ——まさか性別の壁を越えていたなんて思いもしなかったけど。

 雨宮にとっては私も八雲も遠藤さんも大平さんも島田さんも、同じように『好き』なのかもしれない。


 だとしたら、あれは本気の告白だったと捉えるべきなんだろう。


 私は、どうしたい——?

 だって、女同士だ。


 雨宮が与えてくれた保留という選択。それは本当に正しかったのだろうか?

 あのとき心に広がったインクの染みは、まだ消えずにそこにあった。


   *

   *

   *




 ここ数日、仕事に身が入らなかった。帳簿をつけ間違ったり、コピーを頼まれた資料をプリンターの代わりにシュレッダーにかけたり、テンプレみたいなミスばかりを繰り返した。

 そしてついに、やってしまった。予算申請書類の処理漏れ。申請元は、よりにもよってデザイン部の菅田部長のところである。

 まさか半日もお説教で終わる日が来ようとは思わなかった。デザイン部のブースにのこのことやってきても、あの鈴を鳴らすような笑い声は聞こえてこない。

 ——そんなに喚きたいなら、私の地元にある鋸山なんて勧めですよ。

 なんて切り返しをする元気があるわけもなく、部長を背中から突き落とす妄想をしつつ、ありがたくサンドバッグに甘んじたのだった。




   ***続く***

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