その5


 スカイツリーにあるすみだ水族館には、休日だというのに案外すぐに入場できた。十分くらいは待ったけど、そのくらいなら電車の待ち時間と大差ない。

 館内を歩いている最中、雨宮が私の腕に絡みついてくる。歩きにくいことこの上ない。あと、胸がぐいぐい押し付けられて、言いようもない劣等感を味合わされ続ける。


 クラゲの水槽の前で足を止めた私に、雨宮は嬉々として話しかけてくる。


「晴海はクラゲ好きだもんね」


「まあね」


 私は素っ気なく答える。

 ——潰れて、伸び上がって、また潰れる。そんなクラゲの様子を見ているとごちゃごちゃした思考がどこかに飛んで、空っぽになる。


「どこが好きなの?」


「うーん。ふよふよしてるところかな」


 水中を目的もなく漂う。部屋でぼーっとしていることが多い私は、共感しているのかもしれない。

 なんてことを思っていると——不意に、花が咲くように楽しげな女の子の声が聞こえてきた。


「せんぱ〜い! クラゲですよクラゲ」


「はいはい。見えてますよ」


 私達と同じように腕を組んだ、仲の良さそうな女の子二人が歩いてくる。

 そのうち小柄な子と目が合った。首には本格的な白いカメラを提げている。彼女は私達を見て、春の日向のように微笑む。


「お二人の写真、撮りましょうか?」


「あ、えっと——」


「きゃぁ。かわいいね、貴女。お願いしますっ」


 咄嗟のことに躊躇う私の隣で、雨宮が嬉しそうにピースサインをした。


   *

   *

   *


 同居生活史上最大のトラブルは静かに起こった。

 それは降って湧いた災難のように、私は知らぬ間に巻き込まれていた。


 今回は「関係ないでしょ」とは言われなかった。


 うちのリビングの四角いテーブルを囲むのは、後輩の島田さん、雨宮、そして私。大平さんとの二股という罪状の下、原告(島田さん)と被告(雨宮)と弁護人(私)が一堂に会している。島田さんはさっきから俯いたままだ。


「今のうちに言っておきます。私はどっちの味方でもないんで」


「あ、裏切り者」


 雨宮の突っ込みは無視する。


「だから島田さんも気楽にしていいよ。——って言っても、ムリかも知れないけど」


 彼はぴくりとも反応しない。何を考えているものやら。雨宮がキレる前に——と、私が強めの語調で問い掛ける。


「で、島田さんの要求は?」


「いや、そのですね……」


 あー……。可哀想に。よりを戻したいと顔に書いてある。


「はっきりしないわね。————って、痛っ」


 今日はやけに尖っている雨宮の、丸っこい額を小突く。すごく不満げに私を見ているが、構っていられないので無視しておく。


「——雨宮。部屋に入ってな」


「なんでよ。これは私と島田君の問題でしょ」


 雨宮が眦を吊り上げる。


「だから言ってんの。お互い冷静になるまで離れてなさい」


 雨宮は当てつけるようにため息をつくと、すっと姿勢良く立ち上がった。

 そして島田さんを一瞥して一言。


「さようなら、島田君」


 雨宮はウェーブの掛かった茶髪を揺らして、リビングを後にした。

 可哀想な後輩の想いは、最後まで雨宮に振り回されて終わったのだった。


「はぁ。悪いね。あんなんだから、あいつ。本当に申し訳ないんだけど、ここは一つ——」


 私はそう言って、テーブルにおでこをぶつけるくらい低頭する。テーブルはひんやりとしていた。島田さんは若干引いているかもしれない。何で私がこんなに真剣に謝ってるんだろう。

 島田さんはしばらく何かを考えているみたいだったが、やがて口を開く。


「晴海先輩は、雨宮さんの何なんすか?」


 そう、そこが自分でもよく分からない。私は、雨宮の何なんだ?


 ——間女になるんじゃないよ。

 いつかの早川の台詞が頭の中でリピート再生される。


「んー。ルームメイト?」


 結局口にしたのは、私と雨宮の間にある事実。

 島田さんが目をぱちくりさせる。おや、可愛い仕草——なんて。男に向かって言う台詞じゃないので口にはしないでおいた。雨宮が気に入ったのは、きっと彼のそういう所なんだろう。


「——まあ、そんなわけだからさ。ゆっくりでいいから、あいつのこと、諦めてやってくれないかな。部署は違うからあんまり会うこともないだろうし」


 彼はまだ微妙に不服そうだったが、渋々といった様子で頷く。これもパワハラに当たるのかな。訴えられたらやだなぁ……。そう思うと、ちょっと憂鬱になった。




 島田さんを玄関で見送ってから、私は雨宮の部屋に前に来る。

 扉に掛かったプレートは、雨宮の丸っこい字で『いるよ』と書かれた面が表になっている。律儀なことで。


「入るよ、雨宮」


 返事はない。

 雨宮は部屋に鍵を掛けない。私は軽くノックしてから、ドアノブを引いた。

 もうこれで何度目だろう。


「——何度も言うけど」


 見かけに似合わず家具の少ない、暖色系でまとめられたシンプルな部屋。


「泣くくらいならしなきゃいいじゃん。二股なんて」


「————うっさい……っ」


 隅っこに置かれたベッドに突っ伏して、雨宮は嗚咽を押し殺して泣いていた。




 雨宮が落ち着いてから、二人で近所のファミレスにやって来た。こういう時は食べるに限る。

 私から雨宮に色々言ってやりたいこともないわけじゃないが、落ち込んだ彼女に免じて今日は飲み込もう。そうなると、——やっぱり食べるに限る。

 

「雨宮は結婚願望とかないわけ?」


 雨宮も私も今年で二十四歳。結婚はまだ先かなと思いつつも、それを視野に入れた恋人くらいいてもいい頃合いだ。


「そうね。ウェディングドレスには憧れるけど。結婚してまで誰かと一緒にいたいかっていうと、そんなことないわね」


「誰かと一緒じゃない雨宮を見たことがないんだけど?」


 雨宮は吹き出した。


「可笑しい。なによそれ」


 冗談じゃない。そのおかげで、私は割と迷惑しているのだ。


「結婚するとなったら話は別よ。だって、気持ちはうつろうものでしょう?」


 なるほど。大変冷めていらっしゃる。

 いや、むしろ情熱的なのかもしれない。私なんかよりずっと。


「そりゃ、あれだよね。相手が途切れたことない人の台詞ですわ」


 彼氏いない歴が今年で五年を数えた私には、ちょっと想像し難い。

 大抵の人は自分の出会い——モテ期と言い換えても良いかも知れないが——は、有限だと思っているし、私もその通りだと思う。その中で、一生のうち一番長い時間を添い遂げることのできる相手は、一人だけ。お国柄とか文化とか、そういった背景はあるにしても、私たちはそう信じ込んで生きている。それが社会の定めたルールだし、円満な共同生活を営むためのお約束みたいなものだ。皆それを守るために、互いの気持ちを繋ごうと努力する。でも逆に言えば、どちらかが裏切るだけで簡単に壊れてしまう程度には、脆い関係なのだ。


 ご多分に漏れず——、大学時代に付き合っていた彼氏は、とある男に鞍替えしたのだった。


「雨宮は独りになることが怖くないの?」


「そんなの怖いに決まってるじゃない。じゃなきゃ恋人なんて作らないわよ」


「作り過ぎだってば。いつかツケが回ってきても知らないよ」


 そのあたりは本気で心配しているつもりだ。仕事も家事もそつなくこなす雨宮だが、こと恋愛に関しては危なっかしすぎる。しかも大体が雨宮のほうに非があるのだから手が付けられない。

 雨宮はその愛嬌のある瞳で、私をじっと見ていた。目尻に残る泣き腫らした跡が痛々しい。


「はぁ。こっちはあんたが新しい彼氏作る度に、ハラハラしてるってのに」


 そして、決まって最後に雨宮の涙を見るはめになるのだ。相手を選ぶのも実際に付き合うのも雨宮。結局私にできることは、こうして愚痴に付き合うか、見捨てるか。そのくらいしかないのかもしれない。同居人の私にとって、それはちょっと辛いジレンマらしいのだ。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、雨宮は鈴を転がすような声で笑う。


「大丈夫よ。今のあたしには、晴海がいるもの」


 ええ————。

 まだ付き合わせる気ですか。というか、私が結婚しても付いて回るんじゃなかろうか。

 本日の一番嬉しくない一言が決定した瞬間である。


   *

   *

   *


 ちなみに、島田さんのことは八雲に任せることにした。

 八雲は相手の性別に関係なく気が利く良いやつだ。同じ営業部所属だし、島田さんの傷が癒えた頃に上手いこと合コンなんかをセッティングしてくれるだろう。悲しみはいつまでも続かないものだ。

 そう、この世は諸行無常。人は忘れていく生き物なのである。


 心から願う。もうこんなトラブルは起きませんように、と。




   ***続く***

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