paint #1
***凛咲***
「ようやく二人きりになれた」
その一層低い声音は私の心臓を容赦なく鷲掴みにした。
ぶわっと背中から冷たい汗が吹き出す。肌にまとわりつくような熱気のせいだけではないだろう。
「ここなら誰にも邪魔されないわね」
目の前で腕を組んで仁王立ちしているのは浴衣姿の先輩。
橘にいた頃を彷彿とさせる、目が覚めるような臙脂色に濃紺色の帯のコントラストが眩しい。柄は白い桜の花。線だけで描かれたものと塗り潰されたもの、それぞれが五枚の花弁を大胆に広げて、生地の上を踊っている。
胸元にかかる長く艶やかな黒髪に、日本人離れした曲線を描くシャープな顔立ち。今日何度目だろう、こんなときだというのに、その立ち姿にまた惚れ惚れしてしまう。
その隙に先輩が下駄を履いた足でにじり寄ってきて、あっという間に私は壁際に追い込まれる。体重を預けた厚い板はぎしとも言わない。
ふわっと柑橘の甘い香りが立ち込めた。苦笑混じりに告げられた「課題に思いの外てこずってね、二徹明けよ」という本人談とは裏腹に、視線は隈ひとつなく冴えきっている。射竦められた私は肩を強張らせて立ち尽くすより他なかった。
「今日は逃さないわよ。りさちゃん」
掴まれた心臓はもがくように、血液を吸って吐いてを繰り返す。心音が耳にこだまして、先輩の声が遠い世界から聞こえてくるよう。
「江ノ島で何をしてたの?」
びくっと肩が震えた。先輩はそれを見逃さなかったようで、さらに深く眉間にしわを刻む。まさかお咎めなしで済むと思っていたわけではないけど、ちーちゃんのお見舞いのときにはスルーされたから、完全に油断していた。
「別に龍さんに聞いてもよかったんだけどね。私はりさちゃんの口から話してほしい。りさちゃんの人生に関わることだってのは察してるつもり。だからもちろん、無理強いはしないけど、そうだったら——」
先輩は、なんでもないことのように、軽く微笑みかけてくる。
「うん。悲しいかな」
この先も付き合っていくなら、いつかは打ち明けることになるだろう。そうでなくとも、ちーちゃんの保護者に対しての説明責任というものが、私にはある。
私を初めて恋人だと言ってくれた人を悲しませたくない。でも、重荷にならないだろうか。だって、これは私たち家族の極めて限定的な問題。そして、個人的なアイデンティティの問題だ。
もし、間違いだと否定されたら——。
——私なら——飛び込んでから考えるかな。
鼓動がやかましい。
怖くても、私は、先輩の隣に立つのにふさわしい人でありたい。
肩を膨らませて深く、呼吸を整える。
「少し、長い話になります——」
姉が目覚めて以来、部屋で何度もリハーサルした説明をする。
かつて、凛咲と咲季という双子の姉妹がいたこと。咲季のせいで凛咲が傷つき、意識不明になってしまったこと。その咲季——妹こそが、現在凛咲と名乗っている私であること。江ノ島でちーちゃんに支えられて、その事実に向き合えるようになったこと。
「そう、お姉さんは目が覚めたのね。よかったわ」
「はい」
先輩は顎に手をやって、目を合わせ頷き返しながら話を聞いてくれた。結びまで一切私の言葉を遮らずに。
「いいの、戻ってきちゃって。付きっきりでいたいでしょう?」
「いいんです。私には何もできませんから……。それに、毎週お見舞いには行きます。今は先輩の側で、橘でいろんなことをして、見たこと聞いたことを病室から動けない姉に教えたいんです」
「それが、りさちゃんなりのやり方なら、私は応援する。ええ、きっと今日のお祭りも素敵なお土産話になるわ」
この人の言葉は力強い。そして、嘘がない。
肯定されると、胸のあたりが温かくてむず痒くなって、自分はこれでいいんだと信じられる。
——だから、信じる。
一番怖い質問にだって、真摯に答えてくれるものだと。
「先輩は、どっちがいいと思いますか? 私が凛咲か、咲季か」
「どっちでも」
先輩は一切躊躇わずに答えた。
頭につけたかんざしの玉飾りが陽光を反射する。
「冷たく聞こえたらごめんなさい。でも、本当にそう思ってるのよ。あなたが、りさちゃんでもさきちゃんでも、あなたと出会って過ごした時間の積み重ねが、私にとってのあなた。ここにいるあなたなの」
つ——っと、頬を水滴が伝った。
以前、ちーちゃんにも同じ質問をして、言い方は違えども同じ答えを贈ってもらった。それはずっとしまいこんでいた私の心を眩く照らしてくれる光。だけど、先輩の言葉はそれに留まらない。胸の底の深い深いところに染み渡って、心の小部屋の隅っこ——凛咲であろうとした幼い咲季に手を差し伸べてくれるようだ。
「よか……よかった。先輩に話せて、よかったです……」
先輩の人差し指が、私の目尻から涙を掬いとる。切れのある眼を糸のように細めて、にこりと優しく笑いかけてくる。
「——で、いちかとは?」
「え?」
完全にふいをつかれた。涙が一瞬で干上がり、いよいよ首筋まで冷や汗が伝う。とげのある口調に込められた、後ろめたい何かを隠していることを確信している響き。間違いじゃないと言い聞かせてきたけど、こうして先輩を前にすると良心の呵責を感じないわけにはいかない。
何も答えない私に業を煮やしたのか、先輩は詰問するように耳許で囁く。
「連れ出しておいて、何にもしませんでしたじゃ済まさないわよ。それだけのことがあったんだもの。私には想像し難いけれど、そりゃ自分自身のあり方が心細くもなると思うわ。ねえ、寂しがりやのりさちゃん?」
先輩は妖艶にしなを作って、私の濃紺色の生地に薄雲色の百合の花弁が描かれた袖を掴む。合わせた胸から、どきんどきんと早鐘を打っているのが伝わってしまう。
当然ながら、こっちの話題はリハーサルなんかしていない。やらかしたことと言えば、不貞もいいところ。何をしたと釈明するほどにはしていなくて、何をしなかったとしらばっくれるにはやり過ぎている。この件を端折って説明するためにリハーサルしたのだろうと詰められれば否定はできない。我ながら浅ましいにも程がある。
掴まれていない方の袖で口許を押さえる。
「——キスを、しました。ちーちゃんと」
「ふぅん」
背筋を伝う汗も凍らせるような一声。あまりの緊張に、膝から崩れ落ちそうになる。先輩の冷めた表情が鼻先に突きつけられた。
「心変わりしちゃった?」
「——っ! 違います——っ」
先輩の一挙手一投足に一喜一憂する。緋色のふっくらした唇にどきどきする。これが恋じゃないというのなら、私には一生恋愛の星は巡ってこない。
私が恋をしているのは、間違いなく先輩ただ一人だ。
「そうじゃ、なくて……」
「うん」
「私はもう咲季を覚えてないんです。ちーちゃんだけが、咲季を知ってる」
ちーちゃんを介して、今にも消えてしまいそうな咲季という存在を証明する。あの口づけの意味は、それ以上でもそれ以下でもない。
いや、それも本質じゃない。私はただ、咲季を、ちーちゃんを繋ぎ止めたいんだ。ちーちゃんが幼い頃の咲季に抱いている感情を利用してでも。彼女の前にいるときだけ、後ろ向きに躊躇いがちな自分を脱いで、私が切望するものを貪ることを赦されるから。
「いちかはさきちゃんじゃないわ」
「そんな、こと——っ」
——分かってます。
そこから先の言い訳が音になることはなかった。
先輩は舌をちょこんと出した口を近づけてきて、吸い寄せられるように唇を合わせる。
たぶん、三十秒はそうしていたと思う。
唇が開放されて、私はぷはっと大きく息を吸う。
先輩の顔はまだ鼻先にある。
「今は何を言っても仕方ないわね。キスなんて国境を越えればそう大したことじゃないかもしれない。でも、どんなに深い事情があっても、私はそれを快く思わない。とだけ、はっきり言っておくわ」
「はい……」
「腹が立つから、これからじっくりたっぷり上書きしてやる。七月は毎日会いましょう。しばらくは、それで我慢してあげるわよ」
冷ややかな、取りつく島を片端から踏み砕くような態度は打って変わって、先輩は拗ねた子供のような口調で呟いて、私から離れる。
「それと、元気になったらでいいから、ちゃんと紹介してよ」
「え?」
「お姉さんのことを、よ」
言われて、病室のあの子の顔が浮かぶ。二つの眼を開けて、私をしっかりと見つめている、あの子。
「私はやっぱり、りさちゃんのことならなんだって分かっていたいのよ」
「——約束します。必ず」
背筋をぴっと伸ばして浴衣に身を包む先輩は、一枚の完成された絵を見ているようだ。
私は彼女に遅れないように小走りで追いつき、指を絡め合わせて手を繋ぐ。それで許されるなんて思わないけれど、受け入れてくれた手のひらの温度に安堵する。
長話になってしまったので、みんな待ちくたびれているかもしれない。待ち合わせは私たちのいる喫茶『壱月亭』から商店街の向こう、駅前広場のドームに飾られた大きな笹の下。緑溢るる銀杏並木から待ち合わせ場所へと、二つの下駄の音を揃えて鳴らしながら先を急ぐ。
***続く***
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