interlude:宮古いちかについて
記憶《いちか》
————その言葉は、あたしの世界に花を咲かせた。
昔からすぐに泣く子だった。
幼稚園でも一番小さくてとろかったあたしは、いつも誰かにいじめられて。事あるごとにわんわん泣いていた。
そんなあたしに手を差し伸べてくれたのは、三つ年上のお姉ちゃんと同い年の従姉妹。二人の側にいるときは泣かずにいられた。だから、いつだって後ろをくっついて回っていた。
——この関係がいつまでも続くと信じて、疑いもせず。
当然、変化はすぐにやって来た。小学校に上がってまもなく。
幼稚園の中では四六時中一緒にいた従姉妹と、初めてクラスが分かれた。しかも運が悪いことに、見知った子はあたしをいじめていた子しかいなかった。
そんな状況になっても、頼りになる従姉妹はあたしを庇ってくれようとした。けれど、男女の区別を意識し始めた多感な子供にとって、同い年の女の子のピンチに駆けつける『男の子みたいな女の子』という絵は好奇の的になってしまった。
周囲から茶化されるのを、従姉妹が嫌がっているのは明らかだった。それが幼心に申し訳なくて、次第に自分から別行動をとるようにした。クラスが違うと驚くほど情報は伝わりにくくなるもので、あたしが黙っていれば彼女に知られることはない。
お姉ちゃんとはそもそも学校で会うこと自体がほとんどなかった。小学生にとって三学年の壁は絶対的だ。
——そんなこんなで気づけば一人になっていた。だからといって、あたしの中から簡単に泣き虫がいなくなるわけもなく。
放課後は、近所の小さな庭園に逃げこんで声をあげて泣いた。薄紅の雲のような桜に包まれた、花びらまみれの桜の園。
そして、あの子に出会った。
「どーしたの?」
「ないてばっかりだと、はとさんが、にげてっちゃうよ」
べそをかくのを止めないあたしに愛想を尽かしたのか、女の子はそれっきり黙ってしまった。
——見放されちゃったのかな。
おそるおそる顔を上げると、手には大きなスケッチブック。
その子は短くなった水色の色鉛筆を握って、涙の色であたしを描いていく。
色から滲み出る寂しさからか、それとも泣いている自分を意識したためか、あたしはさらに泣き出してしまう。
「りょうちゃんがいってたの」
女の子は絵を描き続ける。
「絵をかくことは、すきだよって、つたえることだって」
その子は空いている手で、あたしの手をぎゅっと握って、確かめるように力を込めてくる。ふにゃふにゃで温かい手だった。
「なみだはぜんぶ、絵のなかにしまっちゃお——」
女の子はくしゃりと笑いかけて、絵を描きながら物語を聞かせるように鼻歌を紡ぐ。声と共に伽羅色のミドルヘアが揺れて、頭のてっぺんに桜の花びらが舞い落ちる。
「わたしのことは、さっちゃんてよんでね。あなたの、おなまえは?」
「ぃ……ちか……ひっく……」
「じゃ、ちーちゃんね」
その間も水色の色鉛筆が紙の上を踊っていた。小難しい顔をした小さな女の子が雨の中を傘もささずに佇んでいる。
「よろしく、ちーちゃん!」
「ぅ……ぐすっ……んっ」
言葉にならないからせめて一生懸命頷いた。
女の子はもう一度、優しく微笑んでから、あたしが泣き止むまでずっと手をつないでいた。
「ちーちゃん、なんさい?」
「——ろくさい」
「わたしはななさい! いっこうえだね!」
その子は人差し指を一本立てる。
「いまからわたしたち友だちだよ!」
「うん——」
友だちという響きが言葉にできないほど嬉しかった。こんなに安心した気持ちになるのは、お姉ちゃんたちといる時間を除いたら初めてだった。
だから、だと思う。あたしもつられて顔が綻ぶ。
「——あ。ちーちゃんわらった! かわいいっ」
さっちゃんは色鉛筆を持ち替えた。それは春の日向のような、淡い黄色。涙色のあたしがみるみる晴れ渡って、明るく微笑んでいた。
それはまるで——、
「わぁ——わぁ! まほうみたい! さっちゃんの絵は、まほうの絵だよ!」
「はい。ちーちゃんもいっしょにかこう」
「うんっ」
あたしはランドセルからパステルカラーの折り紙を出す。ペーパーカッターを使って、それを花びらの形に切って、さっちゃんの絵に重ねて貼っていく。
「そんな色のかみもあるんだー」
さっちゃんは色鉛筆をあたしの手に握らせる。そして、代わりに青色の折り紙を一枚手に取った。
「わたしの色えんぴつと、ちーちゃんのおりがみ。とりかえっこしよう」
「——うん!」
それは本当に、魔法みたいな時間だった。あたしの人生初のコラボレーション。小さなスケッチブックで日向のように微笑む、花びらこぼれるブーケに飾られた女の子。
少し経って、すっかり葉桜になった桜の園で再会したその子は、あたしの顔も名前も覚えていなかった。以前より一歩身を引いて、自分のことを『りっちゃん』と名乗った。あたしはまたぼろぼろと涙をこぼしながら、『ぃ……ちか』と返した。
でも、そんなこと、絵を描いたらすぐにどうでもよくなった。この子は間違いなく、あたしと笑い合った『さっちゃん』だ。
ほんの数回で会えなくなってしまったけど。
——やくそくだよ。
最後の別れ際にそう言って、あたしの手に握らせてくれた藤色のトイカメラは、今でも大切な宝物だ。
泣いてばかりだったあたし。臆病で弱くて大切な水色を、あの日の絵の中にしまって。春の日差しの下で教えてもらった笑顔で、今度はあたしが『そばにいるよ』ってたくさんの人に教えてあげる番だ。
——それでいいんだよね、せんぱい。
***続く***
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