interlude:東萌黄について

夕《いとこ》


 四月九日 午後五時二十八分。


 春の夜気は冷たくて青臭くて、そのくせ、まとわりつくようなとろみがある。

 俺はサッカーボールをリフティングしながら、自宅までの道を歩いていた。すれ違う少年がキラキラとした眼差しを送ってくるものだから、つられていい格好をしたくなる。ボールをかかとで高く蹴り上げて、胸で受けて落とす。それを膝で三回バウンドさせる。なんてことない出し物だったけど、少年はしきりに母親に向かって歓声を上げていた。


 なんだか微笑ましくなると同時に、ふっと現実的に考える。

 ——結に化粧でも教えてもらおうかな。本格的なやつ。


 入学初日——女子サッカー部に迷わず入部して、練習に参加させてもらったのはいい。一年対二年の紅白戦で辛くも勝利したのもいい。しかし俺の高校部活ライフは、気の優しそうなマネージャーの発した「王子……」という一言で一変した。その呼び名は瞬く間に伝染して、一日目にして俺は女子サッカー部の王子様になってしまった。


「萌くんっ?」


 ふわりと日向のような空気が舞って、俺の目の前に少女が駆け寄ってくる。たちまち立ち込める、むせ返るほどの桜の芳香。


「ちーっ」


 家と家の隙間にできた細い道から出てきたのは、くしゃりとした笑顔を見せる少女。

 従姉妹で幼馴染の一人であるちー——宮古いちかだ。


「よかったぁ。一緒に帰ろうよっ」


 ちーの声は跳び上がるように弾んでいた。耳がちょっと上気している。なにかいい事でもあったんだろうか。

 前髪を押さえている三毛猫の髪留めに桜の花びらがついていた。俺はそれをつまみ上げる。


「桜の園。誰かいるの?」


「えっと、それがね——っ」


 ちーが鳶色の双眸で覗き込むように見つめてくる。なにがあっても絶やさない微笑を浮かべた、丸っこくて柔らかな顔が、背の高い俺に向かってうんと近づけられる。

 肩に落ち着かせていたボールが、てんてんと転がり落ちる。


「————やっぱり、もうちょっとだけナイショです」


「あんだけ溜めておいて、そりゃないよ」


 ちーはししっと悪戯っぽく笑って見せる。


「——もういい。自分で確かめてくる!」


 俺は桜の園に続く道に向かって歩き出す。その手がきゅっと握られる。立ち止まって振り返ると、ちーは夕陽を背にして、少し大人っぽく見えた。そんな彼女に、俺は心を掴まれてしまう。


「ねぇ、恋人ってなんなんだろうね」


「突然どうしたの?」


「萌くんならわかるかなぁ——と」


「だから俺は誰とも付き合ったことないってば」


 容姿からか性格からか、俺は女の子に人気がある。でも断じて、誰かと恋人になったことはない。それはちーも知っているはず。なのにそんな問いかけをしてくるなんて、どんな心境の変化があったんだろう。


「あたしは好きな人には、ちゃんと好きって言いたいな」


「——相手が好きって返してくれなくても?」


「好きのカタチはいっぱいあるよ。あたしはせんぱいが好きで、お姉ちゃんが好きで、——萌くんが好き」


 ——落ち着きなって。そういう意味じゃないから。

 我知らず、呼吸が浅くなる。ブラウスの中に着た体操着の背中に汗がにじむ。ちーが何気なく口にした『せんぱい』に気を取られる余裕もないくらい。俺は急ぎ足でボールを拾いにいく。


 この子は『好きのカタチ』が異なる相手にも、同じように好きと言い続けるんだろうか。それは場合によってはあまりに残酷で、場合によってはひどく自分の首を締めることのように思えた。


 彼女のファインダーの行方は、未だ桜色のかすみの向こうだ。




   ***続く***

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