hydrangea #1
***凛咲***
梅雨前線に先駆けて始まった長雨は、窓ガラスをこれでもかというほど叩いている。大粒の水玉が張り付いては、すぐに次の水玉とくっついて滴り落ちる。
先週の温泉旅行で見上げた晴天が奇跡だったかのように、四日連続のどしゃ降り。あの日の夕方に降ったのは、もしかして兆しだったんだろうか。
「書けたー?」
「もうちょっとです〜」
机に垂れた栗毛の向こうから、晴れ間の日向を思わせる、間延びした返事がかえってくる。
ちーちゃんと私は図書室の奥にある資料室に籠もって、来週から始まる図書室主催のイベント『紫陽花月間』に向けて、書籍を紹介するためのポップを描いている。L字のソファーのそれぞれの辺に腰掛けて、黙々と。
先日、古瀬山先生に任されたのは三枚。そこで、ちーちゃんセレクションを一冊と、私のを二冊紹介することにした。文章はそれぞれが書くことになっているけど、絵は分担だ。レイアウトと下絵を私が、仕上げをちーちゃんがすることになっている。
私は自分の担当である二枚の紹介文を書き上げてしまったので、何をするでもなく窓の向こうに視線を送る。薄いレースのカーテンと窓ガラスを隔てて、紫陽花の薄紫の輪郭がぼやけて映っている。
ポップの一枚目には、直木賞の候補に挙がっている有名作品を選んだ。ピアニストたちの葛藤と協奏の物語。重厚な筆致で描かれるピアニストそれぞれの苦悩と、コンクールでの情熱的な演奏が印象に残る、誰にでもお勧めできる一冊だ。
二枚目は、ちょっと冒険して、ファンタジー要素のあるライトノベル。吹雪に覆われた世界を旅する兄妹が、様々な人たちと出会い、心通わせ、ときに迫害されながらも、希望を求めて生きていく、切ない物語だ。
「書けた?」
「——書きにくいですよ」
私の懐で、ちーちゃんが不満げな声をあげる。
手持ち無沙汰になったせいで、ついうっかり——ちーちゃんの背後に立って、抱きしめていた。ほとんど無意識に。ぬいぐるみ感覚で、と言ったらさすがに怒られるかもしれない。
私の腕がちーちゃんの肩をホールドしているのだから、さぞかし書きにくいだろう。
「ごめんごめん」
私は身体を離して、隣に腰掛ける。
はがきサイズの台紙の右半分を、ちーちゃんの丸っこい字が踊っている。
三枚目は、ちーちゃん推薦。海外文学の翻訳本である。月曜日にちーちゃんに借りて、事前に目を通したけれど、丸一日かけて読み耽ってしまった。少女がジープに乗って世界中を巡る冒険譚——にみせかけて、中盤からは真実の愛とは何かという普遍的なテーマに挑んでいく。少女の機微に触れる繊細な描写が美しい作品だった。
普段、写真集や雑誌ばかりを読んでいるイメージを勝手に抱いていたから、ちーちゃんってこんな本も読むんだと、少しびっくりした。
「ん、できました。下絵、お願いします。素描は参考にしてね」
「ありがと。——こっちは塗りをお願い。下絵まで終わってるから」
「うん」
ちーちゃんと私は、お互いの台紙を交換する。
少女の全身と、走るジープの側面が素描されている。油性ペンで描かれた破線は、切り取り線かな。ついでに、ジープの軌跡に沿ってマスキングテープが貼られている。
何をしようとしているのか。今からわくわくしてくるけれど、出来あがってからのお楽しみにしておこう。
「やっぱり、せんぱいの絵はドキドキするな……」
ちーちゃんは私から受け取った二枚の台紙に目を落として、興奮したように呟く。本当に、ただの落書きみたいなものなのに。
「そうだ、画材は? 貸そうか——?」
「持ってますよ。ちょっと水汲んでくるね」
「——ごめんね。仕上げ、全部任せちゃって」
「あたしは、楽しいですよ」
ぎぃっと重たい音を立てて扉が閉まる。
空のバケツを持ったちーちゃんが出ていくと、後にはやかましい雨音だけが残る。先輩は今頃、大学で講義を受けているんだろうか。メッセージを送ってみようとスマートフォンを手にしたはいいものの、真っ暗な画面に映った自分と目が合ってしまう。
——『楽しい』を探す。
いつかのちーちゃんが口にした言葉を反芻してみる。
絵を描くなった——正確には『完成させられなくなった』のは、去年の夏のコンクールで入賞した後、冬が始まる頃だ。
『先輩』——それは楽しさを原動力に描きあげた作品。会心の出来だったし、内定をもらったときは心から感動した。だって、私にとって何よりも印象的だった瞬間——、あの先輩が、うっすら涙を浮かべていたんだから。
でも、次に筆を取ったときから、あの一言が頭をよぎるようになった。
『金賞がどうした。値段のつかない絵に価値はないと言っただろう』
それ以来、私は幻影に取り憑かれている。あの絵を超えられない——と、そう思う度にキャンバスを破り捨てて、スケッチを隠すようになった。
美術部を辞めて入部したシケンからも徐々に足が遠のいていき、そうこうしているうちに先輩の卒業を迎えてしまった。
今回だって、仕上げをちーちゃんに押し付けてお茶を濁そうとしている。
「……難しいな」
「分かりにくかったですか?」
びくりと肩が跳ねる。いつの間にかちーちゃんがソファーに座って、私の顔を覗き込んできていた。
「ああ、素描のことか。大丈夫だよ、描ける」
「なんでも聞いてくださいね」
ちーちゃんはリュックから円筒形の筆入れを取り出し、チャックを開ける。中に入っていた色とりどりの水彩色鉛筆。そこから使う色を選んで抜き出していく。
しばらく無言の時間が流れる。私は鉛筆を握りもせずに、彼女を見つめていた。
ちーちゃんの前では不思議と飾らなくていられる。思えば、ダメなところを散々見せてきた。だからかな——最初に話すなら、この子にしたいと思った。
「——聞いてもらっていい?」
「いいですよ」
下絵の線に沿って走らせる筆を止めずに、ちーちゃんが先を促してくる。
ゆっくりと、たどたどしくだけど、打ち明ける。絵を描くのが楽しかった頃のこと、楽しくなくなった日のこと————。
「絵ってね、描いてる人の心が伝わっちゃうんだ。遊んでるのか、迷ってるのか、縛られてるのか——。分かる人には、分かっちゃうんだよ」
先輩はきっと『分かっちゃう人』——彼女には私の心を隠すことができないという確信がある。他ならぬ描き手である私が、彼女を意識しているのだから自明の理だ。
もし、先輩に私の絵を、私の心を否定されてしまったら——?
「それが、どうしようもなく、怖い」
同時に思う。
違う。先輩はそんな人じゃない。
でも、否定しないことは失望していないことと同義ではない。口には出さなくとも、心の中でがっかりしていたら、私にとっては堪らないことなんだ。
「やっと先輩と恋人になれて、このままじゃダメなのに。手が、動かなくなっちゃうんだ。変だよね。絵を描くのが怖いなんて思ったこと、今まで一度もなかったのに」
目を瞑る。
描けなくなってから、ずっと考えていたことを吐き出した。最後はほとんど愚痴になってしまったけれど、こうして言葉にすると、いかに自分が後ろ向きなのかを思い知らされる。
口の中がからからに渇いている。目玉の裏が熱いし、耳がきんきんする。
「せんぱいは——……」
おもむろに、ちーちゃんが口を開いた。
そしてすぐに言葉を探すように首を振る。
「うん」
「——写真も同じです。撮った人がどんなふうに世界を見てるか、——伝えるの」
温泉旅行の写真を見せてもらった。
ちーちゃんは『人の動』を撮らえる写真家だ。彼女の写真からは、生々しい動き——先輩の華麗で大雑把な歩き方、詩織のたおやかな仕草、ヒワさんの躍動感に満ちた表情——が伝わってくる。そして、彼女のファインダーを通した世界には、溢れんばかりの笑顔がある。
「だから、みんな違う絵を撮れるし、描けるんですよ」
いつの間にか筆を置いて、こちらをしっかりと見据えていた鳶色の双眸を、見つめ返す。
「ちーちゃんは、撮るのが怖いって思ったことはない?」
「ありますよ。ううん、いつも怖いです」
それは、意外な返答だった。
天真爛漫を絵にしたような彼女でも、好きなことに対して恐怖を感じるのか。怖がっているのに、あんな写真が撮れるものなのか——、
「あたしはそれでも、伝えたいから撮ります。それがあの子に——、せんぱいに教えてもらったことだから」
その根底にあるものは、やっぱり揺るがなくて。
ちーちゃんはずっと、私に訴え続けている。
「せんぱいが怖がってるのは、お姉ちゃんに伝わらないことだよね」
「うん……」
「前にも言ったよ。絶対大丈夫って」
——もう、なんだろうな。
どんなことだって、ちーちゃんに言われると、できる気がしてきちゃう。
ちーちゃんは、彼女の撮る写真以上の——私の胸までいっぱいになるような微笑みを向けてくる。
「あたしの予感はだいたい当たるんです」
いくら考えたって、私の『楽しい』はここにしかない。伯父さん、先輩、詩織、シケンのみんな、そしてちーちゃん。今の私と、私との繋がりを形作っているのは絵をおいて他にありえないんだ。
————私も、
「塗ってみたい。ちーちゃんの、絵」
*
「失礼します」
図書準備室の開きっぱなしの扉をくぐる。
殺風景な部屋で私を見つめるのは、古瀬山先生と灰白色のロングヘアをした女子生徒——風間純だ。
純は入ってきたのが私と認識するや、冷ややかな目つきを向けてくる。
そんな彼女の脇を通って、古瀬山先生にポップを手渡す。
「これ、お願いします」
「おう」
先生の手の中には、ちーちゃんと私の連名が入ったポップが三枚。ピアノ、雪原——そして、煙と螺旋模様の切り絵を走る、カーキ色のジープと少女のイラスト。切り絵はちーちゃんが、イラストは私が完成させたものだ。
背後で、純が吐息をもらすのが聞こえた。
わずかな一歩だけど。少しだけ前に踏み出せたと、胸を張りたい気分だった。
***続く***
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