pair #1


   ***凛咲***




「失礼します」


 そう言って、私は図書準備室の引き戸を開けた。貸し出しカウンターの裏にあるその扉は立て付けが悪く、ガラガラと大きな音がして図書室の静寂を破ってしまう。

 カウンター越しに閲覧スペースの方を見やると、何事かと目を丸くしている女の子二人と視線が合った。たぶん一年生だろう。二年生にもなると、さすがに慣れっこなので誰も気に留めない。彼女たちに向かって両手を合わせるジェスチャーをしてから、準備室に入る。


 探していた人はすぐに見つかった。司書教諭の古瀬山先生だ。書類が平積みになったメタルラックが一台あるだけの殺風景な部屋の中で一人、机の上のパソコンに向かっている。


「古瀬山先生、こんにちは」


「よっ、今日も来たね」


 今年で三十九歳——伯父さんや招鬼さんの同級生にあたる短髪の女性教諭は片手を上げてこちらを向く。蔵書に伯父さんの、どちらかと言えばマイナーな写真集が揃っているのは、ひとえに彼女のセレクトだ。


「そろそろ修理したほうが良いですよ、扉」


「あはは、悪いね。いつもは開けっ放しなんだけど、今日はどうしても集中したかったんだ」


 両手を上げて伸びをしながら、古瀬山先生は気さくに言う。教師、生徒を問わずフラットな口調で話す彼女は、生徒の間でも話しやすい先生として人望を集めている。


「紫陽花月間ですか」


「うん。そのための蔵書管理をね」


 『紫陽花月間』とは、本校図書室が主催する梅雨の読書強化月間だ。図書委員がそれぞれお薦めの本をポップ付きで紹介するという趣旨のイベントで、去年は私も紹介文を書いたものだ。


「いつもの借りていきますね」


「ん、鍵なら宮古が持って行ったぞー」


 ——ちーちゃんか。そういえば今日は、一年生のコマ数が少ない日だっけ。

 それなら、まっすぐ資料室に向かおう。


「そうですか。ありがとうございました」


「おう、——っと、ちょっと待った」


 踵を返しかけたところで、古瀬山先生に呼び止められる。


「せっかくだから河内も頼まれてくれない? 元委員のよしみってことで」


 先生は、はがきサイズの白いパステル地の厚紙を三枚差し出してくる。それは『紫陽花月間』で掲示するポップ用の台紙だった。

 ちょっと前の私なら、申し訳ないと思いながらも断っていただろうけれど。


「はぁ——、それは構わないですけど。どうして三つも……?」


 去年は、一人一枚だったのに。


「河内の絵、人気あったからね。特別よ、特別。本もたくさん読んでるし、そのくらい描いてもらえると助かるんだけど。お願い!」


 もともと断ろうとも思ってなかったけれど、拝むようなポーズで頼み込まれたらやっぱり「いいえ」とは言えない。結局、台紙を三枚受け取って図書室を後にした。


 ——あの子は私がポップを描くことを知ったらどんな反応をするだろう。

 台紙が入った胸ポケットに手を当てる。今の私でも、このくらいのちょっとした絵なら描けるだろう。描けなくなる境界線は、それを『作品』にカテゴライズしてしまうかの問題だ。

 父の言葉はいまだに私の中に染み付いている。


 ——少しくらいは、嬉しがってくれるだろうか。

 図書室奥から繋がる渡り廊下の先——いつもの第七資料室へ向かう道すがら、やたら重く感じる足を機械的に動かしつつ、そんなことを思った。


 まだ記憶の表面にしこりのように残っている。

 ぎゅっと握りしめた手を胸元で震わせ、涙をこぼしながら微笑む少女。

 何がどうかと聞かれても、言葉にして説明はできない。嬉し泣きと言ってしまえばそれまでの話。ただ——、私がちーちゃんらしくないと思っただけ。

 昨夜は先輩の部屋に泊まったので、今朝は彼女たちと初めて登校をご一緒したのだけど、そのときには確かめられなかった。鼻歌まじりに話しかけてくるちーちゃんは、当たり前のように、萌黄くんと仲睦まじげに手を繋いでいた。




 そろっと重たいドアノブをひねる。ドアの隙間から資料室を覗き込んでから、忍ぶように足を踏み入れた。

 奥行きのある十畳くらいのスペースが伸びている。本棚の合間から見える、奥の窓際にはソファーに腰掛けた女の子が一人。単行本を読んでいる。逆光で陰が差した横顔を見つけて、安心したような逃げ出したいような微妙な気分に陥る。


 入ってすぐの場所で立ちすくんだまま、自分から声を掛けるのを躊躇っているうちに、


「あ、せんぱ〜い!」


 ちーちゃんが私に気づいて手をぱたぱたと振ってくる。


 ——あれ、意外と普通……?

 なんだか拍子抜けした気分だ。そんな気持ちの表れか、肩にかけたリュックがずり落ちそうになる。


「外、行きませんか? 今日はとってもいい天気ですよ〜っ」


 彼女の声を聞いていると、まるで日向ぼっこをしているような和やかな温もりに包まれる。

 そんな心地よさに浸る間もなく、


「わ、わかったから。カバン下ろすから、ひっぱらないでぇ!」




   *




 資料室から出ると、校庭はすぐ目の前だ。スカートの裾を翻す風に混じって、グラウンドを走る運動部の掛け声が聞こえる。私たちは邪魔しないようにフェンスで仕切られた外周を散歩する。


「ポップ、ですか?」


「うん。図書室のね、『紫陽花月間』っていうんだ」


「せんぱいが描くんですか!?」


 ちーちゃんは私を見上げて背伸びをする。胸元のカメラも勢いよく踊った。


「——うん。古瀬山先生のお願いだからね。仕方なく」


 私はフェンスの向こうに視線を泳がせる。ちーちゃんがあんまり笑顔だから、照れくさい。


「そっか、そっかぁ〜」


 広いグラウンドの半分を使っているのは、女子サッカー部。ちーちゃんの従姉妹である萌黄くんが所属する部だ。

 彼女を目で探していると、隣で乾いた音が響いた。ちーちゃんがいつのもの白いデジタル一眼レフのシャッターを切ったのだ。首にかけているのは、昨日私がプレゼントした猫と兎のストラップだ。早速使ってくれていると思うと、胸がぽっと温かくなる。


「描くって言っても、こんな小さい紙切れだよ」


「せんぱいが描くんだったら、あたしはノートの端っこでも嬉しいんですよ」


 その時、足元のフェンスががしゃんと大きな音を立てる。跳び上がりそうなほど驚いた、と思ったら——、ちーちゃんが本当に跳び上がった。


「萌くんっ!」


 少女の日向のような声が朗らかに響く。こちらまで飛んできて転がるボールを拾いにきたのは、萌黄くんだった。彼女は左手首にしたリストバンドで汗を拭って顔を上げる。


「ちー——と、凛咲さん。今日は同好会って言ってましたね」


「うん」


「せんぱいと散歩してるのっ」


 ちーちゃんの肩が、私の二の腕に軽く触れる。部活をがんばっている彼女を相手に、散歩って堂々と言い切られると、ちょっといたたまれない。

 萌黄くんは屈んでボールを拾うと、両足で軽くリフティングして見せる。


「これからミニゲームやるんだ。せっかくだったら見てってよ」


「見てるよ。楽しみにしてるっ」


「おす」


 萌黄くんはそそくさと背中を向けて、チームメイトの方に戻っていく。振り返るとき、気合を入れるように、ぐっと右手を握りしめるのが見えた。

 途中、彼女は足を止めて、ちーちゃんに呼びかける。


「そうだ! 迎えにいくから、待ってろよ。ちー!」


 ちーちゃんは小さくなっていく背中に、浮かれた様子で手を振り返した。


 それから、にわかに呟く。


「まだ、お姉ちゃんにはナイショですよ」


 ——ああ、くるなと思った。

 なんとなく、予感はしていた。だからこの前置きも含めて、予期していたものだった。ちーちゃんは後ろ手を組んで私に正面に回り込んでくる。


「恋人なんです、萌くんとあたし」


「そっか……」


 別におかしなことじゃない。従姉妹で幼馴染——私が知らないだけで、深く長い付き合いを重ねてきているのだろう。手を繋ぎ、指を絡ませ合う二人の姿は、恋人として、とてもふさわしいと素直に思える。

 なのにどうして————、

 ちーちゃんの無邪気な微笑が、ぎこちなく見えるのかな。


「せんぱいはどうでしたか? お姉ちゃんにプレゼント、渡したんでしょ?」


「う、うん……」


 改まって水を向けられると口籠ってしまう。でも、彼女には予告してしまったし、お膳立てもしてもらったのだ。報告するのは最低限の礼儀だと思う。もちろん、恥ずかしいけれど……。


「——恋人に、なったよ」


 春の甘い残り香を含んだ、爽やかな風がそよぐ。

 ちーちゃんの栗毛がふわりとなびいて顔を隠す。風のなか髪をおさえた彼女は、鼻先まで顔を寄せてきて、私の瞳孔の中を覗き込む。


「ね——、言ったでしょ」


「ん?」


「せんぱいはキレイだから、絶対大丈夫って」


 試合開始のホイッスルが鳴る。

 ちーちゃんはカメラを胸元に構えて、グラウンドに身体を向ける。


「ポップ、二人で描きませんか? あたしもコラボしたいっ」


「うん、喜んで」


 ——よかった。

 ほのかに感じていた違和感は、ようやくどこかに吹き飛んで、後には心から喜色をにじませた声音が残る。たかだか校内のポップに気負っていた私の気持ちも和らいでいく。

 この子と一緒なら、きっと描けるって信じられるから。




   ***続く***

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