piece #1
***初香***
五月二十日 午後零時***————!!
——やばい、どうしよう。
私の人生において最初で最後、最大のピンチかもしれない。
カーディガンを羽織るのも忘れて、寝巻きのワンピースのまま階段を駆け下りる。裾が足に絡みつくのがじれったくて、たくし上げて三段飛ばし。
「いちかっ!」
その勢いのままリビングに飛び込んだ。
しかし、目を凝らしてみても、あの可愛らしい栗毛は見当たらない。いや、それどころか——、
「えっと、おはようございます……」
迎え入れてくれたのは、控えめな落ち着いた声。動転した気持ちごと、耳を真綿で包み込むような温もりだった。
そこにいるのは、待ちぼうけをさせているはずの待ち合わせ相手。肩のあたりまでざっくりと伸びた伽羅色の髪をした少女だ。白地のワンピースに若葉色のカーディガンがもたらす春の色が、彼女の貞淑な雰囲気をいっそう引き立てている。
「り、りさちゃん……? どうして——」
後輩は読んでいた文庫本をテーブルの上に置くと、キッチンに向かっていく。
裾をまくり上げたままだったのに今更気づいて、一人で赤面する。寝起き姿を見られてしまった。
「先輩は座っててください。お味噌汁出しますから」
「はい」
待っている間に記憶をたぐる。りさちゃんからデートのお誘いをもらったのが、昨日。九時に駅前で待ち合わせる予定になっていた。スマートフォンを見る。十二時——七時に目覚ましをセットして眠ったはずなのだが、いつの間にかオフになっている。何度も確認したはずだから、絶対おかしいと言い切れる。
目の前で湯気を立てている味噌汁は、ほぼ間違いなくいちか作だ。最近かぼすブレンドにハマっているので、香りでわかる。
——ということは、だ。
ここは私の家で間違いない。いちかは普段通りに起きて朝食を作り、朝に弱い私を起こさないように仕向けてどこかへ出かけた。お客さんであるりさちゃんを残して。
この一件の主犯はいちかだ。目覚ましの時間をいじることができたのは、彼女しかいないのだから。
「そんなに難しい顔して、どうしたんですか?」
「りさちゃんもグルよね……?」
「あ、えっと……、何のことでしょう?」
にこやかに近づいてきた彼女は、急に明後日の方向へ目を逸らす。むず痒そうな口許はキュートだったけど、何か隠しているのは見え見えだった。
「あなたにそーいう嘘は無理。顔に出ちゃうもの」
「いえ、本当に——」
「いちかだって、あなたに隠しなさいとは言わなかったでしょ?」
「——はい、確かにそうですね」
怒られた子供のようにしゅんと肩をすぼめるりさちゃん。記憶している限り、彼女がこうした悪戯に乗るのは滅多にないことだと思う。いちかと出会ったのが多分に影響しているんだろうか。
「すみません……」
「怒ってないわ。起きた瞬間は、ちょっと、泣きそうになったけど」
少し当てつけるような物言いになってしまった。
——いけないいけない。
あらためて、どれだけ自分に余裕がなかったかを実感する。
「よし、始めちゃいましょうっ」
りさちゃんは切り替えも早く、にわかにカーディガンの袖をまくって、いちかのものである萌黄色のエプロンをつける。
「何を——?」
「ちーちゃんは戻ってきてないけど、許してくれると思います」
彼女は私に説明もなく、背中をぐいぐいと押してリビングを追い出す。よく分からないけどさらに泣きそうになってきた。
「着替えててください。すぐに準備しますね」
「あ——。う、うん」
リビングの扉が閉められる。念押しとばかりに鍵まで掛けられた。
こんなに強引なりさちゃんは初めて見た。
フラワープリントのロングTシャツと鶯色のガウチョパンツに着替えて、リビングに戻ると、テーブルの上は所狭しと料理が広がっていた。
バジルの香るトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ、断面が綺麗なピンク色のローストビーフ、チーズとろけるチキンのトマト煮込み、ふつふつと沸いたきのこのアヒージョとバケット、デミグラスソースたっぷりの半熟卵のオムライス。そして、中央にはシンプルな苺のショートケーキ。熟した苺が惜しみなくのったホールの中央には、吹き出しの形をしたチョコのプレートが飾ってある。
『Happy Birthday!!! 先輩・お姉ちゃん・姉ちゃん』
——りさちゃん、いちか。モエまで……。
「ケーキは、みんな揃ってからですね」
悪戯っ子たちに苦笑する私の傍で、かすみのかかった声が楽しむように揺れ動く。りさちゃんは私を席に案内すると、自分はその隣に座る。
「でも、お料理一口くらいは——」
彼女はスプーンを手に取り、その先をオムライスの卵に通す。柔らかい卵がソースと混ざり合ってマーブル模様ができる。
「先輩、お口開けてください」
促されるまま、私はオムライスを口にする。
見た目通りに丁度いい半熟具合の卵と、濃厚なデミグラスソースに絡んだご飯が、口の中に幸せを運んでくる。
「——ん。……おいしい」
「よかった。私が作ったんですよ、オムライス」
ふいに、きゅうっと切なくなる。私の心臓はこんなに弱かったのかと、いつも面食らってしまう。
彼女は口角を広げて笑いかけると、私の肩に身体をもたれる。
「実は、先輩に協力してもらいたいことがあるんです——」
どうやらこの子はもう一つ悪戯を隠しているらしい。それを聞いた私は——、なんともりさちゃんらしいと思った。
*
二人で窓際のソファーに座る。料理はいちかと萌黄が戻ってきてからと、テーブルにはフードカバーをかけてある。りさちゃんは文庫本に真剣に見入っている。かたや私は見るともなしに旅行雑誌を開いていた。
最初の頃はこの沈黙ひとつが気まずかった。対応を誤ったら壊してしまいそうな脆すぎる危うさがあったから。
先に破ったのはりさちゃんの方だった。
「あの————」
「ん?」
「キャンプでは、すみませんでした……。あんな——」
「謝られることなんかされてないわ。——私はきっと、身近な人に説明をするということが足りていないのね」
キャンプの帰り道、りさちゃんは一言も口を開かなかった。痛々しいほど握り締めた拳に、どれほど深い自責を抱えていたんだろう。私は手を差し伸べることができなかった。
りさちゃんの不揃いな前髪をかき上げて、露わになった白い額に自分の額を重ねる。つと間近に感じられる息遣い。
「留学は辞めたの。今は、この家から大学に通ってる」
「それって……」
「りさちゃんのせいじゃない——は、きっと半分嘘。話をもらった時ね、本当はあなたが寂しい想いをするくらいなら、離れようと思った。だけど結局、どっちもできなかった」
「留学は、諦めちゃうんですか……?」
口許に不安げな吐息がかかる。なんとなく分かってしまう。りさちゃんは自分が、私の枷になることを極度に恐れている。一年余りの付き合い、どれほど彼女がこの関係を確約して欲しかったことか。私はそれに気付いていた。
でも、それは私も同じだった。常識は多数決の産物。非常識でいることだって選べるし、ものによっては覆すことだって可能だ。しかし、自由とは往々にして、相応の責任を負うもの。私はともかく、りさちゃんにマイノリティの枷を嵌めるのが正しいことなのか、ずっと決めかねていた。
「考え中。それに、旅行サークルには入ったから。日本に行ったり海外に行ったり、毎週一緒ってわけにはいかないと思う。でも、できるだけ一緒にいるからね」
私は彼女に対して、大げさっぽく聞こえないように、軽く声を出して笑って見せる。果たしてどう映ったか。表情を確かめるより先に、腕を腰に回して抱き寄せる。ふわりと鼻腔をくすぐるのはバニラの香り。
「私はあなたに恋をしているわ」
それは、彼女があの絵を描き上げた瞬間に伝えたくて、——伝えるべきだった一言。ああ、本当の私はとても臆病だ。だって、一年近く温めた言葉を告げただけなのに、こんなにも鼓動が耳に痛い。
「よかった。私も、先輩を愛しています」
りさちゃんの濡れた声に唇を軽く合わせてから、強く抱きしめる。小学校時代にクラブ活動を盛り上げた時よりも、高校時代に交換留学を復興させた時よりも、今この瞬間こそが得難いものだと信じられる。
りさちゃんの絵は本物だ。言葉を失うほどに。
私には絵も写真も、スポーツもない。こうして言葉を一つ一つ積み重ねて、一歩一歩不器用に近づいていくしかないんだ。どんな想いも言葉にして、二人で悩みを解いていくんだ。
この
***続く***
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