shot #1


   ***凛咲***




 洗い物をしていると、約束の十時ぴったりに玄関のチャイムが鳴った。


「伯父さん、お願いっ!」


 リビングのテーブルにノートパソコンを広げて書き物をしている伯父さんに、キッチンから大声で呼びかける。仕事に没頭していて、チャイムが聞こえなかったようだ。私の声にはっと顔を上げる。


「——はいはい、っと」


 彼はスリッパをつっかけると、煙草——の代わりに咥えていたラムネシガレットをばりばり齧る。私が居候を始めて以来、「家では一本まで」が信条だった。禁煙にしないあたりがこの人らしいというか。

 ぱたぱたとスリッパが駆けていって——、


 まもなく玄関の方から賑やかな会話が近づいてくる。


「そっか、ちーちゃんはPENCILなんだ。ファインダーがクリアなのがいいよね」


「はいっ! シャッター音もアナログちっくで気持ちいいんですよっ」


「わかるっ。ついこだわっちゃうんだよねぇ。俺もメインで使ってるNifonのやつ、シャッターで選んじゃったよ。——あ、そこ掛けて」


 伯父さんはちーちゃんをリビングに案内する。ひょこひょことなびく栗毛がちらっと目に入る。

 カメラマン二人——延々と語っていられそうな様子だったので、ちーちゃんには悪いけど昼食の仕込みもやってしまおう。

 彼女たちはしばらくシャッター音について意見を言い合っていたけれど、


「ん、これね。すごい、綺麗にしてある」


 それに重ねて、きゅきゅっとサインペンが高い音を鳴らして走る。ちーちゃんのくすぐったそうな吐息が漏れ聞こえる。

 私はなんとなく息を殺して、蛇口を捻って水を止める。


「——じゃ、いい?」


 伯父さんの声と共に、リビングから衣擦れの音がする。


「——はい。これ、ちょっと照れますね」


「恥ずかしがることじゃないよ。ちーちゃんは、小柄で細いし、可愛いね」


 ぱさりと布がフローリングに落ちた。


「——どうぞ。お願いします……」


 じっくりと間をおいて、少女がもじもじするように答える。


「せーの————」


「ちょっと待ちなさいっ!!!」


 私は昼飯の仕込みを中断してリビングに怒鳴り込んだ。


 迎え入れたのは——ぱしゃりと、二つの軽快なシャッター音。


 椅子に掛けてくつろいでいた二人は、けろっとした表情で私を見つめる。いつもの三毛猫の髪留めをつけたちーちゃんの手には白いデジタル一眼レフ、伯父さんの手には山吹色のフィルム一眼レフ。それがお互いに向けられている。

 テーブルの上には白い箱とサインペン、そして文化写真家・河内龍の第三作『love let’ter』——恋にまつわる写真を集めた大判本だ。

 少女の足元には、生成りの布製リュックが開け放たれていて、中にはカーディガンと絵の具の付いたエプロンが見える。

 徐々に何が起こっていたか想像できてくる。


「おはよう、せんぱい」


「なんで怒ってるのよー」


 伯父さんは呆れた眼をして、ショートモヒカンに固めた伽羅色の短髪をばりばりと掻く。刈り込んだ後ろ髪は眩しいくらいの緋色だ。


「あ、ちーちゃんの写真、凛咲がベタ褒めしてたよ。『私ももっと撮って欲しい』って——」


「そんなこと言ってないっ!」


 適当なことを言う伯父さんを嗜める。

 語調がうっかり荒くなってしまうのは、別に二人の会話から変なことを想像したとか、伯父さんがいきなり『ちーちゃん』呼びになっているとか、ちーちゃんの日向のような笑い声の温度がいつもよりちょっと高めだとか、そんなことを気にしているなんて断じてない。


 ふいに、ちーちゃんがこちらに歩いてきて、私の手を取る。


「あはは、冷たっ。手伝いますよ」


「うん、ありがとう。もう少しだから、お願いするね」


 ちーちゃんの鳶色の瞳がきらきら光を放つ。ちょっとはしゃいでるのかな。声だけじゃなく、手から伝わる体温もいつもより高めだ。

 今日の彼女は若葉色のタンクトップにブラックデニムのオーバーオール姿。そのだぼっとした裾から、斜めに白と紺のストライプが入った靴下が覗いている。私服姿は初めて見たけれど、なんというかイメージぴったりだ。


「じゃ——、俺はアレ持ってくるよ。ちょっと待ってね」


 伯父さんはそう言うと、二階の部屋に上がって行った。


「さぁ、やっちゃおう」


 思わず背筋がぴんと張ってしまったのを、ちーちゃんに気取られないようにごまかす。アレについては、もう少しだけ内緒だ。

 私たちは手分けをしてお昼のローストチキンと炊き込みご飯の準備を片付けることにした。


「——伯父さんと、何してたの?」


「サインをもらって、それから——撮りっこですよ。普段カメラを持ってる自分を正面から撮られることなんてないでしょ? 龍さんが面白いって教えてくれたんです」


「あぁ……、そういうこと」


 身内から犯罪者が出るかと思った。って言うのは誇張しすぎか。




 伯父さんがばたばたと忙しなく階段を降りてきたのと、私たちが仕込みを終えてキッチンからリビングに移動したのは、ちょうど同じタイミングだった。

 紅茶を淹れて三人分のカップに注ぐ。それをテーブルに並べて落ち着くと、ちーちゃんが白い箱のフタを開ける。中身は——壱月亭のシュークリームだった。


「お土産、持ってきてくれたんだ。ありがとう」


「いえいえ」


 椅子に腰掛けるちーちゃんを横目に、私は伯父さんと目配せを交わす。


「——おほん。素晴らしいティーパーティーの前に。これを、ちーちゃん——俺の記念すべきファン第二号へ贈るよ」


 伯父さんが椅子に座る少女の前に膝をついて、A4版の分厚い本を手渡す。

 二階から降りてきた伯父さんが持ってきたのは、『フォト・エスノグラフィック・リポート』——彼がカメラマンになりたての頃に出版されたデビュー作。希少本と言って差し支えないだろう。出版社は教育機関向けの書籍を多く出しているところで、流通もそちらに多く回された。加えて、そもそも発行部数自体が少ない。それゆえ、大きな図書館や学校には所蔵されているが、一般の書店ではまず見かけないのだ。

 橘の図書館でその本を大切そうに抱えるちーちゃんの姿が思い起こされる。


「その本……」


「あげるよ。素晴らしい写真を見せてくれたお礼に。あと、凛咲からはちーちゃんと再会できたお祝いにってところかな」


「わ、わ……っ、感動しちゃいました……、どーしよう」


 ちーちゃんは資料室の本と同じように、伯父さんから受け取った本を抱擁した。それでも心の昂りを抑えきれないようで、彼に勢いよくハグをする。


「うおっと——」


「ちーちゃん……?」


 予想以上の反応にうろたえてしまう。なんせ彼女のルーツみたいなものだ。喜んでくれるだろうとは思っていたけれど、もしや感極まって泣いちゃったりしてないだろうか。

 伯父さんがちーちゃんの頭の上にぽんと骨張った手を乗せる。

 でも、顔を上げた少女は、最高の笑顔で。頬を朱に染めて日向のように明るい声を上げる。


「最高のプレゼントですっ! ありがとう、龍さん、——せんぱい!」




   ***続く***

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