朝《しまい》 #2


 そう、今日は愛すべき妹の高校入学の日だ。

 大学の入学式が先週だったから、すっかり忘れていた。とは言わないでおこう。

 それにしたって浮かれ過ぎというものだ。おかげで身体がすっかり冷え切ってしまったじゃないか。嗜めたくなる反面、数年前の自分も似たようなものだったと思うと、微笑ましさも感じる。結局、今日ぐらい大目に見てやるか、という思いが勝った。


「ご飯もうすぐだからね、あったかいお茶飲んで、ちょっと待ってて」


「はいはい」


 至れり尽くせりだ。電気ケトルの傍に置いてあった湯呑みを手に、言われるがままにテーブルにつくと、まもなく、お椀がふたつ載ったお盆を持ったいちかがやってきた。


「はい、できたて。あったまるよ」


 差し出されたお椀からは、味噌汁が湯気を立てている。いちかが座るのを待って、いただきます、と口をつけた。


「美味しいわ、これ」


 合わせ味噌の中にほんのり香る涼やかさの正体は、柚子か。珍しい取り合わせだ。元々創作には積極的に挑戦する子だが、最近とみに磨きがかかっている。


「でしょでしょ! いただきま〜す」


 手のひらを合わせ、朗らかに挨拶をするいちか。その食卓には、自分と同じメニューに加えて、白米とベーコンエッグが添えられていた。姉とは対照的に、妹は朝に滅法強い。


「高校でも部活やるんでしょ。やっぱりバスケ?」


「んー、なにも決めてない」


「そうしたら、今日の午後は楽しみよね。橘の部活は色んな意味で凄いから」


「午後?」


 妹はきょとんとした顔をする。


「あら意外。結構有名だと思ってたけど。まぁ、それなら秘密にしとくわ」


「秘密かぁー」


 橘名物、新入生熱烈歓迎イベント。知らなかったのか。では、彼女のご機嫌の原因はなんなのか——、探りを入れてみたくなる。


「——で、その割にはずいぶんはしゃいでるじゃない」


「わかる?」


「そりゃね。姉ですから」


 妹の瞳が濡れたように煌めいた。


「なんかね。予感がするんだ」


「予感?」


 問い返すと、いちかは大げさな手振りを交えて、意味のあるようで意味のない単語を発する。


「う〜ん。とにかくラブって感じかなぁ」


 ——ふむ。

 こんなときの妹は大抵、根拠のないインスピレーションに動かされているに過ぎない。しかし記憶を振り返ってみると、それが案外当たっていることも多いのだ。

 特に、今回は。橘での体験が彼女になんらかの刺激を与えてくれるはずだ。


「相変わらず感覚人間ねぇ。あんたのそういうところ好きよ。そうだ、予感ついでに、いいこと教えてあげる」


 ——彼女の予感するところは知りようがないが、後輩のヒワから昨夜得た情報が彼女を喜ばせることは確かだと思う。

 妹は箸で目玉焼きをつつく手を止め、疑問符の浮かんだ顔を向ける。


「いちかが見たがってた写真集、橘の図書館にあるわよ。時間があったら行ってくれば?」


「ほんと!?」


 予想通りの食いつきに、口許が緩んでしまう。

 少女の瞳に瞬く星はさらに三割増しだ。


「ホントもホントよ。後輩が図書室に寄贈されるって教えてくれたの」


「ありがとー! 絶対行ってくる」


 元気よくそう告げると、いちかは朝食をものすごい勢いで平らげていった。




 食事が終わると、いちかは準備のために自室に戻っていった。

 私は引き受けた後片付けを手早く済ませ、テレビのスイッチを入れる。

 ちょうどそのとき、玄関脇の電話が鳴りだす。スマートフォンが主要な連絡手段となった昨今では、あまり出番のなくなった固定電話である。それでも、この連絡手段を好んで使う相手を、私は二人知っている。その顔を思い浮かべつつ、電話のもとに向かう。

 電話の主は案の定、母親だった。ちなみに、思い浮かべたもう一人はもちろん父親である。


「いちか、電話よ! ママ——母さんから」


「はぁーい」


 間もなく、いちかが返事をしながら駆け下りてきた。受話器を渡し、リビングに引き上げる。テレビでは、隣の市の動物園で飼育されている兎の映像が流れていた。一昔前のドラマで使われたBGMに混じって、妹の声が漏れ聞こえてくる。


「うん、ありがと。元気にやってるよ、大丈夫だって〜。お姉ちゃんも居るし。え? 替わる? ——あ、お父さん。そうだね。うん、うん……——」


 両親は、三年前から夫婦揃って北海道に転勤している。仕事中毒な人たちではあるが、やはり家に残してきた娘たちのことが心配になるのだろう。何かあるごとに連絡を寄越してくる。

 そして、余程急ぎの用件を除いて、かけてくる先は家の電話だ。理由は、「その方が家族と話している感じがするから」だそうな。そういうこだわりが両親らしいと思う。

 妹が「またね」と言って通話を切る。さて、用件はなんだったろうと思っていると、


「お父さんたち、近々顔見に来るって!」


 いちかはリビングに顔だけ出して言い、自室にUターンだ。慌ただしい事この上ない。


 通学用のリュックを背負って、いちかが三度降りてきた。上ずった鼻歌は彼女が好んで聴いているガールズバンドのものだ。

 いちかは私に向かって手を振ってから、リビングに入ってくることなく、玄関の方に行く。


「あんた、もう行くの?」


 ここから橘までは歩いても十五分程度の距離。リビングの壁掛け時計を見ると、まだ始業の一時間ちょっと前だった。

 いちかの背中を追いかける。

 いちかは正面へと伸ばした両手に、新品の白いデジタル一眼を掲げている。橘高校入学のお祝いに、私がプレゼントしたものだ。

 玄関まであと数歩。右足を軸にくるりと回転し、流れるような動作でこちらにカメラを向け——ぱしゃり。


「あんたねぇ……。今日の主役のくせに、私を撮ってどうするのよ」


「ふふ」


「貸して。撮ってあげる」


 妹からカメラを受け取り、ファインダーを覗き込む。うん、いい笑顔だ。

 胸元でハートを作るのを見計らって、シャッターを切る。玄関に小気味のよい音が響いた。


「行ってらっしゃい。楽しんできなさい」


「もちろんっ」


 茶色い革のローファーを履きながら、いちかは上機嫌に答える。靴を履き終えたところで、カメラのストラップを、後ろから首に掛けてやる。


「行ってきま〜す!」


「はいはい」


 嬉々として玄関を後にする妹の背中を見送って、リビングに戻る。


 兎特集はまだ続いていた。キッチンでグラスに牛乳を注ぎ、それを携えて席につく。兎は寂しがりと言うが、少なくとも中継モニターの向こうで巣箱を占領し、他の兎に向かって威嚇している彼女(メスらしい)には当てはまらないような気がする。

 四十二型の液晶パネルの向こうにいる小動物たちを眺めるうちに、後輩の顔が浮かんでくる。

 可愛らしく、何事もそつなく、その癖脆い。そして極めつけに寂しがりやだ。ある意味兎よりも兎らしいと言えるかもしれない。部や生徒会を残していったが、果たして上手くやっているだろうか。


 ——絵を、続けているといいのだけれど。


 会わせてあげるのも、面白いと思った。それはいちかにとっても喜ばしいことのはずだから。

 あるいは私にもまた、何かの予感が舞い降りたのかもしれない。

 思い立ったが吉日だ。こういうサプライズは、こっそり気付かれずにセッティングするのが美学というものだろう。必要なものはスマートフォンただ一つ。二階の自室に向かうためテレビを消して立ち上がった。




 このときの私は、うかつにも予想すらしていなかった。そのお節介こそが、私の心残りに火をつけることになるのだと。




   ***続く***

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