film #1


   ***凛咲***




 長く垂れ下がった枝が揺れて、淡く花弁を散らしていく。


 絵に描いたような桜吹雪の彼方にどれだけ目を凝らしても、一年間追いかけてきたあの背中は見えない。それでもこの桜の園に来てしまう私は、きっと諦めが悪いのだ。

 大きな枝垂れ桜の麓、あの人が立っていた場所へと、薄く溶いた絵の具を垂らすように地面に落ちる花びら。それをスケッチブックの上でなぞる。


 ——卒業しても会えますか?


 そんな簡単な一言が、どうして聞けなかったんだろう。

 色鉛筆の先が震えた線を描いて——、止まった。




 ふと、乾いた音が風に乗ってきて耳を掠めた。




 私はスケッチブックの上で固まったまま、一ミリも動かなくなった薄紅色の色鉛筆の先から視線を上げる。


「写真、撮ってもいいですか?」


 立ち込める朝靄あさもやを晴らすように、柔らかな日差しが降り注ぐ。

 四方を建物に囲われた小さな庭園。いつの間にか真新しいデジタル一眼のカメラを携えた女の子が目の前に立っていた。微風にたなびく栗色の柔らかそうな髪。口許にくっきりとした笑みを浮かべ、ベンチに座る私をまっすぐに見つめてくる。

 自分と同じ制服に身を包んだその子は、うちの新入生だ。胸元を彩る臙脂色のネクタイピンのおかげで一目で分かる。


「そういうのって普通、撮る前に聞くんじゃない?」


「あはは。バレてましたかぁ」


 声をかけられる直前に聞こえた乾いた小さな音、あれはシャッターを切る音だった。

 その子は首を傾げ「嫌でしたか?」と聞いてくる。


「別に構わないけど……。ちょっとびっくりしちゃった、かな」


「よかったぁ」


 安堵するように胸を撫で下ろす女の子。

 それにしても、「バレて」なかったら隠し通す気だったのだろうか。へらへらした顔をしているくせに、実は結構強かな性格なのかもしれない。にわかにふてぶてしく見えてきた笑顔のまま、彼女は私の間近に身を寄せてくる。


「あたし、いちかって言います」


「ええと、二年の——河内こうちです」


「よろしくです。せんぱい!」


 そう言い終わるが早いか、いちかと名乗った女の子は出し抜けに私の手を取る。マシュマロみたいに柔らかくて暖かい感触が手のひらを包み込む。勢いに押されるがまま、握手させられていた。

 呆気に取られる私をよそに、いちかちゃんは空いていたベンチの隣に腰を下ろす。


「なにを描いてたんですか?」


「——桜」


 どう答えようか一瞬迷ったせいで、ぶっきらぼうに聞こえたかもしれない。しかし、彼女はそれを気にした様子もなく、枝垂れ桜の巨樹を見上げて吐息をもらす。

 彼女の見つめる先は一面が桜だ。真ん中に鎮座する枝垂れ桜を守るかのように、何本ものソメイヨシノが園を取り囲んでいる。そして、ちょうど両方とも満開になる時期が、毎年数日だけ訪れる。今日がその日だ。


「キレイですよね〜。知ってます? 桜の園って呼ばれてるんですよ、ここ」


「うん、知ってるけど。あなたこそよく知ってるね。今じゃうちの生徒でも知らない人が多いのに」


「お姉ちゃんに教えてもらったんです」


「へえ、お姉さんがいるんだ。何年生?」


「去年卒業しました」


「そう」


 ——去年、か。

 ちょっとしたことから、また感傷が蘇ってくる。


「そだ、絵見せてくださいよっ」


 陽が咲くような声と共に、私の肩にセミロングの栗毛が触れた。三毛猫の髪留め。つむじがはっきり見えるくらいの距離まで、さも自然な感じで身を寄せてくる。

 初対面だというのに全くもって遠慮がない。

 思い耽っていた私は、それに遅れて気が付いて、反射的に身が縮こまる。すぼめた肩が彼女の側頭部を軽く叩いてしまった。


「えっと、ごめん……」


 いちかちゃんはきょとんとしている。


「その——、今日はうまく描けなくて……。恥ずかしいからまた今度ね」


 と断った次の瞬間には、彼女の目線が膝の上で開き放しのスケッチブックに注がれているのを察して、慌てて描きかけのページをめくる。次のページはもちろん見開きまっさらだ。


「あぁん、残念」


 どう考えても不自然に見えたはずだけど、彼女はそのことを追求してこなかった。

 本当に遠慮も何もあったものじゃない。別に後ろめたいことをしているわけじゃないのに、とりあえず彼女が諦めてくれたらしいことに対して、ほっとしている自分がいるのに嫌気がさす。


 それにしたって————、

 顔が近すぎる。完全にパーソナルスペース違反だ。おかげで色々と聞きたいことがあったのに全部忘れてしまった。

 目を逸らしつつ、かろうじて思いついた質問を投げかける。


「——どうして私の写真なんか撮ったの? 普通、逆だと思うけど」


 新入生だし、入学式の日に記念写真くらい撮るだろう。だから「撮ってください」と言われるのなら分かるのだが。彼女が実際に口にした内容は真逆だった。


「絵を描いてるせんぱいがキレイだと思ったからですよ」


 そう言って、少女は日向のようにはにかんだ。心の底から溢れ出る感情をそのまま形にしたような、これ以上ないと言えるほどの笑顔だった。

 間近で見るそんな表情に、また胸がどきりと跳ねる。さっきとは少し違う。胸の奥を急にくすぐられたような、けれど不快じゃない、そんな感覚だ。


「——っ。き、綺麗なんて。私は普通にしてただけだし……」


「そうだ、今度は二人で撮りませんか?」


「え?」


 いちかちゃんは「せっかくだから」と言いながら、ベンチの上に置いたリュックを漁る。中から取り出したのは、先端が束になった三本の棒——撮影用の三脚だった。彼女は立ち上がってベンチから離れると、てきぱきとそれを設置する。

 立てた三脚の上にカメラを載せようとしたそのとき、急に強い風が吹いてきて桜の花びらを舞い上げる。

 少女は素早く一眼を構える。迷いのない見事な所作とともに——、もう一度あの音が閃めく。

 膝の上で開きっぱなしになっていた真っ白なスケッチブックを、はらりはらりと舞う二色の薄紅が彩った。


 花びらが落ちるまでのわずかな余韻。


 破ったのは、興奮しきった少女の感声だ。


「わぁ……っ!!! すごい! めっちゃ、キレイですよ!」


 きらきらと星を散らしたような眼差しでこちらに駆け寄り、腕を絡める。


「え、今度はなに?」


「タイマーすぐきますよ。前、向いてください」


 三脚に仕掛けたカメラに向かってぎこちなく笑いかける。

 小気味よいシャッターの音と同時に——。

 チャイムが鳴り響いた。


「————あ」


 不意をつかれた私は口を開けたまま、さぞかし間抜けな顔で写ってしまったことだろう。

 消してと言おうか、撮り直そうと言おうか、そもそもなんでこんな事になっているんだっけ、とか考えているうちに、


「今度は教えてくださいね! せんぱいが本当に描きたいもの」


 あっという間に撤収作業を終えたいちかちゃんが去っていく。

 一人残された私はベンチに寄りかかり、すぐ後ろに立つソメイヨシノの枝の隙間から空を仰ぐ。朝靄はすっかり晴れ、青空には白い雲がうっすらと翼を広げていた。

 深く息を吐いてみると、意外なほど身体に入っていた力が抜けていく。なんだか物凄く疲れてしまった。


「いちかちゃん、か……」


 ずいぶんと馴れ馴れしい感じだったけれど、どこかで会ったことがあったかしら。ちょっとばかり記憶の引き出しをノックしてみたけど、思い出せそうで思い出せない、という感触だ。

 私が覚えていないだけかもしれない。その可能性は多分にある。でも、不思議と嫌だとは感じなかった。

 まぁ、学年が違っているとは言え同じ校内だ。いずれまた会えるだろうし、その前にひょっこり思い出すかもしれない。


 これが始業式の朝の出来事。

 再会は思いのほかすぐに訪れた。




   ***続く***

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