一凛咲きのブーケ
白湊ユキ
prologue
卒業《わかれ》
柑橘を思わせる甘い香りと共に唇が離れる。
艶やかで長くて、でも指を通すと柔らかい黒髪が、ふわりと視界を流れていった。
今日はなぜだかそれがひどく心細く感じられて、思わず先輩のブレザーの袖を掴んでいた。
「んー、どうしたの?」
夕方に近い時間。窓から差し込む西日が逆光になって、先輩の優しげな微笑に影を落とす。いつだって人の一歩先を見つめている鳶色の瞳。でも、この一時だけは私一人をいっぱいに映している。
私はその目を見つめ返せず、スカートの上できつく握りした拳を睨んだ。さっきから肺の上あたりがずきずき痛んでいた。
そっと、頭のてっぺんになにかが触れる感覚。そこから私のざっくりした短髪を伝って、落ち着いた声が響いてくる。他の女の子より少し低音な、先輩の声音。
「こっち向いてよ、りさちゃん」
後頭部からうなじにかけて先輩の指が滑っていく。そのくすぐったさが、余計に胸の奥を騒がせた。
俯いた私の頭を先輩はしばらく撫でていた。
「紅茶、新しいの淹れてくれない?」
「——はい」
私は先輩の方を見ずに、二人掛けのソファーを立つ。
イーゼルが並ぶ窓際を通り、美術準備室に繋がる扉を手前に引く。
ここは旧校舎の美術室。授業では使われなくなったその教室は、今では先輩と私が所属する部の部室になっている。美術室と壁を隔てて隣にある美術準備室も当然今は使われていないのだけど、なぜか給湯設備はそのまま残されているので、遠慮なく使わせてもらっている。
片手鍋に水を張って火にかける。
あとは椅子に浅く腰掛けて待つだけ。窓の外は灰色の雲が通り過ぎていくところだった。
アールグレイの葉にオレンジピールを混ぜてティーポットに入れ、鍋のお湯を注ぐ。じっくりと三分間蒸らしてから温めたティーカップに。
「いい香り。やっぱり、りさちゃんのお茶は美味しい」
そう言って、先輩は香りを楽しむようにカップに鼻を近づける。
「不思議よね。同じように淹れても、私のとは全然違うんだもの」
「先輩は我慢が足りないんですよ」
いつも蒸らす時間が短すぎる。
「妹にもよく言われる」
先輩は舌を出す。
「今日でこの部屋ともお別れかぁ。なんかあっという間だったわね。——あと、ちゃんと続けなよ、部。私からのプレゼントなんだから」
「はい……」
でも私には、先輩のいない部室なんて想像できない。
「あの——」
「ん?」
「——いえ、おめでとうございます」
「ありがとう」
「式が始まったら時間なくなっちゃうから、今のうちに渡すわ。手出して」
先輩の手が離れ、私の手に残ったもの、それは——臙脂色のネクタイピン。
「これ——」
「りさちゃんに受け取ってほしいの」
私は喜びをうまく表現できただろうか。
先輩は自由で破天荒でその癖なんでもできてしまう。そんな彼女に日本は狭すぎる。ずっと前から理解していた事。
元々なんの約束もない関係なのだ。それなのに、いざその日を迎えると怖くて堪らなかった。
卒業しても——、会えますか?
最後まで聞けなかった一言は今でも、ぽっかり空いた胸の中に残響している。
***続く***
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