再会

「もう帰るのかい?」

「行かなくちゃいけない場所があってさ。またすぐに帰ってくるよ」

 僕は寂しそうにしている祖父母に笑顔でそう告げた。祖父母が表情を変えることはなかったが、僕の意思を汲み取ってはいるようだった。

「凛花ちゃんも祐をよろしく頼むね」

 祖母が凛花に頭を下げる。

「こんなにいい娘さんが祐のそばにいてくれるとは思ってもみなかった。これからも支えてやってください」

 祖父も凛花に向けて深く頭を下げる。

「いえ、私も祐くんに支えてもらってますから。いきなりお邪魔したのにおもてなしまでしていただいて本当にありがとうございました」

 祖父母よりも深く頭を下げる凛花の姿は凛々しかった。

「じゃあ、またね」

「あ、待って。駅まで乗せてくよ」

 姉が僕たちを引き止めた。

「いや、時間あるし大丈夫だよ」

「いいから。ちょっと待ってて」

 姉は走って車を取りに行った。そして日光で黒さがより際立つ真新しいコンパクトカーが僕たちの前に現れた。

「乗って」

「でも、いいよ」

 僕がそう言うと凛花が僕の手を引いた。

「優美さんの言うことは絶対だよ」

 白い歯を見せて笑う凛花は僕よりも姉を知っている。僕は手を引かれるまま車に乗った。

「お願いします」

「はいよ。ちょっと運転荒いけど勘弁してね」

 姉はエンジンをかける前に鞄から何かを取り出した。それは母の通帳だった。

「凛花。これ持ってって」

「え、どういうことですか?」

「今まで母さんのためにあんたが振り込んでたお金が入ってる。今更それを伝えることになってしまって申し訳ないけど」

 姉は凛花に向けて深く頭を下げた。それでもまだ凛花は何もわかっていない様子だった。

「入院費はどうなってるんですか?まだ楓さんの蓄えで何とかなってるってことですか?」

「ううん。それは私が払ってる。凛花が必死になって働いたお金は使えないよ。自分のために使って」

「でも私は楓さんのために働いてるところもあったんです。私のお金も使えば優美さんの負担も減るし」

 姉は大きく首を振る。

「私たちのことは考えなくていい。あなたには守らなきゃいけない人がそばにいるでしょ?」

 それが僕を指していることは間違いなかった。凛花は姉の言葉を聞いて、納得した。

「祐をよろしく頼むよ、凛花。祐も凛花のこと支えてあげてね。これから長い人生が待ってるんだから」

 姉は僕たちが共に過ごしていく長い時間を知っているような気がした。その笑顔は優しさという言葉を具現化しているように柔らかかった。これは姉の凛花と僕に対する愛の形だ。包み込むような優しさ。僕の知っている姉はもうそこにいなかった。

「優美さん、ありがとう」

 姉の気持ちを理解した凛花の声は震えていた。そして目からは涙が溢れていた。それは受け取ったばかりの母の名前が書かれている通帳に小さなシミを作っていた。

 しばらくすると車内は普通の会話に戻っていた。母が倒れてから交わることのなかった時間がそこでまた交わったように思い出話を続ける彼女たちにはしっかりとした絆があることを感じさせた。

「母さんによろしくね。私はたまにしか会いに行かないからさ」

「わかりました。優美さんも体に気をつけて」

「ありがとね。また二人でここに戻っておいでよ。楽しみにしてるからさ」

 僕たちはまたここに帰ってくることを姉に誓った。そして母のところへ向かう。

 母のいる場所。それは僕が凛花と初めて会った土地。スタート地点はいつの間にかゴール地点へと変わっていた。

「楓さんのところに行く前に、アパートに寄ってもいい?」

 凛花についていくと、そこには古ぼけた二階建てのアパートが建っていた。錆びた階段を登る。軋む音は大きく響いていた。僕は鉄の匂いがする手すりを使い、慎重に登っていった。

 部屋の鍵を開けると、そこはベリーの香りが充満していた。久しぶりに嗅ぐ匂い。それは凛花と出会った時の香りだった。

「ごめんね。着替えたかったんだ。ちょっと待ってて」

 そう言うと凛花は奥の部屋へと入っていった。ここは元々楓さんが住んでいたアパートである。だが仕様は既に凛花の好みに寄せられたものとなっていた。ピンクを基調としたものが多い。本棚までピンクだったことには驚いた。その上の段には一枚の写真が置いてある。ピースサインの凛花、それに僕の姉と黒いドレスを着た化粧の濃い人が写っていた。名前を知らないその人はやけに肌が白く、鼻と口が小さい。それに異常なほど黒い髪の毛と薄く細い眉毛。真っ赤に染まっている唇が妖艶だ。

 髪が黒くて太いところと口が小さいところはお母さん譲りだね。遠い昔、母は僕にそう言って微笑んでいた。あの頃は全く化粧気のない人だった。それは家事と仕事に追われていたからだろう。それでも外に出かけるときは少しだけ表情の違う母がいた。

 その母を写真の人に投影する。化粧が濃いだけでそれは紛れもなく母だった。これはきっと楓さんである。そして僕の母、月島祐子である。

「お待たせ」

 姿を現した凛花には目もくれず、その写真を見ていた。

「その写真、このアパートに初めて遊びに来たとき撮った写真なんだ。偶然優美さんがこのアパートにいたのかと思ってたけど、二人暮らししてたんだね。やっとわかったよ」

 母と姉はこの古くて小さなアパートに身を寄せて過ごしていた。母は姉を育てるために一人で店を始めた。その店で姉も働くようになり、母を支えた。二人で力を合わせながら今まで生きてきた。父と僕、母と姉。奇遇にもその子供達はもう親の元にはいない。誰もが今一人で生きていこうとしている。その解れた糸をまた紡ぎ合わせることができるだろうか。

「楓さん、綺麗でしょ?」

「綺麗、だね」

「今も変わらず綺麗だよ。こんな綺麗な人から祐くんが生まれたなんてね」

 僕の顔を覗き込んで凛花は笑った。もう今では全く似ていないいのだろうか。

「でも口が小さいところは似てるかな。それ以外は似てない」

「父親に似てるんだ、僕は」

 そんなことはない。成長してもまだ僕は母に似ていた。父と似ている要素など全くない。

「あ、お父さんに連絡した?」

「え?どうして?」

「心配して電話くれたんでしょ?いつまでも着信拒否は良くないよ。お母さんに会うこと伝えたら?」

 僕の目的は今まで存在していた家族の形を無くさないことだ。父親が結婚する意思を固めてしまえば、離婚していない真実もわかってしまう。母に悪意を抱くかもしれない。それを阻止しなければならないことはわかっている。

 しかし、僕は母の気持ちを聞いてから電話をかけたかった。それから父に全てを話したいと思っていた。僕を探している。すなわちまだ父はあの女と結婚していない。

「母さんに会ってからにするよ。それからでも遅くない」

「わかった。じゃあ、お母さんのところに行こうか」

 写真に写る楓さんは僕に向けて静かに笑いかけている気がした。その笑顔を僕はまだ忘れていない。写真の母に僕も笑いかけた。

 アパートから病院への道のりはそこまで遠くはなかった。都会の施設はなんでも大きいと思っていたが、病院は地元の大きな病院よりこぢんまりとしていた。

「準備はいい?」

「いいよ」

 僕は凛花の手をしっかりと握り直して病院へと入った。広いロビーを抜けてエレベーターに乗り込む。凛花は八階のボタンを押して、扉を閉めた。

「緊張してる?」

「さっき顔を見たから大丈夫」

 とは言いながらも、少しだけ感じていた緊張の原因は母に聞かなければならない事柄がまとまっていないからだろう。エレベーターは速いスピードで登っていく。僕に考える時間は全くなかった。

「ここだよ」

 病室の前にある患者の名前が書かれたプレートに月島祐子の字はなかった。僕は心配しながら凛花の後ろをついていく。

「楓さん。久しぶり」

 凛花が病室のカーテンをゆっくりと開ける。そこには天井を見つめて寝ている母の姿があった。十三年ぶりに見る母の姿は予想よりもひどいものだった。

「凛花かい?」

 ベッドの横に凛花は移動して、椅子に座る。その姿を母さんは顔だけを動かして確認した。僕はまだ視界に捉えていないのだろう。

「しばらくぶりだね。少し痩せたみたいだ」

「そうかな?自分ではそんなに気づかないけど」

 凛花と母の関係は僕と母の関係よりも深く見えた。母はあの家から遠く離れた病院に一人で虚しく過ごしている。その空虚な気持ちを埋めるのは倒れるまで一緒に仕事をしていた凛花と姉だけなのだ。僕より関係が密接なことは仕方ない。それでも少しだけ悔しかった。

「今日はね、もう一人お見舞いに来てくれたの」

 僕を見ながら凛花が手招きをする。僕は一歩、また一歩と踏みしめながら、ベッドで寝ている母の横にたどり着く。永遠に訪れることがなかった時間が今訪れる。

 僕は寝ている母に目線を合わせるように腰を落とす。僕の方を向いた母は、少しだけ怪訝そうな顔をした。

「凛花の彼氏さんかい?」

 その答えは残酷だった。もう僕の顔を覚えていない。母は僕を認識することができていない。言葉を失った。流れてきそうな涙をこらえるだけで精一杯だった。凛花もその答えにうなだれていた

 僕がここまで来た意味はなかった。母はもうあの家族など忘れている。父を愛しているかなんて愚問だ。今母はここで生きているだけなのだ。何もかもを忘れながら。

 しかし、母も僕の顔を見ながら泣いていた。その涙の意味はわからない。

「私の息子によく似てる。夢を見ているみたいだよ」

 母の言葉を聞き、僕は納得した。この空間に僕が現れることなどあり得ない話だと思っている。僕は父の元で元気に暮らしているはずなのだから。

「この人は本当に楓さんの息子だよ。似ている人じゃない」

 凛花は母の動かなくなった右手を握って、そう言った。母は凛花の声を聞くと、左手を僕の顔へ伸ばした。その指が優しく頬に触れた瞬間ダムが決壊したように涙が溢れてきた。

「祐。本当に祐なんだね。ごめんね、父さんのところに置いていって」

 僕は首を振った。そして、母さんの流している涙を親指で静かに拭った。

「でも祐を一人前に育ててくれたじゃないか。父さんに感謝しなさいね」

 今も母は父のことを鮮明に覚えている。それが言葉の一つ一つから垣間見える。僕はそのことに喜びを感じていた。

「母さんはなんで僕を置いていったの?」

「祐は私の子であってお父さんの子ではない。由乃はお父さんの子であって私の子ではないからだよ」

 母の言葉を理解することができなかった。それは血の繋がっていない家族だということ。ただ僕が父の子供でないことを知っているのは母だけのようだった。

 父と母は大学時代に出会った。しかし、父が大学を卒業しその土地を離れると母ではない人と望まない子供を作った。それが僕の姉である由乃。母とはまだ遠距離で付き合っていた頃だった。

 母は短大を卒業して父の地元に就職した。父の住んでいた実家に向かうと彼の両親はおらず、代わりに見知らぬ小さな子供がいた。それが僕の姉である由乃だった。父の両親は共に他界していた。

 母は愛している人が知らない女と子供を作っていたことに驚愕した。だが父はその知らない女に逃げられた。子供は父の元に残して。

 普通であれば、この段階で父と関係を解消するはずだ。しかし由乃を一人で必死に育てる父を母は嫌いになどならなかった。元々女遊びの酷かった父を何度も許してきた。父の血が通う由乃をこのまま片親で育て、不便をかけさせたくはなかった母はそのまま父と結婚した。

 母は父との子供をいち早く作ろうと性行為を重ねた。しかし、失敗が多いまま月日は流れていった。その後父と母の間には二人子供ができたが、その子供は一人が流産、一人が死産だった。母は次第に自分の子供ができないのではないかという不安に苛まれていく。

 父にも様々なストレスがかかるようになっていた。子供ができないこと、そして仕事もうまくいかないこと。それを発散するようにして父は酒に溺れるようになった。酒の金を稼ぐために母はパートを始めた。父が酒を飲めば、全てに精を出せる。母は父の金を使わずに酒に使わせた。

 それ以降父は家でも外でも構わず飲み歩くようになり、生活の基盤がパートだけの収入では回らなくなった。そんな母がもう一つの仕事として始めたのが風俗だった。父には工場の夜勤をすると伝えていたらしい。

 風俗店では本番行為は禁止されている。その中でも本番行為を望む客がいた。母はしつこい客に体を預けていた。そのうちの一人と避妊に失敗した。避妊具が破け、客は母の中で射精したのだった。そのたった一回の失敗が僕の生まれた理由だ。そんなことも知らない父は母が腹を痛めて産んだ初めての子供だっため、祐子の字から一文字を取り祐と名付けた。

 父がそれを知らないのは何故か。それは母が風俗で勤めている間も父と体を重ねていたからだ。二人の愛の形を作り出すために何度も行為を重ねた。

 母も子供ができたと聞いた時は親が父か客かわからなかったそうだ。幼い頃は母によく似ていたため判別もつかないままだった。

 父の子供ではないとわかったのが五歳の頃。母は定期検診のために僕を病院へと連れてきていた。その際に医師から血液型を調べることを提案され、受け入れた。母と父はお互いにA型である。よってA型かO型しか生まれないことになる。僕が父との間にできた子であればそれ以外の血液型はありえない。

 しかし、僕の血液型はAB型だった。母にとってそれは大きなショックを伴うものだった。皮肉にも他人の子供を宿してしまったことに。それでも父は母によく似た顔の僕を幼い頃から愛していた。愛している母との間の子供だと思っているのだから当然である。

 僕が他人の子供だとわかった時にはもうお互いに子供を作ろうとしなかった。父は母との間にできた子供が一人いるだけで満足だったし、子供を増やせば家計の負担が増える。これ以上子供を増やすことはもはや自分たちの生活を脅かすことと同じだった。

 母は愛情を注いだ。それは父が血の繋がらない息子を愛していたから。母自身お腹を痛めて産んだ子供は僕だけだった。父と母の子供ではないが、その間に生まれた子供と同じように母は僕に愛情を注いだ。

 父が仕事を急に辞めたのは僕が六歳の頃。もうアルコール中毒に片足を突っ込んでいた頃だろう。酔い潰れると母に罵声を浴びせるようになった。父は朝になるとすっかり忘れているため、自分のした行為を一切覚えていない。母はその罵声にも耐えた。

 そんな母が離婚を決意したのは父が姉に暴力を振るったからだった。酔っ払った父は姉にだけ手を出すようになった。お前は逃げたアバズレ女と使えない俺の間に生まれた出来損ないの娘だと散々罵倒した。その姿を見て、父の血が通っている姉を守るために離婚を決意した。それはあくまでも父が嫌いになったからではない。

 もちろんその時に僕も連れていこうと決意していたようだが、それでは父を見放したことになる。苦渋の選択を迫られた上で、母は僕を父の元に残した。それは父が更生するために仕掛けた賭けだった。母が初めて腹を痛めて産んだ僕を育てることなく放置するようであれば、母も流石に耐えられず、僕を連れて離婚届を提出したことだろう。

 それから母は僕と父の関係が悪くなっていないかを監視するため、一年ほど僕の登校時間に合わせて通学路を車で走っていたそうだ。たまにしか見ることはできないが元気な僕を見て母は安堵していた。僕を気にかけるのは当たり前のことだ。僕は母と唯一血の繋がっている子供なのだから。

 僕を連れていかなかったのは、僕を愛している父を信頼しての行為だったようだ。今僕はここで呼吸をしている。父は母の期待に応えて、僕を育てきった。全て母の賭けが成功した結果である。

「お父さんの元に由乃を置いていったら、もう離婚どころじゃ済まなかったかもしれない。いずれは由乃を殺して、刑務所に送り込まれていたかもね。ただそれは私があの人を甘やかしてしまったからだよ。結果、祐をあそこに置いていくことになった。それは悪いことをしたとずっと思っていてね。もう祐に会う資格はないし、祐も私に会いたくないと思っていたよ」

 確かに僕を使ったことは間違いない。だが母は家族を守ったのだ。今僕が幸せだと思っていた過去の家族を探せるのは母の行為があったからだった。

「僕は母さんに会えてよかったし、母さんも血の繋がっている僕と会えてよかっただろ?悪いことをしたなんて思わなくていい。今こうやって生きているんだから」

 母は笑わずに、ただ頷いていた。

「母さん、父さんをまだ愛しているかい?」

「ああ、私はあの人を嫌いになんてなれないよ」

「だったら離婚届は破って捨ててほしい」

 母は、疑問を抱いたような顔で僕を見た。

「僕は凛花が二十歳を迎えた時、結婚する。だから僕たちの母親にまた戻ってほしいんだ」

 凛花は家族の愛の形を知らない。母親の顔を知らない凛花にとって、母と呼べる存在は楓さん。つまり僕の母しかいないのだ。僕と凛花の間には、二人が築いた愛の形がある。父と母の間にも愛の形はある。そして血の繋がらない僕たちの家族にも愛の形はある。

「祐。いい人を見つけたね。さすが私の息子だよ。お前達のお母さんとしての仕事はできないかもしれないけど、そうするよ」

 僕と凛花は母の手を握った。窓から差し込む日差しが急に強くなる。その光は僕たちを優しく包んでいるようだった。

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