測れないもの

 僕たちが山を降りた頃、タイミングよく携帯に電話がかかってきた。その主は光司さんだった。

「もしもし」

「おう、さっきはありがとな。母さんに聞いたら祐のお母さんの実家を知ってたよ。大まかな場所しか知らないみたいだけど」

 光司さんが教えてくれた場所は関東地方にある街だった。確かにこれでは情報が少ない。しかし、祖父と祖母の名前を知っていた。これを使えばその地域の電話帳から名前を引き、住所を調査できる。僕にとって実家のある街を知る点が重要だった。光司さんにはいつも助けられる。

「ありがとう。お母さんにもお礼を伝えておいて」

「ああ、あともう一つ。母さんは祐のお母さんに十年前会ったそうだ」

「え、本当に?」

 十年前。それは母が姉を連れて出ていった三年後。

 平日の日中。連絡も無く、急に訪れたようだった。その時、母は僕のことを聞いたらしい。元気に過ごしているかと。光司さんのお母さんは僕が元気な旨を伝えた。すると母はよかったと笑った。

 また帰ってくるから。その言葉を残して、光司さんの家を後にした。その後、母は姿を現してはくれなかった。

 疑問を抱く。何故僕を気にかけたのか。母に聞かなければならないことがもう一つ増えた。

「貴重な情報まで教えてくれてありがとう」

「力になれたならよかった。母さんも祐に会いたがってたよ。またここに帰ってくる事を楽しみに待ってるから。それじゃまたな」

 ほのかな余韻を残して、電話は切れた。僕はまた会いたいという人が二人もいることに少なからず喜びを感じていた。

 そして、ずっと隣で笑っていてほしい人がいることに。

 人は一人では生きていけないという言葉。大人になれば一人で生きていく術を得られるのだから、それは間違っていると思い込んでいた。

 しかし、一人では生きていけない。それは至極当たり前の話なのかもしれない。一人で生きていこうとしても必ず誰かを自然に求め、必ず誰かから自然に支えられる。それが生きるという道のり。

 人を信頼できないという人は本当に誰も信頼できないと自信を持って言えるのだろうか。そんな人にでも必ず大切にしたいと思う人はいるし、必ず大切にしてくれる人がいる。

 僕はそんな道理もわからなくなっていた。幼い頃は必ず誰かの助けがないと生きていけない。

しかし、それは大人になってからも同じだ。一人の世界で塞ぎ込んでいる人も、必ず家族が助けている。夏の暑さ、冬の寒さに耐えるために住処を提供してくれている。金を稼いでこなくとも親が食事を提供してくれる。

 ホームレスだって誰かが使わなくなったものをありがたく使い、誰かが食べなかったものをありがたく頂いている。彼らも一人で孤独に生きているわけではない。

 生きている限り、僕たちは誰一人として一人で生きていく結果にはならない。生きる。それはすなわち、人と繋がる時間を示している。

 そんなことにも気付かず、僕は都会での期間を過ごしていた。こんなにたくさんの人と触れ合っておきながら。それはとても恥ずかしいことのように思えた。

「ねえ、次の目的地は決まったの?」

 それを気付かせてくれたのは凛花なのかもしれない。

「決まったよ。ちょっと調べてから向かうけど」

 とりあえず今日はここまでだ。明日早く起きて行動する。それまで英気を養うことにした。僕たちは街中へと戻り、宿を探す。しかし当日に泊まれるホテルは見つからなかった。

「ラブホでいいよ」

 凛花は諦めたようにそう言った。僕も同意して、近くにある適当なラブホテルへと足を向けた。

 地方にあるラブホテルは古く、いつも凛花と使う綺麗なラブホテルとは違った。どこか陰鬱な雰囲気が漂っている。この中で燃え上がるカップルがいると思うと少し気味が悪い。雰囲気なんてこの空間には全く無いではないか。

「なんか古いし、変な匂いする」

 凛花も同意見だった。彼女もこんなラブホテルに派遣されたら嫌だと思うはずだ。

 僕は古臭い部屋に似合わない、真新しいベッドに体を預けた。ベッドの品質だけは認めざるを得ない。体が沈み込む感覚がやけに気持ちよかった。凛花も僕に習いベッドへと体を投げる。そして僕の腕にしがみついた。

「ちょっと怖い」

「楽になるならこうしてなよ」

「じゃあ、こうしてる」

 しばらく沈黙が続いた後、凛花は静かに寝息を立て始めた。その寝息を聞いていた僕も自然と目を閉じた。

 朝になっても僕の腕には凛花の腕が巻き付いていた。よほど怖かったのだろうか。僕はこのラブホテルを選んだことを申し訳なく思った。

 不躾に起こしてはかわいそうだと思い、僕は動かずに天井を見上げていた。そこには銀河も星座も広がっていない。煙草の脂で黄ばんだ汚い色が広がっている。そこにはどうやってついたかもわからない染みまである。それを見た途端、体が震えてしまった。敏感な凛花はすぐに目を覚ます。

「ううん」

 大きなあくびをした凛花は目元が真っ黒になっていた。化粧を落とさずに寝てしまったことが仇になっている。その姿はまるでパンダのようだった。

「おはよう」

「おはよう」

 いつもとは違う声。男はこういう声を聞くと自分だけにしか見せない姿を見せてくれたと思いこみ、女を独り占めにしている快感を覚えるらしい。それはどの雑誌で得た知識だったろうか。

「お風呂入ったらどうだい?」

「うん。ここ怖いから一緒に入ろ?」

 凛花と初めて会ったとき、僕は勝手に思い込んでいた愛の形を教えてくれなかった人とは風呂に入りたくないと拒んだ。

でも今は違う。これは何故だろう。あの頃と関係性は一緒だというのに。

 僕は結局、凛花と風呂に入った。風呂はジャグジーが付いている大きなもので、凛花は興奮していた。その姿は小さな子供がはしゃいでいるようだった。

 凛花の肌は煌びやかな照明に照らされていた。豊満な胸に柔らかそうな白い肌。それを恥ずかしげもなくさらけ出している。その姿を見て、僕は恥ずかしげもなく股間を膨らませていた。

「ねえ、おっきくなってる」

「自然の摂理だよ。女性の体を見たら意図していなくてもこうなるんだ」

「健康な証拠だねえ」

 凛花は僕の膨らんだ股間を指先で触って遊んでいた。その感覚は下半身から脳へ衝撃として伝わっていく。

 凛花が僕の顔を見る。近くへと凛花の顔が迫ってくる。

「顔が赤いよ、童貞くん」

「だから何?」

「キスしたい」

「なんで?」

「それを女性に聞くのは失礼だよ」

 凛花は僕の唇を優しく奪っていった。その感触は今までのキスとは全く違った。唇が触れ合っているだけなのに、それはとても刺激的で心地良い。凛花の唇はこんなに柔らかかっただろうか。長く続く時間の中で僕はそんな感情を抱いていた。

「フレンチも悪くないね」

「悪いのはシチュエーションだけかな」

「それ、どういう意味?」

 僕はそのことには言及せず、シャワーを浴びた。何度もどういう意味?と聞いてくる凛花には答えずにいた。横文字に弱い姿を見て僕は笑った。

 その後、二人で泡風呂を作り、子供のように泡を顔や体につけて遊んだ。

 凛花は途中でソープ嬢がやるプレイの真似をした。それは僕がよく動画で見た演技紛いのもので興奮というより面白さが優っていた。そのため残念ながら股間は反応しなかった。そのことに凛花はひどくご立腹の様子だったが、僕たちは終始笑顔だった。

「私、初めてお風呂が楽しいって思った」

 凛花が風呂から上がった時に発した一言だ。僕もそれには同意見だった。

 それからいたって普通にお互いの髪を乾かし合い、昨日コンビニから買ってきたおにぎりを食べた。何故かこの空間が我が家のように居心地良かった。

 僕たちは早急に準備をして、地元で一番大きい図書館へと向かった。そこで祖父の名前と実家の地名を元に電話帳を引く。祖父の名前でその電話番号は一つだけ登録されていた。僕はその電話番号をメモする。

 ふと凛花の顔を見ると、血色が悪かった。

「顔色悪いけど、どうしたの?」

「え、ううん。何でもないよ」

 凛花は嘘が下手だ。嘘をつくとすぐに目が泳ぐ。もう自然と自分を隠す癖がついているのかもしれない。

「隠したら失うんじゃなかったの?」

 僕は意地悪かもしれない。だが凛花の血の気を引かせるようなことを平然と今後も行なっていく方がもっと意地悪なことに思えた。

「実はね、ここ昔、私が住んでたところなんだ」

 凛花は青ざめたまま顔を伏せていた。僕は彼女を追い込んでしまった。まさかそんなことがあるなんて思ってもみなかった。凛花にとって忌まわしき記憶が根付いている土地に連れて行こうとしている。凛花の気持ちを考えると一緒に連れていく選択はないと思った。

「ごめん。母のところには僕一人で行くよ。本当にごめん」

 凛花はすぐに頷くと思った。しかし、そうではなかった。目に涙を浮かべたと思った瞬間声を殺して泣きはじめたのだった。

「辛い思いさせてごめん」

 僕は凛花の背中を優しくさする。凛花は首を強く横に振った。そして消え入りそうな声で話した。

「違うよ。私が祐くんに辛い思いをさせたことが悲しいの」

「いや、そんなことはないよ。辛い思い出は僕も思い出したくないし」

「でも、辛くても、嫌な気持ちを押し殺してここにきたんでしょ?」

 凛花の声はどんどん小さくなっていく。

「まあ、そうかもしれない。でもきっと僕より凛花の方が辛い思いをしている」

「辛い思いに大きさはない。祐くんの辛いも、私の辛いも辛いことに変わりはないの」

 森閑とした図書館にその声は轟いた。辛さ。それは人によりけりだ。長年嫌いな友人や親に振り回される人生を送っている人も辛いだろうし、悪気なく投げかけた一瞬の言葉が相手の気持ちを潰してしまい、辛い思いをする人だっている。

辛い思いをした時間が長い、短い。程度が重いとか軽い。そんな縮尺で人よりも辛い思いをしたかどうかなんて、誰にも計ることができない。相手から受けた行為がどれだけ酷かったかを伝えても、その人の受け取り方によって度合いは変わってくる。

 僕の感じている辛さは凛花にとって見れば軽微なものだと思っていた。しかしそんな物差しは存在しない。具現化できるものではないのだ。

 僕は間違っていた。凛花はいつも僕の間違いを正してくれる。凛花が浮かべた涙は自分の辛さに関してではない。僕に合わせることのできなかった自分の弱さを哀れんだものだ。

 これだけ相手を考えることができるのは凛花がたくさんの人と綿密な時間を過ごしてきたからであろう。他人への接し方、他人の考え方、他人の行動。僕はそれを考えずに今まで軽率な言葉を投げかけ、行動してきた。それが人の気持ちを意図せずに踏みにじったのだ。

 僕は幼い。勝手に大人の階段を登りきったと思い込んだ自分が馬鹿らしかった。子供のまま成長もせず、僕は一人で生きていく道を望んだ。たとえ大人になったとしても辿れない道を。

 それを教えてくれた凛花に何かを返さなければいけない。今は彼女の僕に対する辛い思いを払拭することしかできない。できることは必ずやらなければ。

「ごめん、勝手に思い込んでいた。凛花、僕と一緒に行こう。僕が隣で凛花の手を引けば必ず大丈夫だから」

 僕はうつむきながら泣いている凛花の前に手のひらを差し出した。絵本に出てくる王子様が同じことをすれば絵になるだろう。僕には絵になるようなかっこよさも爽やかさもない。この姿を見た誰もが恥ずかしいやつだと笑うだろう。

 だがそれでもいい。彼女がまた僕の手を握ってくれれば、それだけでいい。

「かっこいいこと言えるようになったね」

 凛花はまだしわくちゃな崩れた顔で笑いかけ、僕の手を握った。

 それはとてもぎこちなくて、触れたらまた壊れてしまいそうなほど脆かった。だがこの握られた手は固く、何事にも動じない大木のようだ。昔はこうやって母が僕の手を握ってくれた。それは同じように固く握られていた。

 僕が凛花の手を強く握り続ける限り、危険な道も乗り越えられる。それがどんなに険しかったとしても。

 僕は凛花の手を握りしめたまま、歩き出した。次は二人で壁を乗り越える番だ。

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