青春は遅れて

 僕と凛花は新幹線に乗り込んでいた。あれだけ帰らないと心に決めていた地元に僕は凛花とともに帰っている。人生とは不思議なものである。

 この新幹線に乗れたのは凛花のおかげである。僕の貯金残高にまだ余裕はあるが、何故か凛花が新幹線代を払うと言って聞かなかった。

「ぼっくんよりお金持ってるから」

 これが凛花の口癖である。新幹線の指定席を往復で二人分、何の抵抗もなく買えるのだから、あながち間違いではなさそうだ。

「ねえ、祐くんはどんな街で生まれたの?」

 僕はいつの間にか本名で呼ばれるようになっていた。それは僕が今から向かう場所に行くために必要だからだ。その場所でぼっくんという名前は誰も知らない。

「辺鄙なところ。凛花が生まれた場所より、遙かに辺鄙だよ」

「私が生まれた街のこと知らないでしょ?」

「僕の生まれたところは街なんて大きなものじゃない。今の一言で僕よりも都会で生まれたことがわかったよ」

「なんかむかつくなあ」

 彼女は僕の理屈っぽいところを嫌う。そう言えば初めて恋した相手もそうだった。どうやら僕は内面嫌う女子を好む傾向があるらしい。

「まあ、着いたらびっくりするはずだよ」

 凛花は窓から見える景色に目を移した。まだ都会と変わらない風景が続いている。

「私さあ、北のほうに行ったことがないの。だから雪にすごい憧れを持ってるんだよね」

「まだ残ってるんじゃないかな。僕が家を出た頃はまだ路肩に雪が残ってたから」

 僕の住んでいる地域はそれなりに雪が降り、この時期はまだ雪が多く路肩に積み上がっているものだった。しかし今年は暖冬で路肩に溜まっている雪も少なかった。

「雪が少しでも積もってれば、私は満足だよ」

「そっか。僕は少しだけでも雪が残っていれば嫌になるけどね。帰りたくなくなる」

「それはただ地元に帰るのが嫌だからでしょ?」

「まあ、それもあるけどさ」

 凛花は大きなトートバッグからイヤホンを取り出した。僕の目の前に片方のイヤホンを差し出した。

「音楽聴く?」

「そりゃあ、聴くよ」

「あ、そういう意味じゃなかったんだけどな」

 凛花は頭を掻いて、差し出していたイヤホンを引っ込めた。

ただ一緒に音楽を聴くかと聞いてくれたことに気付かなかった。

「ごめん」

「まあ、いいや。じゃあどんな曲を聴くの?」

「ビートルズをよく聴くよ」

 昔からビートルズを聴いていた。理由は単純で母が好んでいたからだ。僕のように両親の影響を受けて曲を聴いた人は少なくないだろう。

 その中でも僕は「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」という曲が好きだった。これも母の影響だ。この曲だけは自然と口ずさんでしまう。

 凛花は携帯で必死に何かを探り始めた。そして動きが止まった瞬間に丸い目を開いて、僕の顔を見る。

「私一曲だけ持ってるよ」

 凛花はイヤホンを僕の右耳へと無理やり突っ込んだ。流れてきた音楽は「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」だった。

「僕の好きな曲だ」

 凛花と共通して好きな曲があることに、僕は喜びを感じていた。同年代からは古臭いと馬鹿にされたため、誰ともビートルズの話をする機会がなかった。

 二十歳になってから知り合った女の子と共にこの曲を聴くことがこんなにも心地いいだなんて。僕はまた知らない世界を知った。

 凛花の聴く曲は僕の勝手なイメージと違っていた。今時の流行りに乗っている音楽を聴くと思っていたが、流れてくる曲にはクラシックが多かった。聴き馴染みのある旋律もあったが、ほとんどの曲は知らなかった。僕はその緩やかな旋律にうとうとしてしまう。

「着いたよ」

 僕は目を開ける。窓から見える風景はよく見ていた景色だった。雪は全く残っていないが。

「予想よりは都会だよ」

「ここはね。でも僕の地元はこんなもんじゃないよ」

 僕は頭上の荷物棚からリュックを下ろす。そのリュックをしっかり背負うと足早に新幹線を後にした。

 ここから僕の住んでいた地元には鈍行を乗り継がなくてはならない。その本数は一時間に一本あればいい方で、日中は二時間に一本という酷い有様だった。つまり、ここでもたもたしていると電車に乗り遅れ、余計な時間を過ごしてしまうのだ。

「ねえ、歩くの速くない?」

「寒いところで待ちたくなければ速く歩いた方がいいよ」

「疲れるよー」

 不満な声を出しながらも、凛花は足取りを早めた。僕たちはその甲斐あってかギリギリで電車に滑り込んだ。

ボックス席に座ると凛花は背もたれに身を任せ、息を切らしていた。

「祐くんは肺が強いね」

「これでも元陸上選手だから」

 満足に走れはしない。それが体力的な問題でないと知っている。

 今向かっている場所でまた走れるようになるきっかけを見つけられるだろうか。

 地元の駅に降り立つと、肌を切り裂くような冷たさが襲う。まだ家を出て何週間かしか経っていないというのに、その寒さは懐かしさを運んでいた。

「すごい。雪が残ってる」

 道路に雪はないが、駅前の花壇や路肩には泥で汚くなった雪がまだ残っていた。その雪を触って、凛花が喜んでいる。

「本当はもっと真っ白い雪がたんまりあるんだけどね。」

「じゃあ、また来年にでも連れてきてよ」

 凛花は寒そうに手をこすって、その間に息を吹きかけていた。

 僕がまた、凛花をここに連れてくることができたなら、未来はきっと明るく変わっているはずだ。

「寒くない?」

「うん、大丈夫」

 凛花は肩を震わせて、目を泳がせていた。彼女は嘘をつくのが下手だ。僕はリュックに入れていたマフラーを凛花の首にかける。

「え?」

「僕は寒さに慣れてるから」

「ごめん、ありがとう」

 凛花は器用にマフラーを巻いた。首に一周巻き、胸の前で軽く結ぶ。そしてマフラーの端っこを下に引っ張り形を整えた。凛花の首元にはボリュームのある上品なマフラーが巻きつかれていた。同じマフラーを巻いているとは思えない。

「すごいね。その巻き方」

「ニューヨーク巻きっていうの。おしゃれでしょ?」

 マフラーを自慢そうに見せつけてくる凛花は可愛らしかった。僕のマフラーもきっと喜んで、はしゃいでいるだろう。

 僕たちはタクシーを拾い、目的地へと向かう。少しだけ胸は高鳴っていた。それは期待によるものではない。

実家の近くを歩く恐怖からである。どこかで父親に会ってしまうのではないか。そう考えると胸は自然と不愉快に高鳴るのだった。

「緊張してる?」

「あ、いや」

 凛花は膝で固まっている僕の手に自分の手のひらを乗せた。その手は僕の手を握るでもなく、ただ手の甲に置かれているだけだったが、次第に気持ちが落ち着いていく。気付けば僕は凛花の手に安心感を覚えていた。

 僕たちは目的地の少し手前で降りた。そして凛花とともにその家を目指す。過去に見た木彫りの表札はなく、新しい表札は大理石のようなものでできていた。

 一息吐いてインターホンを押すと、重たそうにドアが開いた。そこにはあの頃と変わらない光司さんの姿があった。

「祐か?」

「お久しぶりです」

 光司さんは怒っていなかった。幼い頃から変わらない笑顔でそこに立っていた。

「久しぶり。近くにいても全く会わないもんな」

 そう言って、隣にいる凛花に会釈する。凛花も笑顔を浮かべて会釈を返した。

 光司さんと会うのは本当に久しぶりだった。六、七年は会っていない。

 僕と光司さんはあれから一度も会話を交わさなかった。廊下ですれ違えば挨拶する程度。しかしあの一件があっても光司さんはいつも僕に対して笑顔を振りまいた。それが何を意味しているのかわからず、僕は光司さんを自然と恐れた。

「お元気そうで良かったです」

「もう先輩後輩の関係でも無くなったんだから、前みたいに話しかけてこいよ。いつまでも気を遣うな」

 光司さんは以前からこの言葉を多用する。それが大人になると少しわかってきた。今まで仲の良かった友人がいきなり敬語を使ってきたら、心が離れてしまったのかと錯覚する。

それは先輩後輩の関係であっても変わらないものなのだ。僕が上下関係ばかりに気を取られてしまったために光司さんの気持ちを考えなかった。それが疎遠になった一つの要因である。

「うん。今まで余計なことしてごめん」

「それでいいよ。それより隣のお姉さんは?」

「あ、えっと」

「彼女です。いきなりお伺いしてすいません。祐くん、探したい人がいるっていうので付いてきました」

 困り果てる僕を見かねた凛花が口を挟んだ。彼女という関係以外は嘘をついていない。ただこんなところまで女と二人で来るケースは彼女以外ではあり得ない。友達と伝えたところで怪しまれるだけだ。

「そうですか。祐がお世話になってます。よければ中へどうぞ」

「え、時間大丈夫?」

「ああ、今日は大学もバイトも休みだから気にしないで」

 僕たちは促されるままに光司さんの家へお邪魔した。新しい家には毎日のように訪れていた家の雰囲気は消えていた。姿を変えたリビングには真新しい風が吹いている。

「大したものはないけどよかったらどうぞ」

 光司さんは高級そうなクッキーと紅茶を出してくれた。僕たちはお言葉に甘えてそのクッキーと紅茶をいただく。クッキーの甘みと紅茶の暖かさが僕の心を満たしていくようだった。

「お父さんは元気?」

 僕は明確に答えず、最近あった事の経緯を話した。

「そうか。大変だったね」

「あの、それで聞きたいことがあるんだ」

「何だい?」

「僕のお母さんのこと、何か知らない?」

 唐突で不躾な質問とは思ったが、仕方ない。

 光司さんのお母さんは、僕の母と二人で旅行に行くほど仲が良かった。たまに僕と姉、それに光司さんも混ざって旅行に行った記憶もある。

そんな公私ともに交流のあった光司さんのお母さんであれば何か情報を持っているかもしれない。そう思って、ここに来た。

 光司さんは顎に手を置いて悩んだ後、煮え切らない表情で僕に伝えた。

「正直、俺の母さんも祐のお母さんとは何年も会っていない。ただ実家に帰ったことだけは知っていた。もしかしたら今も実家にいるのかもしれないね」

 僕はそれすら知らなかった。幼い頃の記憶を引っ張り出す。

一度だけ、母の実家に行った覚えがある。新幹線に何時間か揺られ、やっとの思いで着いた場所。そこは僕の地元と似たような田園風景が広がる土地だった。ただ、その土地が一体どこにあるのかはわからない。

「そっか。僕は小さい頃に行ったきりでその実家の在処を知らないんだ。光司さんのお母さんは知ってるかな?」

「そこまではどうだろう。母さんが帰ってきたら聞いてみるよ。祐は連絡先変わってない?」

「うん。あの頃のままだよ」

「そうか。じゃあわかったらすぐに連絡するよ」

「ありがとう」

 光司さんは僕のお礼を聞き終わらないうちに席を立ち、奥の部屋へと姿を消した。

「いい人だね。昔喧嘩別れした人とは思えないよ」

 凛花は息を潜めるように小さな声を出した。

「僕が勝手に重く考えすぎてたみたいだ」

 凛花に倣って僕も声を潜める。

 しばらくすると、光司さんは手に一枚の写真を持って戻ってきた。テーブルに置かれたその写真は陸上大会での記念写真だった。そこには笑って隣の人の肩を抱く光司さんの姿があった。

「俺、今大学で短距離やってるんだ。あの頃は大怪我して諦めかけたけど」

 光司さんはいきなり床に座り、僕に向かって土下座をした。

「あの時は悪かった。祐のこと、何も考えてなかった。本当に申し訳ない」

 僕はその行動と言葉に喫驚した。光司さんは勘違いしている。僕が陸上を辞めた決定的な理由は怪我だ。光司さんのせいではない。

「こうちゃんのせいで辞めた訳じゃない。僕はあの後怪我をしたから辞めたんだよ」

「いや、違う。俺の言葉がプレッシャーになっていたんだ。祐が怪我を原因に陸上を続けていなかったとしても、あの言葉がなければ祐の環境ば変わっていた。俺が祐の足を引っ張ったんだ」

 足が前に出ない日々を思い出す。僕は後方から引っ張られていたのではない。あれは後ろで倒れた光司さんを気にしていたのだ。その幻影が僕のユニフォームを引いていく。

ただ、それを見ようとはしなかった。光司さんをもう傷つけたくはない。走れない理由を光司さんに擦り付けて、これ以上迷惑をかけてはならないと。

心の奥底では理解していた。だから僕は光司さんを遠ざけた。離れれば、もう後ろから引かれる感覚が消えると信じて。

光司さんが浮かべた優しい笑顔に恐怖を貼り付けたのは僕自身だった。

「こうちゃん。僕はずっと走れないことをこうちゃんのせいにしてきた。自分の不注意で怪我をしたのに。こんな関係にしてしまったのは僕のせいだよ」

 僕は光司さんの肩に優しく手を置いた。そして、優しく撫でた。

「そんなことはない。俺が悪かったんだ」

「あの」

 謝り合戦に水を差したのは凛花だった。

「今こうやって仲良くなったんだから、二人とも謝らなくていいんじゃないですか?」

 凛花は僕の手を光司さんの肩から外し、光司さんを床から離した。

「とりあえず握手して」

 言われるがまま、僕たちは握手をする。

「そして、二人で走ってきたらどうですか?家に私残ってるので」

 僕と光司さんは追い出されるようにして、外に出た。まるで凛花がこの家の主のようだった。

「走れるか?」

 光司さんは骸をつかれたような表情をしている。

「いけるよ」

 そう言いながら、足首を入念に回す。正直自信はない。すぐに足が動かなくなる感覚を最近思い出したばかりだった。

しかし、光司さんと共に風を切る感覚に期待を抱いていた。僕と光司さんは公式戦で一度しか対戦していない。その貴重な一戦があの大会だった。

「河川敷まで行こう。そこまで軽くアップしようか」

 光司さんは軽い足取りでランニングを始めた。僕はその後ろ姿を見つめながら追いかける。やはり現役陸上部の足取りは軽い。中学時代から変わらない大きなストライドが懐かしかった。

 僕と光司さんはいつもこうやって堤防まで走った。幼い頃は一生懸命走っても背中が離れていく風景を鮮明に思い出す。

いつしか、その背中は目の前に近付いていた。もう、すぐそばまで。だが、僕は追いつくことなく陸上を辞めた。

 そして僕はまた幼い頃に戻る。背中は少しずつ離れていく。光司さんが防いでいた冷たい風が顔に当たって痛い。そして呼吸は乱れ、汗が目に入る。

 それでも僕は楽しかった。自然と笑顔になっていることがわかった。

 僕が河川敷に着く頃、光司さんはストレッチをしていた。

「遅いぞ」

 光司さんの台詞は昔と全く変わらない。追いつけない僕にいつもこう言っていた。いつか光司さんに追いつく。そう思って毎日背中を追っていた。

「ごめん。もっと走らなきゃね」

 光司さんは静かに笑って、河川敷に降りていった。僕もその後を追う。そして川にかかる橋の下で足を止めた。

この大きな橋の横幅はほぼ百メートルである。幼い頃に光司さんが教えてくれた。雨の時も濡れずに練習のできるこの場所は、僕たちにとって理想のフィールドだった。

「寒いからしっかり体ほぐせよ」

 僕は遠い記憶を呼び覚ましながらストレッチをする。きっとぎこちない動きだろう。

 光司さんは芝生からアスファルトへ変わる場所に足を置いた。そしてクラウチングスタートの構えをする。僕もその横で同じようにスタンバイする。

「号令は祐がかけろよ」

 それは幼い頃、光司さんより走るスピードが遅かった僕の特権だった。僕が号令をかければ、僕のタイミングでスタートを切れる。それだけ有利になるのだ。

しかし、そのおかげで号砲に合わせてうまくスタートが切れず、ネックになった。今となればいい思い出である。

「準備はいい?」

「いいよ」

「よーい。スタート」

二人はほぼ同時にスタートした。僕の足は一歩目で大地を強く蹴る。感触は悪くない。そのまま二歩目、三歩目と順調に足を前に出していく。その回転数は周りの風を巻き込んで、上がり始める。

回りすぎてバランスを崩さない程度に、だが限界に近い回転数を保ちながら、スピードを上げていく。スピードが上がっていけばいくほど僕の中から酸素が消えていく。歯には折れそうなほどの力がかかり、頬は体の上下運動と呼応するように規則正しく揺れていく。

 僕の後ろに光司さんはいない。先を走る光司さんの背中が見える。その心配はいらない。

勝ちたい。でも光司さんはあの頃よりも速くなっていた。

 光司さんの背中がゴールへとたどり着き、緩やかにスピードを落とした時、僕は幻影のゴールテープを切った。僕の肺はすぐに酸素を求める。

「なんだよ、速いじゃん」

 光司さんの息はすでに整っていた。平然と僕を褒める。それは久しぶりに感じる喜びだった。

まだ僕は走れる。それを光司さんに証明した。いや、それ以上に光司さんと走って、認めてもらったことが嬉しかった。

「意外と走れたよ」

「そうじゃなきゃ困るよ。俺が昔から意識しているライバルなんだから」

 光司さんは膝に手を置いて呼吸を整える僕の背中を軽く叩いた。

「こうちゃんとまた走れてよかった」

「俺もだよ。でもこのやりとりは少し気持ち悪いな」

「青春真っ只中の少年漫画みたいだ」

 僕たちは大きな声で高らかに笑った。その声は橋桁に当たり反響した。止まった青春が今動き出した気がした。

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