踏み出すこと

 凛花の寝顔を見ながら僕は彼女の頭を撫でていた。今まで自分だけが苦悩を抱えて、不幸な人生を歩んでいるとばかり考えていた。

しかし凛花はもっと辛い経験を味わって、一人で模索しながら必死に生きてきたのだ。

凛花の本当の名前を知らなくてもいい。彼女はもう身も心も凛花なのだ。過去の名前は必要ない。

この世に生を受けた者は、皆、絶望を喰らい尽くした先にある微かな光を探す。その微かな光を手繰り寄せるために、日々命を燃やし続けている。

「ううん」

 眉間にしわを寄せて、凛花は僕の体にしがみついて、目を覚ました。

「おはよう。大丈夫?」

 凛花は冷や汗をかいていた。これだけの汗をかいていたのに、気付けなかった自分が情けない。

「思い出したくないことが夢に出てきちゃった。びっくりしたでしょ?ごめんね」

「いや、いいよ」

 僕は冷蔵庫から未開封のミネラルウォーターを取り出して凛花へと差し出す。

「ありがとう」

 凛花は喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲んだ。

「話の途中で寝ちゃったよね、ごめん」

「大丈夫だよ。これ以上話したらまた眠れなくなるよ」

 乾いた凛花の笑い声が部屋に響いた。乾燥しきった室内にその声が溶け込んでいく。

「嫌いになった?」

「どうして?」

「自分の嫌な過去を話したから」

「それを話してくれたから、僕は凛花を信じようと思えるんじゃないかな。凛花が僕を信じたように」

 凛花の表情は明るく変わった。それは大切な何かに気付いたような表情だった。

「電話したのはね、隆一を街中で見つけたの。私が今どこに住んでいるかもわからない隆一がここまで来るはずない。だから大丈夫って思ったんだけど、一人でいるのが急に不安になってさ」

 僕は隆一が嫌いになっていた。凛花の気持ちを壊したのは紛れもなく彼である。そんな奴がもし本当にこの街に触手を伸ばしているのならばこの手で制裁を加えたかった。

「不安になったらいつでも連絡していいから。僕でよければ匿うくらいするよ」

 凛花は静かに笑った後、ベッドから起き上がり煙草を吸った。

「ぼっくんも家出してきたの?」

 凛花が隠さず伝えてくれたように、僕も包み隠さず話すことにした。いや、僕は元からそういうことができないだけだが。

「ああ、僕も家出組だよ」

「このホテルに呼ばれた時、そう思った。ここで生きてる人じゃないんだなって」

 僕は父親が愛人を連れてきて結婚を決意している話をした。その話を凛花は真剣に聞いてくれていた。

「お父さんに裏切られた感じ?」

「まあそうかもね。父親が酒飲みじゃなければ母親も姉も出ていかなかっただろうし。何より僕と歳の違わない女を連れてきたのが気に入らなかった。その女を母親と呼ぶくらいなら縁を切ろうと思って」

 凛花は煙草を吸い終えてベッドへと戻ってきた。そして僕の体へ密着するようにして座った。凛花の胸の感触を腕に感じると体が反応してしまう。

「ぼっくんは昔の家族が好きだったんだね」

「あの四人で過ごしていた時が幸せだったのかもね」

「私は本当のお母さんの顔もわからないし、隆一がいる家には絶対帰れないけど、ぼっくんはまだやり直せるんじゃない?」

 いや、できる訳がない。具体的な解決策さえないと言うのにどうやって打開すればいいのだろう。

 ただ凛花の言い分は真っ当だった。家族の形が戻ってきたら、僕はどれだけ幸せだろう。

そして、僕の脳裏には母親の面影が色濃く残っている。今はあの頃よりシワもシミも増えて、お婆さんに近付いているかもしれないが、面影はそんなに大きく変わるものではない。

「お父さんは今でもお母さんを好きなのかなあ?」

「それはないんじゃないかな?そうだったら新しい女を家に連れてくることなんてないだろ?」

「そっかあ。でもお父さんがお母さんを嫌いになる理由はあったのかな?」

 父は、母を愛している。そうでなければ、母の置いていったレシピを見て、作った角煮に感極まるはずがない。母に対する思いは強かったのだと思う。

「それはなかったかもしれない」

「お父さんに会う気は起きない?会って気持ちを伝えたら何か変わる気がするけど」

 その気持ちはまだなかった。父と若い女が愛し合っている汚れた実家に踏み込む勇気はない。いや、微塵も愛を知らない僕が父を説得できるわけがない。戻っても無駄だと決め付けていた。

「言うのは簡単だけど、行動に起こすことって難しいよね。ごめんね」

「いや、いいんだ。僕はまだ行動を起こせるほど精神が整ってないから」

「どういうこと?」

「人を愛することかな。僕はそこを全く知らない」

「愛すること?」

「父親のように人を愛したことがない」

「お母さんのことを好きだったんじゃないの?」

「そう感じるのは母が僕を愛してくれたからさ。僕の自発的な愛情じゃない」

 凛花は難しいなあと言って、天井を見上げた。天井には人工的な星が瞬き、僕の知らない星座が広がっている。

どこか遠い世界に広がっている銀河。そこに人間が辿り着くのは遠い遠い未来の話。きっと僕にとっての愛も、遥か先の未来に置かれてある気がした。

「じゃあ、愛を向けてくれたお母さんに会いに行けばいいんじゃないかな?普通なら愛していた息子だけを置いていくことはしないはず。何かお父さんの所に置いていく理由があったのかも」

 あの家に僕だけを置いていく理由。それは今までずっと考えてきた。何故姉と一緒に連れていかなかったのか。僕を嫌っていたならば当たり前かもしれないが、それならば僕に溢れるほどの愛情を向ける意味もなかったはずだ。

「それを知ることで何か変わるかな」

「それはやってみないとわからないよ」

「でも、僕には何も情報がないし」

「じゃあ私もついて行くよ。一人じゃ心細いってことでしょ?」

 凛花は僕の気持ちを理解しているようだった。僕は一人でそんな無謀な挑戦を決行できるほど強くない。一人で生きていくことを望むのは強がりでしかない。僕はすぐに凛花を求めていた。それが現実だ。

「え、でも仕事は?」

「そんなこと心配しなくていいよ。今までもなんとかして乗り越えてきたんだから。それに、ぼっくんも私と一緒なら乗り越えられるかもしれないって勇気が出るでしょ?」

 凛花は親指を自信満々に突き出した。僕の叶えられない夢を彼女が叶えてくれる気がした。

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