切なさは

 私は中絶を行うことを決断した。この子を産んだとしても、経済力もなく、家族も失った私には育てる能力がなかった。

愛がないという身勝手な感情だけで殺されるこの子を考えると心が痛んだが、産まれた後にも苦労をかけさせる可能性がある。そこまでの重荷をこの子に背負わせたくはなかった。

 花凛さんと共に病院へ向かい、検査をしたところ、もうすぐ妊娠六ヶ月を迎えることがわかった。妊娠は中期に入っており中絶するには麻酔をしての手術が必要で、入院も必須事項であった。それを聞いただけでも恐怖を覚えた私はそれ以降医師が何を話していたか覚えていない。

 ただ一つだけは覚えている。未成年の中絶には親、パートナーの同意が必要だということだ。私はその医師から発せられた言葉を聞いて我に返った。私は中絶を断るしかない。この子に一生謝り続けながら、育てなければならない。ごめんね。そう心でお腹の子に伝えた瞬間、また涙が溢れ出た。

その時、花凛さんが鼻をすすりながら泣き始める。

「あの、この子は強姦されたんです。親も死別していて、いない状態ですから、私が保護者代わりとして一緒に生活しているんです」

 言葉を詰まらせながら話す花凛さんは弱々しく見えるだろう。しかし私にとってはとても頼もしく思えた。まるでスポットライトを浴びている大女優の演技のように現実味のある嘘は簡単につけるものではない。

 医師はその演技に感動したからかどうかはわからないが、納得したようだった。入院する部屋も空いているため、すぐに手術が行われる段取りが組まれる。とはいっても私には下着も服もない。それも全て花凛さんに頼る他なかった。

 部屋は個室だった。何もない、まっさらな部屋。壁にかけられている知らない画家が描いた油絵だけがやけに目立っていた。

 手術は明日の午前中に決まった。全身麻酔での手術は寝ている間に終わると花凛さんに言われ、痛みを感じないのならまだ良いと吹っ切れた。

 手術は確かに寝ている間に終わったが、起きた瞬間から下腹部に鈍い痛みを感じていた。そして私のお腹は平らに戻っていた。お腹をさすると、痛みが増す。通常であれば治まるはずなのに。花凛さんの言っていた言葉が現実味を増す。

六ヶ月共に過ごした子がもういない。一人の命を奪った、その痛みを背負わなければならない。真剣に人生と向き合い、もう二度と同じ経験をしないために。

 私は四日後、無事に退院した。ただ死産した子供の手続きをすることが何よりも心を痛めつけた。最後に子供を火葬した時は自然と涙が溢れた。これが正解だったのだと思い、心を納得させても涙は止まらなかった。そして私が望まなかった子供は無縁仏となった。

思えば、火葬や中絶にかかった費用を当時は意識してはいなかった。どれくらいのお金を花凛さんが払ったのか全くわかっていない。それを花凛さんが私に告げることはなかった。

 それから私は中学に行かず花凛さんの店の手伝いをして暮らすこととなった。お客さんたちは人柄が良く、明らかに若い私が働いている理由すらも聞かなかった。

 ある時私はカウンターにある紅葉の山を描いた小さなフォトフレームを発見する。真っ赤に燃える紅葉は綺麗な三角形を色付けていた。

「この絵綺麗」

 花凛さんはテーブルを拭いていた手を止めて、カウンターを見つめた。

「その絵、私が描いたんだよ」

 私はその話をすぐに信じた。幼い頃に見た絵本が手作りだったことを思い出したのだ。あの絵は花凛さんが描いたものだった。

 花凛さんは中高と美術部に所属していた。水彩画を得意とし、部活内でも実力は上位で数々のコンクールで好成績を収めた。その後は仕事の合間に時間を見つけて作品を制作していたそうだ。

「いつ描いたの?」

「これは十九歳の頃。色々と悩んでた時に描いたんだよ」

 どこまでも続くような広い青空。生命の息吹を感じる山々の色。その絵には思いつめている様子が全く見えなかった。

「よくこんな明るい絵を描けたね」

「描く理由があったんだ」

 花凛さんがそれ以上語ることはなかった。柔らかい笑顔を浮かべる花凛さんに描く理由を訪ねようと思ったが、私もそのことについてそれ以上求めることはなかった。

 好きな人と過ごす日々がこのまま長く続けばいいと思っていたが、そんなうまい話はない。私が買い出しに出かけていた最中、ピンクルージュに警察が訪れたのだ。私の父は捜索願を警察に出していた。偶然、この店に中学生くらいの女が働いている旨の通報も重なり、警察が捜査に来たとのことだった。

「まだ警察にはバレてないから、もう店に出なけれれば大丈夫」

 花凛さんは落ち着いた様子で私にそう伝えた。しかしそれが時間の問題であることは人生経験の少ない私でもわかることだった。

 次の日、私は花凛さんのアパートで寝て過ごした。部屋の電気がつき、私は目を開ける。ふと壁にかかっている文字盤の大きな時計を見ると、日付を跨いでいた。

「おかえり」

 花凛さんは私の言葉にただいまと返さなかった。深刻な表情で私の前に来る花凛さんを見て、何かがあったことは容易に察することができた。

「今日、若い男が探しにきたよ。制服で現れたから未成年は来ちゃダメだって追い返したけど」

 私は身震いする。きっと隆一がどこからか情報を聞き、店に顔を出したのだ。

「ごめん。私のせいで花凛さんのお店が大変になってる」

「店のことなんて気にしなくていいよ」

 花凛さんから初めて溢れ出る自信を感じなかった。花凛さんもいつまでこの生活を続けられるか予想できていないのだ。私はもうここにいてはいけない。花凛さんの生活を奪うためにここに転がり込んだわけではないのだから。

「花凛さん。私、ここから出るよ」

「ここから出るって、その先どうするのよ」

 私は答えに困る。何もできないからここに来たというのに。私一人で生きていく術など、この国にはない。

「馬鹿なことは考えないで。とりあえずここにいなさい」

「私、どこでも働けるよ。生きていく道はここ以外にもある」

 花凛さんは唇を噛み締めた。

「そんなに人生は甘いもんじゃないよ。これからの人生が壊れる可能性だってあるの」

「花凛さんの人生を壊す方が嫌だよ」

 私がそう言うと、花凛さんは床に手を置き、吐くようにして泣いた。私が初めて見た姿だった。自分の無力さを嘆いているように見えた。私は花凛さんの背中をさすった。あの時花凛さんがしてくれたように。

 私は花凛さんに愛されている。勝手にそう感じた。こんな言葉を親から聞いたことはなかった。それを何ヶ月かしか過ごしていなかった血の繋がらない仮の母親からもらった。それは初めての感情だった。

「ありがとう。勝手に上がり込んだ私をお世話してくれて」

 花凛さんはしばらく声も出せないほど泣いていた。床を叩き、私にも聞こえないような小さい声で何かを発しながら。

 私はその間に何も言わずここを去ろうとしたが背中をさする手を止めることで、花凛さんがもっとおかしくなるのではないかと思い、さすり続けた。

 しばらくすると、花凛さんは徐々に呼吸を整え始めた。その姿を見て私は腱鞘炎になりかけた手を背中から離し、鞄を肩にかけた。

「本当にこの家から出るの?」

 花凛さんは消えそうな声で言った。

「うん。短い期間だったけどありがとう」

 私は正座をして、床に頭をつけた。私を匿ってくれたお礼として。

 花凛さんは立ち上がろうとする私の腕を掴んだ。指の跡が残ってしまうのではないかと思うほど強く。しばらく同じ力で掴み続けたあと、すっと力を抜いた。そして何かを思い立ったかのようにメモ用紙へ文字を書き込み、私へと差し出した。

「ゆっちゃん、ここに行きなさい」

 私はゆっちゃんの一言で自分の名前を思い出す。しばらく思い出すことのなかった、父がつけた忌まわしき人生を辿る名前を。

「ここに行けば、必ず力になってくれる人がいるから」

 名前に気を取られて、受け取ることを忘れていたメモを握らされた。花凛さんに押し込められたメモはもう私の手の中でぐちゃぐちゃになっている。

「ごめんね。花凛さん。最後まで迷惑かけて」

「私が何もしてあげられないのが悪いよ。ごめんね」

 私の手を包む花凛さんの手のひらには体温以外の暖かさがあった。そこには間違いなく違う温かさが存在していた。

「花凛さん」

 私の声に反応し、花凛さんは顔を上げる。

「またここに帰ってきたときは、おかえりって言って迎えてね」

 花凛さんは久しぶりに笑顔を見せて、頷いた。

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