残酷な運命

 駅の大きな時計の針は午後八時を指そうとしていた。まだ中学生が歩いていても怪しまれる時間ではない。

しかし私の目指しているその店がどこにあるかはわからなかった。道端の柵にくくりつけられている地区の案内板に目を向けてもレッドルージュの文字はない。

 レッドルージュがどのような店かは察していた。女性が男性を相手にする仕事。俗にいう風俗関連のものだろうと。勿論、中学生が制服のまま入店することは許されないかもしれない。だが、そんな可能性を鵜呑みにする余裕もない。

 私は派手な若い女性が現れないかと願っていた。風俗で働いている女性は金を持っているため自然と服装も豪華で派手になると勝手に予想している。幸い平日の駅前は賑わっておらず、そのような人を探すのは容易だった。花柄のワンピースに高級そうなワニ皮のバッグを持つ、異様な女性を発見する。

「あの、お聞きしたいことがあるんですが」

 怯えながら聞く私をその女性は蔑むように眺めた。

「何?」

 冷たい視線が私に送られる。この女性も男の前では猫のように甘えるのだろうか。そう思うと、気味が悪かった。

「お店を探してるんです。レッドルージュっていうお店を」

「そこなら近いけど。まさかそこで働こうとしてるの?」

「いえ、知人がいるんです。職場しか知らなくて」

 訝しげに彼女は私の体を覗き込む。顔が近付くと煙草の香ばしい香りがした。しかしすぐに甘い香水の匂いが鼻を支配する。

「ふうん。まあ困ってるみたいだから連れてってあげるよ」

 彼女は店の方向に顎を向けた。私は少し離れながら付いていく。

 レッドルージュは駅前から十分ほど歩いたところにあった。赤い看板には薔薇が一輪咲いている。その横で可愛くデフォルメされた白ウサギが飛び跳ねており、その周りを様々な色の電飾が煌びやかに彩っていた。

「私仕事あるからじゃあね」

 彼女はワンピースの裾を揺らしながら、手を振った。

「あ、裏口から入ったほうがいいよ。この先にあるから」

 彼女は背中を向けたまま裏路地を指差した。私はその後ろ姿に深々と頭を下げて、指定された方向へと歩き始めた。

 ゴミ袋が山積している汚い裏口。華やかな世界の裏側にあんな世界が広がっている。綺麗な女性に裏があるのはあながち間違いではないのかもしれない。

 スプレーで描かれたストリートアートで埋め尽くされている扉を開けると、すぐ目の前が嬢の待合室となっていた。煙草の煙が部屋を霧状に包んでいる。その中にいる何人かの嬢がこちらを向いた。

「あんた誰?」

 百七十センチはあろうかという大柄な女性が煙草の煙を吐きながらゆっくりと歩いてきた。

「あの、人を探していて」

 私はポケットに入れていた名刺を彼女に差し出す。彼女はその名刺を眺めると怪訝な顔をしたが、すぐに理解したようだった。

「こんな昔の名刺、どこで拾ったの?この人はうちのママだよ」

 どうやらこの店は風俗店ではなく、スナックだった。歴史のあるスナックで、初代のママは一昨年病気で亡くなった。そのまま閉店になる予定だったが常連客の多いこの店を守りたい想いの強かった花凛さんがママとなり経営を続ける流れとなったそうだ。

「ママ、お客さん来てるよ」

 カウンターには洗い物をしている女性の姿。背中まで伸びる艶やかな長い髪。鼻が高くて、肌の色は健康的に日焼けした小麦色。しかしワンピースから伸びた脚は折れそうなほど細い。あの頃のまま、変わらない花凛さんの姿だった。

「もうすぐオープンだから閉店後に来てって言って」

 花凛さんが洗い物を終え、手を拭いた後にこちらを向いた。目の前に知らない制服を着た少女がいる景色にまずびっくりしたようだったが、私の顔を眺めた後、目から涙をこぼした。

「え、どうして?」

 花凛さんはゆっくりと私の元へたどり着くと、泣きながら私の頬を包むように触った。そして優しく抱きしめて、髪を梳きながら頭を撫でた。

「ごめんね。急にいなくなって」

 花凛さんは悪くない。父が勝手に女を作って、花凛さんから離れていった。それでも自分が悪いと言わんばかりに詫びていた。

 抱きしめる手はとても温かった。私は初めて自分の意思で人の背中に優しく手を回した。

 感動的な再会の直後、店へと人が入ってきた。花凛さんに促されて、私は奥の部屋へと避難する。花凛さんの仕事が終わるまで私は待合室でテレビを見ながら待っていた。

 肩を叩かれる感触。私が重い目を開けると小さなブランケットがかけられていた。

「ごめんね。遅くなって。とりあえず一緒に帰ろうか」

 花凛さんはそう言ってさっと店の電気を消すと、何も聞かずに家へと連れていった。

 花凛さんのアパートは、店から数分の距離にあった。リビングは私の住んでいたところよりも広かった。ものの少なさがそう思わせる原因でもあるが。

「お店でおにぎり作ってきたんだけど、食べる?」

 皿の上に乗せられたそれは私の記憶を蘇らせた。昔、花凛さんにお腹が空いたというといつも簡単におにぎりを握ってくれた。中身はごま油が和えられた、たたき梅。ご飯の塩加減も丁度良く、私のご馳走だった。

 久しぶりに見るおにぎりは昔と違い、萎れた海苔が巻かれていた。豪華なおにぎりに気持ちが高ぶった。

「食べたい」

「無理はしないでね」

 花凛さんは不安そうな顔をしていた。その表情の意味はまだ知らない。

 しかし私は気にせず大きく口を開けておにぎりを頬張った。海苔の香りが鼻から抜けていき、いい塩梅の塩加減が舌を躍らせる。中身は昔と変わらないたたき梅。まろやかな酸味と塩気、それに香ばしい香りがたまらなかった。

「美味しい。すごく美味しい」

 花凛さんは机に頬杖をついたまま、少しだけ口角を上げて私を眺めていた。その表情の変化に私は少しだけホッとした。

 私のお母さんが目の前にいる。気付けば泣きながら、おにぎりを頬張っていた。

「よかった。その具懐かしいなって思いながら作ったよ」

 手についたごはん粒まで残さず舐めるようにして食べた。その姿に花凛さんはまた目尻を下げている。

「ごちそうさま」

「お粗末様」

 花凛さんはそのまま流しへ向かい、皿を洗った。私には何も聞かずに。花凛さんには伝えなくてはならない。私がここに来た理由を。

 花凛さんがリビングへ戻って来たタイミングで私は口を開いた。

「急に現れてごめんなさい」

「それは気にしなくていいよ。そんなことより、お腹どうしたの?」

 花凛さんはすでに気づいていた。どのタイミングで知ったかはわからないが、先ほどの不安そうな顔をした時には全て知っていたのだろう。それでも私が愛のない妊娠をしてしまったことを花凛さんに伝えたくはなかった。せめても愛のある望まない妊娠と受け取ってほしかった。

「妊娠した。堕したいけど親には言えなかった」

 花凛さんは私の隣に来ると肩をしっかりと掴んだ。

「それは産む気がないってこと?」

「育てる力もないし、いらない」

 そう言った瞬間、花凛さんの平手が私の頬を貫いた。

「勝手に妊娠しといて、何言ってるの?今もその子はお腹の中で生まれる日を夢見ながら必死に生きてるんだよ。身勝手な中絶をすることはひとつの人生が終わることなの。それをしっかり覚えておきなさい。それでも、それでも中絶をするなら、痛みを一生身体に刻み込んで、子供の亡骸を背負いながら生きなさい」

 花凛さんの表情は暗いままで、目には涙を溜めていた。これを望まない妊娠だったと伝えられたなら状況は変わったのだろうか。花凛さんの心が一瞬だけ離れる気分を味合わずに済んだだろうか。

 花凛さんの表情を見れば見るほど私はいらないと言ったことを後悔する。この子がお腹の中で必死に生きている時間を見ようとはしなかった。私が今必死で生きようとしていることと同じように。ただひたすら。

 私には頼る人が少なからずいる。でもお腹の子は生まれるまでの間孤独に耐えながら、両親の顔を見るためだけに辛い十月十日を過ごすのだ。私を信じて、この子は生きている。この子の思いを私は無下にしようとしている。

 そう思うと、また涙が溢れた。愛のない元に生を授かったこの子の運命を悔やんだ。

 この子のために私は真実の愛を築かなければならない。もう、こんな経験はしたくない。

いつか、私が恋をして、それが愛に変わって、その形を授かったならば、必ずこの子の分まで愛そう。この子の痛みを、激しい痛みを、一生身体に感じながら。

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